9月4日 時の風化
ここ1週間ほど、未完成だった絵に、向き合っていた。全てが変わっていく今、確信出来る、何かが、必要だ。1度、深呼吸した。筆を取る。これまでの拘りを捨てる事で、漸く出口が見えた気がしていた。
ブー、ブー。
その振動音で、我に返った。集中力が切れ掛けていたため、ちょうど良い。
鞄の中からスマホを取り出した。
水木葵
その表示に、驚いた。いつもメール連絡だったのに。取り敢えず通話ボタンを押した。口を開く。
「もしもし?」
「もしもし。水木です。お時間、大丈夫ですか?」
「はい」
「いくつか決定事項がありまして・・・。実は、今、近くまで来ているんですよ」
突然の事に、戸惑った。頭の中で、この後の予定を確認する。口を開く。
「ええ。大丈夫です」
「では、この間のお店で、待ち合わせても、宜しいですか?」
「はい。宜しくお願い致します」
「こちらこそ、宜しくお願い致します。では、伺わせて頂きます」
通話終了のボタンを押した。伸びをした。全身に充実感が広がっていく。
ロッジ風の建物に着いた。「コンキリエ」という白いペンキで描かれた、看板を確認すると、その下にある、木製の、分厚いドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
冷気が、押し寄せた。そこで、瑞恵さんの笑みに気付いた。カウンターへ向かう。すると、彼女が、口を開いた。
「こんにちは」
「こんにちは。実は、また、打ち合わせなんだ」
言った所で、ベルの音がした。振り返る。すると、そこには、水木さんがいた。近くにいたのかと思うと、何だか怖い。
それぞれテーブル席に着いた。開口一番、水木さんが、到着が速かった理由を説明した。
「実は、近くに用事があって」
「そうなんですね。確かに、早かった」
「フフフフ」
「お待たせしました」
瑞恵さんが、注文の品を運んで来てくれたのだ。
それぞれの前にカップを置いた後、「ごゆっくり」と言って、笑みを浮かべた。今日は、その笑みを何とも思わない・・・。
「以前、お知らせした件なんですが」
その声で、我に返った。
水木さんの話によると、以前、仮だと知らされていた件は、ほぼそのまま確定したそうだ。
「イタリアから、駆け付けてくれる人もいて。何でも、大森さんが、現地でスカウトしたらしいです」
「へぇー」
あまりに遠い世界の話だ。それが、現実に起こった事だとは思えない。
「個人的にも、援助しているみたいで」
ボーッとしていたのだ。不意に、その言葉が口を吐いて出た。
「私も、援助して欲しいな」
「気に入られたら、して貰えるかも」
その含む様な言い方に、好奇心が掻き立てられた。
「あなたも?」
「えっ」
水木さんの目が、大きく見開いた。
彼は、少しの間、考える様にした後、ポツリ、ポツリ話し始めた。
その話によると、水木さんの実家は、美術館を経営しているそうだ。
「大森さんには、昔から、お世話になっているんですよ」
「そうなんですね」
もしかしたら、これは、多分な真実を含んだ、嘘なのかもしれない。しかし、そんな事は、もう、どうでも良かった。私は、ただ、これからも、変わらず続いていくであろう日常に、安堵していたのだ。
店を出た瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。水木さんと向き合う。彼が、口を開いた。
「本日は、突然の訪問にお付き合い頂き、ありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざお越し頂き、ありがとうございました」
「では、次こそ、食事会ですね」
「フフフ」
「フフフフ。では、失礼致します」
「どうもありがとうございました」
言うと、頭を下げた。
回れ右した。少し歩いた所で、立ち止まると、振り返ってみる。すると、まだ、水木さんは、その場にいた。お辞儀し合う。
鉄階段の下に止めていた、自転車の鍵を外した。乗れる所まで押すと、サドルに跨がる。ペダルを踏み込んだ。
大通りを挟んだ、洋服店や雑貨店の前を過ぎた。
繁華街に出た。すると、そこは、ショッピング客や学校帰りの学生で、賑わっていた。
ショッピングモールの駐輪スペースに自転車を止める。
斜めに掛かった「DRY WOOD」という看板、ガラス張りの店内。ここに来る度に、勇気が沸くと思う。それだけを確認すると、その下にある、自動ドアを通った。
「いらっしゃいませ」と連呼する声の中、貴ちゃんの姿を見付けた。持っていた洋服を畳み終えると、こちらへやって来てくれる。赤と黒のチェック柄のカーディガンに、ダメージジーンズを合わせている。相変わらずスタイルが良い。そう考えているうちに、貴ちゃんが、目の前まで来ていた。
「最近は、どうしていたんですか?」
「実は、展示会に参加する事になって。それで、その衣装が欲しいなって」
「凄ーい」
会計横のスペースには、20点ほどのドレスがある。その中から気になる物を片端から試着した。お会計の際、いつも気になっていたのだ。
貴ちゃんが、レジをしている間、私は、鞄の中から財布を取り出した。そこで、値段を見ていなかった事に気付いた。
「○○円になります」
それは、予算の1.5倍の値段だった! 散々、悩んだ挙げ句、今更、何か言い出すのも、気が引ける。クレジットカードは、しっかり財布にしがみついている。無理矢理に引っ張ると、ぶちまけてしまった。
「大丈夫ですか?」
「気を付けて下さいね」
「ありがとう」
言うと、紙袋を受け取った。軽く会釈する。
自動ドアを通った瞬間、柔らかい太陽が、降り注いだ。
痛い出費だったが、必要な経費だったのだ。頻繁にある事ではないのだから。そんな言い訳を頭の中で並べていると、不意に、ガラス越しに、白いダッフルコートが、目に飛び込んで来た。近付いてみる。
冬の白は、特別な色だ。なぜか、甘い気持ちになるのだから。そう思った所で、名前を呼ばれた気がした。振り返る。すると、そこには、稔さんがいた。青の英字シャツに、ジーンズ姿だ。左手には、白のビニール袋を持っている。
「買い物?」
稔さんの笑みは、自然だ。それに対し、私のは、というと、引き攣っている気がしてならない。
「うん。稔さんも?」
「そう」
言うと、手に持っていたビニール袋を軽く上げて見せてくれた。そこで、その事を思い出して言う。
「そういや、『コンキリエ』で、あなたの『送り出し会』をしないかって」
「聞いたよ。凄く嬉しい」
稔さんの笑みには、嫌みっぽさがない。それが、分かると、自分の事を受け入れられたと錯覚したのか、私まで嬉しくなって来た。
「忙しくない?」
「全然。嬉しいよ」
言うと、俯き加減にした。言葉を続ける。
「帰ったら、ずっと、してない、家の事しなきゃ。久し振りの休日だから、する事が一杯だよ」
「同じだよ」
言うと、私も、何となく俯いた。
「プッ」
その笑い声で、顔を上げた。
「じゃあ、僕は、薬局に寄って帰るよ」
「うん。私も、買い物の続きをするよ」
「またね」
稔さんが、小さく手を振っている。その事に気付くと、「うん。じゃあね」と言って、私も、手を振り返した。
また、先程の白のダッフルコートを見てみる。しかし、今、見ると、目の前にあるのは、特別、珍しい物でもない、どこにでもあるコートだ。そう思うと、目の前に広がる、全てのものが、急に灰色の、つまらない物になった。
駐輪スペースに止めていた、自転車の鍵を外した。サドルに跨がる。と同時に、ハンドルを強く握り締めた。ペダルを踏み込む。
前籠の重さで、スピードが出る。それが、面白くて、ペダルを踏み込み続けた。
もうすぐ「コンキリエ」だ。そう思い、スピードを落とした。寄っていこうか。そう思い付くが、すぐに、空腹でない事に気付いた。また、ペダルを踏み込む。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。




