8月28日 亡霊の食
ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ・・・。
アラームを止めた。無理矢理にベッドから起き上がる。今日は、展示会の打ち合わせがあるため、何が何でも部屋の中から出なくてはいけない。
ブラインドを開けた瞬間、眩しい、太陽の光が、差し込んだ。街の様子は、数日前と変わっていない。その事にホッと安堵する。どんなに世界が進んでいるかと、一抹の不安が過ぎったが、たった3日で、世界は変わらない様だ。
太陽の光に照らされ、部屋の中が、どんより浮かび上がる。ガラステーブルの上には、飲み掛けのコップが溢れ、ゴミ箱近くには、ゴミ箱に入らなかった、ゴミが散乱している。まるで、この部屋だけ、時間が止まっていたかの様だ。
何をするのも、億劫で仕方なかった。しかし、無理矢理に習慣を繰り返していると、徐々に、気持ちが回復していった。日々の刷り込みは、凄い。エアコンの電源を切った。
玄関口に出しっ放しの、サンダルに足を通す。
全身鏡で、最終確認した。
1度、深呼吸した。ドアを開ける。すると、そこには、見慣れた、景色が広がっていた。
チン、
エレベータを降りた。
母親とその子供2人とすれ違った。
エントランスを抜けた瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。この圧倒的な存在の下では、何も考えられない。その事にホッと安堵する。
駐輪場に止めていた、自転車の鍵を外した。乗れる所まで押すと、サドルに跨がる。ペダルを踏み込んだ。
住宅の屋根、道端に咲く花やゴミ置き場の青の鉄格子。ずっと、同じ場所にいたせいか、全てのものが、新鮮になって目に飛び込んで来た。普通の事を普通に出来る事は、素晴らしい。一漕ぎする毎に、いつもの感覚を取り戻していく。
鉄階段の下に自転車を止めた。白い建物の影を出た瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。
花屋「HUNAKI」の軒先の花は、秋仕様へ変わっている。私がいなくても、季節は、移り変わるし、世界は、何事もなく回り続けていく。それは、素晴らしい事だ。
ロッジ風の建物は、やはり、都会から浮いている。そう思うと、「フッ」と笑みが零れた。「コンキリエ」という看板の下にある、木製の、分厚いドアを押した。
カラン、カラン、カラン。
冷気に、生き返る。丸太で囲まれた店内、高い天井で回る、シーリングファン、ヨットや兵隊などの模型。当たり前だが、何もかもが、3日前と変わらない。その事にホッと安堵した。
定位置である、カウンターの右端の席に着いた。セルフサービスで、銀のピッチャーからグラスに水を汲む。まるで、習慣を繰り返す事で、自分自身の欠片を、拾い集めているかの様だ。
「こんにちは。ランチ?」
声の方を見る。瑞恵さんが、客席から戻って来たのだ。
「今日は、打ち合わせがあって」
「そうなの」
言うと、シンクにお皿を入れた。そのまま言葉を続ける。
「そう言えば、模様替えをしているのよ。やる気になっちゃってね」
「そうなんだ」
「だから、今、部屋が散らかっているんだ」
その言葉が、胸に刺さった。瑞恵さんの言う散らかり具合は、私の思う散らかり具合とは、違う筈だ。瑞恵さんに、生活態度を指摘されている様な気がして、一人、恥ずかしくなった。
グラスの汗が、凄い。愈々、壁時計の針が、10分を過ぎた。それを確認すると、グラスに口を付けた。一気に、半分ほど飲み干す。まるで、この時を待っていたかの様だ。
カラン、カラン、カラン。
ベルの音がした。振り返る。すると、そこには、茶色い髪に、パーマを掛けた、スーツ姿の男性がいた。薄ピンクのハンカチで、額を拭っている。そこで、男性が、顔を上げた。
「すみません。渋滞で・・・」
水木さんの言い訳を聞いていると、次第に、頭がぼんやりして来た。襟元のシャツは、真っ白で、糊が利いている。スーツは、夏用の生地だ・・・。
「テーブル席に、移動しますか?」
その声で、我に返った。
それぞれテーブル席に着いた。ここへは、何度も来ているが、テーブル席を使うのは、初めてだ。ここからでは、大通りが、良く見える・・・。
「暑いですね」
その声で、我に返った。
「毎年ですよね」
言った所で、瑞恵さんが、注文の品を運んで来た。
「お待たせしました」
水木さんの前に、カップを置いた後、彼、そして、私へと笑みを浮かべた。
「ごゆっくり」
「どうぞ」
「あっ、はい」
ストローに口を付けた。瑞恵さんの笑みは、何かを含んでいた気がする・・・。
「展示会なんですが・・・」
その声で、我に返った。
水木さんの話は、殆どメールで知らされていた事の確認だった。しかし、新たな情報も、いくつかある。例えば、この展示会の主催者や開催経緯についてだ。
「彼が、4年前から始めたもので・・・」
水木さんは、大森さんの事を「彼」と呼ぶ。それが、ずっと、頭の片隅に引っ掛かっていた。近しい関係なのか・・・。
「ここは、経費で落としますよ」
その声で、我に返った。ボーッとしているため、気を付けよう。
店を出た瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。16時を過ぎているが、太陽は、全然、衰えを見せない。
隣の花屋「HUNAKI」の前を過ぎた。この後、水木さんに,絵を披露する事になっているのだ。アトリエへと続く鉄階段は、強烈な太陽に照らされ、熱々の鉄板の様になっている。
カン、カン、カン。
鉄階段に響く、この爆音だけが、辛うじて、私を現実に引き留めている気がした。
ドアノブを引いた瞬間、熱風が襲う。熱気の中に足を踏み入れた。遮光カーテンの引かれた、暗い部屋に、電気とエアコンを点ける。振り返った。「息苦しいですよね」と言って、微笑みを浮かべる。
「ハハハハハ。お邪魔します」
水木さんは、「へぇー」と言うと、部屋の中を見回す様にした。
不意に、水木さんが、こちらを振り返った。
「良いですね。高校時代、僕も、美術部だったんですよ」
「へぇー。そうなんですね」
「結局、賢明な道を選びましたが」
「フフフフ」
共通点を持つ人と出合うのは、久し振りだ――フランス料理店からの帰り道、稔さんと一緒にブラブラ歩いていた。暗い闇の中に、白い息が浮かぶ。
「余裕もあったから、早めに上京したんだよ」
「そうなんだ」
「美里ちゃんは?」
「私は、絵を描いている。ほぼ趣味だけどね」
もうすぐアトリエだ。そう思うと、その言葉が口を吐いて出た。
「良かったら、観ていく?」
酔っているせいで、気が大きくなっているのだ。
「良いの?」
稔さんの目が、大きく見開いた。
カン、カン、カン。
静寂な街に、鉄階段を上がる、4つの靴音が、響いた。
ドアノブを引いた。
底冷えする部屋に、電気とエアコンを点けた。振り返ると、「ぞうぞ」と言って、微笑みを浮かべた。
「お邪魔します」
稔さんは、「へぇー」と言い、部屋の中を見回す様にした。
「あぁ。それは・・・」
その声で、稔さんの視線の先を追った。すると、そこには、真っ黒な渦の絵があった。描き終わった時のまま、出しっ放しになっていたのだ! 何も、始めに、この絵を観せなくても、良かった! そんな事を考えていると、不意に、稔さんが、こちらを振り返った。
「真っ黒なのに、なぜか、引き込まれる」
それは、真っ直ぐな目だった――
「良いですね。なぜか、目が離せない」
その声で、我に返った。
「もっと、あれば、良かったんですけどね」
言って、笑みを浮かべる。結局、披露出来たのは、12枚の絵だけだったのだ。
「あれは?」
その声で、水木さんの視線の先を追う。すると、そこには、もう1つの、布の掛かったキャンバスがあった。
「あぁ。途中なの」
「もしかして、観せて頂けたりします?」
水木さんの笑みは、邪気だ。そう思うと、肩の力が抜けた。「良いですよ」と言って、微笑みを浮かべた。
布に手を掛けた時、その考えを思い付いた。狡猾なのだ、と。こうして契約を取っているに違いないのだから。すると、カッと怒りが込み上げた。遮光布を下ろした時、漸くその考えに思い至った。私には関係のない事だ、と。
「うわぁ」
大袈裟な歓声に、苦笑が零れる。頭の中で、何度も繰り返したせいか、全く完成の目処が立たないのだ。不意に、水木さんが、こちらを振り返った。
「完成したら、もっと、綺麗な街になるんでしょうね」
それは、純粋な目だった。
カン、カン、カン。
最後の鉄階段を降り切った。そこで、今まで抱いていた不安が、口を吐いて出た。
「食事会なんて、緊張するよ」
今度、展示会に参加するメンバーでの、顔合わせ兼食事会があるのだ。
「そんなに構えなくても。彼も、本当に、絵画が好きな人だから」
「そっか」
逆光で、水木さんの表情が、読み取れない。しかし、全身から放たれるオーラで、彼が、善人だと分かった。
「本日は、お時間を頂き、ありがとうございました」
「こちらこそ、お越し頂き、ありがとうございました」
その場で頭を下げ合った。
1度、深呼吸した後、「コンキリエ」の木製の、分厚いドアを押した。
カラン、カラン、カラン。
冷気に、正気を取り戻す。中途半端な時間なため、店内は、空いている。そう思いながら、店内を奥へ進む。すると、カウンターにいた、マスターが、「お疲れ」と言って、笑みを浮かべた。
「ありがとう」
言って、笑い返す。席に着いた。そこで、グーッとお腹が鳴った。
「急いで出すよ」
「ありがとう」
言って、微笑みを浮かべた。別に、照れている訳ではない。誰でも、お腹が空くと、鳴るものだから。照れていると思うのは、相手の方がそうだからだ。偶にされる質問への言い訳を、頭の中で繰り返した。・・・それにしても、今日は、アイスコーヒー以外、何も口にしていない。もう、展示会は、浮かれていられるだけの夢でなく、目前に迫った現実だった。これから、すべき事がたくさんあり、不安などと言っている暇はない・・・。
「お待たせ」
その声で、我に返った。目の前のお皿からは、キノコと青じその、芳ばしい匂いがしている。
「ありがとう」
フォークを手に取った。
「頂きます」
言って、1口、頬張った。すると、空っぽの胃の中が刺激され、さらに、空腹になる。夢中で食べ進めた。
完食した。そこで、視線を感じた。顔を上げる。すると、そこには、瑞恵さんの大きな笑みがあった。
「美味しかった?」
なぜか、瑞恵さんは、一向に、視線を逸らさない。すると、恥ずかしくなって来た。「はい」と言い、ぎこちない微笑みを浮かべる。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。




