Ⅳ求婚編
走って、
走って……。
振り返れば彼の姿はやはりない。
そんなことくらい判っていたはずなのに、それでも心のどこかで直人が追いかけてくれるのを期待している自分がいた。
直人は今頃よくも騙してくれたと怒り狂っているはずだ。
自分に気があるかもしれないと少しでも思うなんて……なんて愚かだろう。
「っひ……」
人気のない公園の一角にやって来ると、そのままブランコに乗って蹲った。
直人に嫌われたダメージが大きすぎる。
家に帰る気力さえもない。
郁己はただ嗚咽を漏らし、静かに泣いた。
「はじめは、ただの同僚だった」
「!」
ふと頭上から声が聞こえて顔を上げる。
けれども視界は涙で揺れている。
薄暗いそこに人影があることしか判らない。
すると彼は手を伸ばし、親指の腹で涙が溜まっている目尻をぬぐった。
それはとても、優しい手つきで……。
「君が同じベッドで眠っていたのを見たあの時、俺がどう感じたか判るかい?」
やがて見えてくる景色に、郁己はしゃくりを上げた。
(どうして、どうして彼がいるの?)
目の前にいる人物を見るなり、郁己は自分の目を疑った。
だって自分は抱かれたと嘘をつき、裏切ったのだ。
なぜ、直人がここにいるのだろう。
続けて話す彼の言葉に耳を傾けることさえできない。
今は、目の前にどんなに願っても叶わない恋の相手がいることしか判らなかった。
「仕事ではなく、オフの日に会うことも多くなったおかげで、四六時中君の姿が頭から離れなくなった。君を抱いたことが嘘だったのはショックだったけれど、これから真実にするのも悪くない。そうは思わないか?」
「なに、を……」
「君のために見繕った指輪なんだ。どうか受け取ってほしい」
「でも、アンタには好きな人が……」
「好きな人? 君の他に?」
すんっと鼻を鳴らして言う郁己に、直人は首を傾げた。
白々しい。
笑い合う二人の姿が郁己の頭から離れない。
郁己は痛む胸に手を当て、首を振った。
「先週、女の人と一緒にいるのを見た!」
深夜の公園はとても静かだ。郁己の甲高い声が辺りに響いた。
「ああ、あの人は姉だ。俺の様子が妙に浮かれていたらしい。彼女がいると勘繰られてしまってね、だったらと君に捧げる指輪を一緒に選んでもらう羽目になったんだ」
悲しみを抱く郁己を宥めるようにそう言った直人の口調はとても優しいものだった。
「俺が浮かれていた原因は何だと思う?」
「えっと……社長が勧めたお見合い相手の女性が綺麗だったから?」
尋ねられ、郁己は眉間に深い皺を刻みながらそう口にした。
すると直人はがっくりと項垂れてしまった。
「君っていう人は……どうしてここまで言わせておいて理解していないかな」
郁己が大好きなその薄い唇は大きなため息を漏らした。
だってそんなはずはない。
自分だけが直人を好きなのだ。
だから郁己は首を振る。
信じてはいけないと自分に言い聞かせて――。
「郁己」
名前を告げられて胸が大きく震える。
ブランコに座っている郁己の頭上から影が被さった。
同時に薄い唇が郁己の口を塞いだ。
「結婚してくれるね? 頼むからイエスと言ってくれ……」
互いの唇が離れるのと同時にリップ音が鳴る。
言った彼の声は掠れていた。
彼は本気で自分と結婚をしたいとそう言っているのだろうか。
真実を見極めるため、直人の目を窺えば、瞳の奥に炎が宿っているのが見えた。
ああ、彼は自分を欲している。
それを理解した時、郁己は大きく頷いた。
「愛しているよ」
郁己の左手が彼の手に掬われる。
そうして彼は、郁己の左手薬指に煌めく指輪をはめると、口づけた。
郁己はたくましい彼の背に腕を回し、あたたかな涙を流した。
Fin