Ⅰ出会い編
「いらっしゃいいらっしゃい、世にも珍しいオメガだよ! 価格はなんと十デュカートだ。どうだい? 安いよ安いよー!!」
一陣の砂塵が舞う。
スラム街と化したそこは、闇の市場として道徳に反する行商人達がごった返していた。
納屋のような一角のそこに一人の少年がいた。
名はウェリー。
年は十七になる。
ーーにもかかわらず、体は痩せ細り、身長は百六十センチと年頃よりもずっと幼く見える。
その理由は少年の生い立ちにあった。
ウェリーが五歳の頃ーー。
大火事で両親を亡くして以来、里親に引き取られた先で虐げられ、さらには思春期を迎え、オメガの性が判明すると、人買いに売られてしまった。
だからウェリーの服装はそれはそれは悲惨なものだった。
彼が唯一身に付けているものといえば、裾が解れたチュニックただひとつ。
そこから伸びている下肢は煤だらけで見窄らしい。
両足には鞭で打たれた生々しい傷跡が無数に散っていた。
木の枝と同じくらいの細い両腕には彼が逃げないよう、鎖が何重にも巻きつけられている。
そんな状態だからだろう。
数多くのコレクターたちが行き来する中、彼らはウェリーを物珍しい目で見るものの、顔をしかめて通り過ぎて行く。
その光景が気に入らないのは人買いだ。
「くっそ、売れねぇじゃねぇか!!」
彼はウェリーとは対照的なでっぷりとした太鼓腹を揺らし、腹癒せにすぐ近くの柱を蹴り飛ばした。
天上から無数の土埃が降る。
それでも人買いの苛立ちは消えない。
彼は薄汚いウェリーを見下ろした。
目はつり上がり、血走っている。
その形相はまるで悪魔のようだ。
人買いがこういう状態になった時、自分がどのような仕打ちを受けるのかはもう十分に知っている。
だからウェリーはほっそりとしたその体を丸め込み、歯を食い縛った。
「みんな無愛想なお前がみんな悪い! にっこり笑うくらいもできねぇのかよ!! 薄気味悪りぃなあっ! こっちは大金を叩いてお前さんを買ったんだ。売りもんにならなきゃ商売上がったりだ! とんだ骨折り損だぜ!」
人買いは怒鳴り散らすと、ウェリーの腰まである煤けた髪を引っ張り上げ、体ごと引きずり回した。
人買いのこれは今に始まったことではない。
鞭で叩かれないだけ、今日はずっとましだ。
けれども痛みは日に日に強くなり、その度に体は焼き付くような痛みを訴えた。
しかしそれ以上に痛むのは体ではなく、人として扱われないウェリーの心だった。
(痛い! 誰か助けてっ!!)
両親を失ってからというもの、日々奴隷のように扱われる心が苦しい。
けれども泣き叫ぶことはできない。
そんなことをすれば煩いと怒鳴られ、さらに酷い仕打ちが待っている。
だからウェリーはその目に涙を溜めて必死に歯を食い縛る。
大丈夫。今日という日を我慢すればいいだけのことだ。
ウェリーは自分にそう言い聞かせ、込み上げてくる悲しみや苦痛を追いやり、慰める。
そんな混沌とした世界が今日もはじまる。
覚悟していた時だった。
「おい、それはいくらだ?」
ふいに一人の男が人買いの前で立ち止まった。
ウェリーは涙袋に溜まった涙を手の甲で拭うと、目の前に現れたお客を見上げた。
背は百九十はあるだろうか。ダークブラウンのジュストコールに綺麗な模様が施された草色のジレ。清潔な白のチュニック。
そして何より、ワイン色のショースを纏ったすらりとしたその長い足。
身形からして男は貴族だろう。
しかも侯爵クラス。
年の頃なら三十ほどで、顔立ちはーーウェリーはそこまで彼を見定めると、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼はとても美しかった。
襟足までの黒髪には象牙色の肌がとても映える。
高い鼻梁に薄い唇。アメジストの鋭い輝きを持つその目は威厳に満ち溢れ、尖った顎は厳格さを現していた。
彼が相手ならばたとえ神であろうとも恋をするに違いない。世にも美しい美貌を持っていた。
人買いはふいに話しかけられ、固まっている。
ぱっくりと口を開け、放心状態だった。
「そいつの値段だ。いくらになる?」
話は一向に進む気配がない。
業を煮やした男は苛立ちをあらわにして、もう一度人買いに尋ねた。
「へ、へぇ~。四十デュカートですねぇ」
人買いはやっとウェリーを手放せるとさぞや安心したのだろう。
両手を揉み、体を丸めて男を見上げる。
しかし、人買いの言葉に反応したのはウェリーだった。
人買いが言った値段は換算すると二年分の食費に価する。
いくらなんでも自分にはそれだけの価値はない。
「嘘です!! さっきまで十デュカートって言って!!」
「うるせぇ! 孕むばかりしか脳がない奴が口出しするんじゃねぇよ!」
ウェリーの口答えが気に食わない人買いは、再び長い髪を掴んだ。
「いっ、あっ!」
恐ろしい力で引っ張り上げられ、鋭い痛みがウェリーを襲う。
華奢な腰が宙に浮いた。
「四十でいいんだな? そいつは俺が買う。傷をつけないでもらおうか」
「いでででっ!! わかりやした、申し訳ありやせん!!」
男は人買いの脂ぎったその腕を強く掴み上げると、苦痛を漏らすウェリーを解放させた。
その後、彼は懐から金貨が入った袋を取り出し、人買いに渡した。
「えへへ、まいど。それでこいつは何に使うんで? 危険な煙突掃除ですかい? それとも性奴隷にでもしやすか? こいつはオメガなんで孕むことに関しちゃ逸品ですぜ?」
男は汚らしい物言いをする人買いが気に入らないのか、鋭いその眼孔で睨みつけた。
その視線は恐ろしく険しい。
射殺すほどの力はあると、ウェリーは思った。
「っひぃ! わ、わかりやしたよ。睨まねぇでくだせぇ! ほらよっ!!」
人買いは怯えながらもウェリーの両腕から鎖を外すと忌々しそうに去って行った。
「あ、あの……」
人買いが去り、主人が替わった。
果たしてこれから自分はどうなるのだろう。
不安に脅かされたウェリーは新しい主人を見上げた。
「助けてくれたとは思うなよ? お前は奴隷。それだけだ」
突き放すようなその言葉。
けれどもなぜだろう。
男から怖いという感情は湧いてこなかった。
「……はい。わかっています」
「だったら乗れ。無駄口は叩くな。いいな?」
男はウェリーを立たせ、馬車に乗るよう顎で示した。
「は……」
『はい』
ウェリーは返事をしそうになった口を、自由になったその手で押さえた。
雇い主が変わったとしても自分は奴隷には変わりない。
馬車に乗り込んだウェリーは孤独という寒さから耐えるため、木の枝ほどの細い腕を体に巻きつけ、静かに目を閉ざした。
【蓮冶の豆? 知識コーナー】
ジュストコールーーコートのことです。
ジレーーベストです。
チュニックーーブラウスです。
ショースーー靴下のこと。
編物は靴下(=ショース)が最初のものらしいです。
防寒用としてだけでなく、装飾としても作られていたそうです。(※ググったです)