接触
翌朝。
クザクは寝不足で腫れぼったくなった目を擦り、大あくびを繰り返しながら登校した。
夕べは興奮と恐怖で――主に恐怖が先に立っていたが――気持ちが落ち着かず、眠ることが出来なかった。
夢だったのではと思いたいが、左肩に負った傷の痛みは現実の物としてクザクの身体に刻まれていた。
あの工場での事件の後、真っ直ぐ帰宅したことについては、後ろめたさと後悔がない交ぜになっている。
警察に行くべきだったのではないかと、今も思っているが、あの状況を上手く説明できる気がしなかったのだ。流石に『化け物に襲われました』などと言って警察に駆け込んでも、真っ当に相手してもらえるとは思えない。よって、警察に行くことを躊躇ってしまった。
その選択は、同時に病院に行くという選択も取れなくなったことを意味した。トラブルによる外傷と判断出来る傷を抱えて病院に行っては、結果として警察が絡んでしまう。
クザクの怪我が思っていたより遙かに軽く、病院に行かずとも治療できたことは不幸中の幸いだった。
それに、多少怪我をしていても、周囲の人間は誰一人クザクのことなど気にしないので、変な噂が立つことも無いだろう。
――……なんか悲しくなってきた……。
そんな思考に捕らわれるが、いまさら考えてもせんないことである。
普段通り教室に入り、自分の席に座るまで、クラスメートの誰一人としてクザクの方を見ない。クザクも誰かの顔を見るような事はせず、誰かに声をかけることもせず、一言も発することなく席に着くと、痛む肩に顔をしかめながら、鞄の中の荷物を机に移す。
いつもと変わらない寂しさ漂う日常だが、夕べ経験したことをに比べれば、多少は大切な物に思えてくる。
「日常って……普通って大事だなぁ」
ふと、そんな言葉が安堵のように漏れる。
「そうだな、平和な日常を謳歌出来ると言うことは、普段は気が付かぬが、それ故に無くしてはならない大切な時間なのだ」
クザクは不意に背後から発せられた声に肝を冷やした。
まさか独り言を誰かが聞いているとは思っていなかった。
まさか女子生徒から声を掛けられるとは考えてもいなかった。
まさか誰かが話題に乗ってくるなど、露程も予測していなかった。
普通の人間にとっては日常だが、クザクにとっては非日常的と言って差し支えない程の異常事態に、心底驚愕して凍りつく。
空耳でない事を祈りつつ、驚きに見開かれた両目で声のする方を見上げると、これ以上開かないだろうと思われたその目がさらなる大きさで見開かれた。
そこに凜として立つのは、昨日クザクを助けた美貌の持ち主だった。
本来であれば声を掛けられたことに喜ぶべきなのだが、昨日の事件が事件だけに素直に喜ぶことが出来る筈もなく、逆に半身になって身構えてしまった。
「杜乃浦クザク君……だな?」
流れるような黒髪を後ろで結い上げ、意志の強い光をその瞳に宿した少女は、クザクとは真逆の自信に溢れたオーラを発しつつ、クザクを真っ直ぐに見詰めていた。
やはり、この少女にはクザクが認識出来るらしい。
どのような手段でもって認識しているのかは、クザクには理解が及ばない。
ただ、昨日命を助けてくれた少女が同じ高校に在籍している事だけは理解した。
「えと……アンタは?」
名も知らぬ少女に、どの様に接するべきなのか、クザクには解らない。圧倒的に経験値が足りないのだ。その為、やや不躾な質問になってしまった。
「あれ、時纏井さんじゃね? C組の」
「本当だ……近くで見るとまた美人だなぁ……」
「何しにウチのクラスへ?」
「つか、話しかけている相手、誰?」
クラスメートの視線がクザク達――というより、クザクの目の前の少女に集中する。
口々に囁き合うクラスメートの反応を見る限り、彼女を知らないのはどうやらクザクだけのようだ。どうせ誰にも相手にされないのだと、他人に興味を持つのを止めたので、知らないのも仕方ないが、自業自得とも言える。
あと、何故か他のクラスに所属している生徒の事は知っているのに、同じクラスに所属しているクザクのことを知らないのか……いつもの事とは言え、クザクに対してあまりに興味が無いことに、クザクはちょっと泣きたくなっていた。
「正式に挨拶するのは初めてだな? 私は時纏井サクヤと言うものだ。今後見知りおいて……いや、そう身構えるな。そこまで警戒心を丸出しにされると、私とて多少は傷つくのだぞ? なに、昨日の事で少し話がしたいだけだ」
――やっぱりか……。
昨日のことと言われ、クザクは益々身を固くした。それに昨日の事で鮮明に思い出すのは、ショッキングな映像が大半を占めるので、出来れば思い出したくない。
そんなクザクの心情を余所に、サクヤはズイズイと踏み込むような視線を、クザクに真っ直ぐ向けてくる。
確固たる意志と覚悟を宿らせた瞳。
クザクが持っていない物――自信を大量に宿らせた瞳に、じっと見詰められると心の弱い部分まで見透かされているようで、今すぐにでも席を立って逃げ出したくなる。
「しかし、改めて君には驚かされるな」
「え? 何が?」
不意の質問に、クザクは反射的に聞き返した。
「確かに正面にいるのに影が薄いというか、気配があまりにも少ない……君が言葉を発してくれなければ、認識するのも困難な程とは……」
「好きで影が薄いんじゃない!!」
指摘されたくないことを言われ、自制が効かずに声を荒げる。直後、自制が効かなかった自分を恥じ、小さく項垂れる。罪悪感があふれ出して止まらない。
「いや、怒鳴ったりして悪かった……」
そうは言ったものの、心の奥でささくれ立った感情は簡単には落ち着かない。
自分でも解っていること、解っていてどうしようもないことを他人に指摘されること――触れられたくない所を探られた嫌悪感は、急速にクザクの心を蝕んでいく。
そんな反応が返ってくるとは思わなかったのか、サクヤは大きく目を見開いた後、酷く申し訳なさそうな顔をした。
「すまない、君がその事で苦しんでいるとは想像だにしていなかった……私は君の触れて欲しくない所を無造作に触れたのだな。許して欲しい」
サクヤは深々と頭を下げて、クザクに謝罪した。
そこまで謝られると、次の言葉が見つからない。苦しんでいると指摘され、その事実を素直に受け入れられず、モヤモヤとした感情に支配されて思うような言葉が出ない。
ただ、サクヤを見ていて、ふと思う。
――俺にはこの人は眩しすぎるよ。
言おうと思った事は、ハッキリと述べ、間違ったと感じたなら真摯に謝る。それだけ他人に対して物怖じせず、堂々と接して踏み込んでいく。
クザクには出来ないことを――足掻いて、憧れ続けても出来なかったことを、あっさりとこなして見せるサクヤは、目も眩むほど輝いて見えた。
――ああ、だから正視できないのか。
唐突に理由が分かり、同時に自身の情けなさを痛感する。
そんなクザクに、サクヤはなおも話しかけてきた。
「夕べもそうやって視線を外したな? 私のことを、正面から見ては貰えぬのだろうか?」
サクヤはクザクの正面に再度移動し、しゃがんでクザクの顔を覗き込んだ。
そのサクヤの行動に、遠巻きにしていたクラスメート達がにわかにざわつく。
クザクも目に見えて狼狽していた。
「い……いや、そんなことは……」
あるなぁ……と、心の中で自分にツッコミをいれてしまう。
他人に認識して貰えないことに気が付いてから、視線を合わすことが減っていたことは、クザクも何とはなしに感じていた。自分に自信が無いから眼を合わせられないのか、他人に認識されないのが辛いから正面から見られないのか、はたまたその両方か。
何故サクヤは、こうも真正面から他人の顔を見れるのか、クザクには不思議でならない。
そんなサクヤの瞳は、こちらを見て欲しいという懇願に溢れていた。あまりに真摯な瞳に、目を逸らすことも出来ない。完全にクザクはサクヤに囚われていた。
周囲のざわつきが大きくなっていたが、クザク自身はそれを気にするだけの余裕は無かった。
周囲より、自分の心のざわつきの方が、余程大きくざわついており、何時までたっても治まる気配が無い。
そんなクザクの動揺を余所に、サクヤはそっとクザクの右手に手を添えた。
――何? この状況?
昨日は気が付かなかったがサクヤの胸はかなりのボリュームがあり、それがサクヤ自身の両腕によって寄せられ、より強調された形をとった。あまりにも強烈その場面はクザクの記憶に深く、強く焼き付けられる。
もうこのシーンは一生記憶から消えそうにない。
――しっかりしろ! 杜乃浦クザク! これはあれだ! ええと、そう! 宗教勧誘か何かの類だ! 騙されるな!
などと、当の本人が聞いたら大変失礼なことを考えていたが、そもそも宗教勧誘すら、過去にされたことはない。
狼狽えるクザクに構わず、サクヤはより一層近づいてくる。
「どうだろうか? 放課後にでも、時間を作っては貰えまいか?」
気のせいかサクヤの頬に赤みが差しているように見える。多分気のせい。むしろ赤いのは自分だろうと、クザクも自覚している。
完全に雰囲気に呑まれてしまったクザクは、流れで頷いてしまう。
「本当だな?」
さらに詰め寄るサクヤに、すっかり気圧されてしまったクザクは、壊れた玩具の様に頷き続けた。
そして安易に頷いたことに後悔をしていた。
第三者の視点から見れば、サクヤがクザクをデートか何かに誘っているとしか見えないだろう。実際、周囲の男子生徒はかなりのやっかみを含んだ視線をクザク達に投げかけている。
生まれて初めてこれだけの人数に認識されている筈なのに、ちっとも嬉しくない。
それに、どんなに可愛らしく誘われても、結局昨日の件について話がしたいと言われているだけなのだ。あまり嬉しい内容ではないだろうことは容易に想像できた。
出来れば早退したい……というか逃げ出したい。
「ふふっ……逃げたりするんじゃないぞ?」
――心でも読んでんのか?
あまりのタイミングにほんの少しだけ肩が震えるが、それをサクヤは目敏く発見する。
「まさかとは思うが……土壇場で逃げるつもりではあるまいな?」
冷ややかなサクヤの視線に、心臓が縮み上がり、背中を冷たい汗が伝う。
「い……いいいい、いや、そんなことは決して!」
「本当か? 嘘ではあるまいな?」
ヤバイ、完全に疑っている。クザクは自分が逃げ場を失っていることを意識していた。
「ホ……ホントウデスヨ?」
サクヤはじーっとクザクを見詰めている。サクヤほどの秀麗な少女に興味を持って見詰められるのは嬉しいと感じるところかもしれないが、クザクにとっては誰かにここまでじっくり見られた経験がないため、サクヤの行為に恐怖に近いものを感じていた。
誰かが自分の領域に踏み込んで来ることに慣れていない。
クザクの心を見透かすかのように、身じろぎもせずに見つめ続けていたサクヤは、二~三秒ほど思案した後、意を決したかのように立ち上がった。
「やはり、このままでは少々不安だな。手は打っておくか」
「え? 手? なんの?」
「こういう手さ」
クザクの疑問には直接答えを示さず、なにやら小さく一言二言と唱えるように呟く。
「……我……であり、より堅固な…………誓約……を……結ばん……」
それから、自らの左手の親指の腹を右手に隠し持っていたピンで刺す。そこにうっすら滲んだ血の粒をクザクに見せないようにして自らの口に含んだ。
「……ぐっ……」
不意にサクヤから得体の知れない圧力を感じ、クザクは息を呑んだ。
「あの……時纏井さん?」
「呼び方が堅苦しいな」
ひょい、とサクヤの顔が近づく。互いの息がかかるほどの距離。それこそ物語の中でしか知らない他人との距離に、クザクの心臓が壊れんばかりに高鳴った。
――しっ、静まれッ! 静まってくださいッ! お願いしますッ!
目を見張るほどの美貌を前に、頭の中が真っ白になる。
「ち……近くないですか? んッ!――」
思わず敬語になるほど混乱した頭の中で、必死に状況を整理しようと試みるが、直後にクザクの思考は完全にフリーズした。
サクヤの唇がクザクの唇を塞いでいた。
クザクがあらん限りに目を剥いて、硬直したままサクヤを見る。
――え? 何が起きてんの?
サクヤの手が優しく頬を撫でる。
口移しで唾液が――ほんの僅かに血の臭いがしたが、クザクにはそれを判断するだけの思考能力は残されていない――注ぎ込まれ、なすがままにそれを嚥下した。
一瞬、空気が硬化すると感じる程の静寂の後、教室内が阿鼻叫喚に包まれた。
大勢の男子生徒の叫び声と、女生徒の好奇に満ちた囁きがこだまする教室で、クザクだけが己の身に何が起きたのか理解していない。いや、サクヤがクザクに何をしたのか、本当の意味ではサクヤ以外は誰一人として理解していないのだが……。
「な……なななななっ……何を! いや、何で?」
他に遅れること五秒、やっと目の前の少女にキスされたのだと認識した。
――何が一体どうして?
何故そんなことをされたのか、その原因を何一つ思い出せない。
出会ったのが昨日。それまでクザクはサクヤの名前どころか、同じ学校に通っていることすら知らなかったのだ。
そんな相手にいきなりキスをされる理由はなんだというのか。
理解を超えた出来事に、クザクは目を回しそうになった。
そんなクザクの困惑を見て、サクヤは唇に手をあて、僅かに口許を緩めて答えた。
「呪いだよ……互いの繋がりを強くする呪いだ」
もの凄い意味深な言葉をサクヤは平然と、クザクの耳元で囁いた。
その言葉に、クザクは大いに動揺した。
「いや、だから何でそんなことを……」
「私から逃げられると思うな」
ゾクリとした。
背筋を今まで感じたことも無い感覚が走り抜ける。
女が男に投げかけた言葉……だからではない。
その言葉は色恋沙汰の意味では……男女の間で交わされるような言葉では無い。
文字通りの意味で、逃げられないという確定事項として、逃がさないという絶対的な意志として、その言葉はクザクに突きつけられた。
決して色っぽい意味では無い事をクザクは理解していた。周囲の反応はこの際、脇に置いておく。
「では、クザク。また放課後にな」
サクヤは見る物をうっとりさせるような微笑みを残し、教室を後にした
その後ろ姿をクザクを含む全員が見送る。
「ああああ……時纏井さんだけは、そんな人じゃないと信じていたのに」
「相手の男が憎い……妬ましい……いっそ殺したい……」
――いっそ消えてしまいたい
殺意が溢れた教室に一人の味方もいないという事実に、本気でそう願う。
まあ、普段から敵も味方も存在しないのだが……
「で、相手の男、誰だっけ?」
――え?
「あれ? そう言えば……確かその辺りに座ってて……あれ?」
――ええ? ……え?…………えええーーーーーーーーッ!!
あれだけのことがあったにも関わらず、『時纏井サクヤが誰かとキスをした』という認識はあっても、『時纏井サクヤが杜乃浦クザクとキスをした』と認識されていないことに、クザクも驚きを隠せない。
――俺って、一体何なの?
流石に自分の存在にある種の疑いを持つが、原因については見当もつかない。
何か自分に原因があるのか、本気で考えようとした矢先に、あたかも邪魔するようにホームルーム開始のチャイムが鳴り響く。
それを合図にクラスメートが、何事も無かったかの如く次々と着席する。
――あの……皆、もっと騒いだりするもんじゃないの?
騒いで欲しくないはずの本人が、そんなことを考えたりする。
いや、クザクの中にも一度くらいは騒ぎの中心になってみたいという気持ちが、かすかではあるが残っていたのだが、結局の所、クザクは『時の人』になることは不可能なのだと思い知らされただけだった。
なんか、これで本当に良いのか?って展開になってる気がします……
あと、パソコン壊れました
というか壊れる寸前です。
バッテリー一体型なんだけど本体ごと膨れてきました……