足掻き
この時のクザクは冷静では無かった。
クザクがそれまで持っていた常識の埒外な出来事に見舞われているのだから、冷静さを欠いていても仕方ないが、問題はクザク自身が冷静で無いことを理解していなかった。自身が冷静か否か、自問するだけの余裕が無かった。
まず、クザクは自身が何故度々他者に認識されないのか、その原因を追求したことがない。
故にその原因について何一つ理解していないのだ。そして世の中は往々にして、原因の分かっていない現象を当てにしたところで、物事は悪い方向にしか転がらない。
さらにクザクは黒骸骨の力を完全に見誤っていた。クザクは全力で追いかけられていると勘違いしていた。
力量に大差がある場合、力の強い者が何らかの理由――主に自身が状況を楽しむなど――により手加減をする事は少なくない。
加えて、黒骸骨が持つ能力について何一つ理解をしていない。先程の哀れな犠牲者の四肢をバラバラにした手段について、単なる怪力に依るものか、別の手段で切り刻んだのかも把握していない。
人気の無い倉庫の片隅で、ガタガタと震える身と喉の奥から漏れそうな声を必死に押さえる。
座り込んでしまったら、逃げ続けていた時とは異なって、あれこれ考えるだけの余裕が出来てしまったが、頭に浮かぶのは前向きな脱出手段ではなく、もっと端的で根本的な感情の発露だった。
まだ死にたくない。
幸せなど縁遠い人生かも知れないが、それでも「もしかしたら」小さな幸せくらい手に入れられるかもしれない。
僅かな希望に縋っているだけなのは解っているが、このまま何も出来ないまま死ぬことだけは絶対に嫌だった。
痛む左肩を押さえる右手の下から鮮血が溢れる。
恐怖と出血から、全身がガタガタと震える。
何故、こんなことになっているのか。
何故、今自分は黒骸骨のような化け物に襲われて、物陰に息を潜めているのか。
口許や鼻腔には先程黒骸骨の暴虐によって肉塊となった被害者の血の臭いが纏わりつくようで、その不快な臭いに吐き気をもよおす。それでもクザクは必死に耐え、ひたすらに脅威が去るのを待った。
「何だってこんなことに……」
僅か十数分前の自分の選択に、強い後悔が生まれる。
あのとき、興味とある種の下心に支配されていなければと思う。それを今考えても詮無いことなのだが、得てして後悔とはそういったものだ。
今はそれよりも脱出方法を検討すべきなのだが、今のクザクには周囲を確認する術も、自身の状況を推測するだけの材料すらも、殆ど持ち合わせていなかった。
クザクのような状況に陥った人間が取る行動は主に二つ。
このまま頭を低くして、全てが去るまで待つか、自身を危険にさらしてでも状況に対抗するか……。
不気味なまでの静けさの中でクザクは暫し黙考していたが、結論を出すより早く状況が動いた。
びしゃり……。
それまでほぼ無音だったのに、突如として何かの足音が、クザクの至近で聞こえた。
跳ね上がる心臓と漏れてしまいそうな叫び声の双方を強引に押さえつけるように身を固くして胸元をおさえる。
何故こんな近くで? と思う間もなく、クザクはさらなる驚愕に見舞われた。
「どこだぁ……? いい加減出てこいよぉ……」
何処か無機質で、それでいて無感情とはことなる声が聞こえてきた。
亡霊の怨嗟にも聞こえるような不気味な声に、クザクは益々身を固くした。
明らかに意味を持つ言葉を発した黒骸骨……その事実は、クザクのそれまでの判断が間違っていたことをクザクに示していた。
――日本語を解すだけの知性がある?――
その事実はクザクのこれまでの考えを一変させるには十分なものがあった。
クザクはそれまで、黒骸骨に知性が無いと思って行動していた。
だが、人間と同等……いや、下手をすれば人間以上の知性を持つとなれば、クザクが今置かれている状況を根本的に覆しかねない。
「匂う……匂うなぁ……甘ったるい血の臭いだぁ……」
その言葉に、クザクはギョッとした。
黒骸骨が言葉を発したことに驚いたのでは無い――確かにあの化け物が日本語を話せた事には驚愕したが――それより臭いを追ってきた事に恐怖し、首を竦めて出血で赤く染まったシャツを見た。
クザクを『見た』者は確かにクザクを認識出来ないことはままある。
では、『見る』以外の手段でも認識出来ないのだろうか?
存在そのものを認識されていない、とした現象が起きているのでは無いので、メールなどの手段では、誰もがクザクを認識していた。
では、臭いの場合はどうだろうか。
または黒骸骨が通常の生物とは異なる手段で『見て』いたとしたら?
クザクの特異な体質が通用しない可能性もあるのではないか?
今更ながらクザクは自身の選択した行動が間違いであることを実感した。
ギィンッ!!
耳をつんざく甲高い金属音が響くと、少し遅れてガランガランと重い金属塊が崩れて、コンクリートの床に大量に散らばる。
斬られた。鉄材が一瞬で。
床に散らばる鉄の塊が鋭利な断面を晒している。
どうやってか黒骸骨は積み上げられた鉄材をまとめて裁断した。
両手の爪などではない。
確かに黒骸骨の爪は鋭いが、見たところ長さは二~三センチ程度であり、一メートル以上の幅があった鉄材を斬るには、明らかに長さが足りない。
クザクの疑問を打ち破るように、ビシッ! と何かがしなるように床に叩きつけられた。
尾だ。
先端が剣の様な形状をした尾――それがクザクの周囲の鉄板を切り裂いた。
「見つけたぁ……」
黒骸骨がクザクを見て、ニヤリと凶暴な笑みを浮かべた。
黒骸骨は明らかにクザクを『見て』いた。
仄暗い焔の様な双眸は意志を持ってクザクを見据えている。
それが二組……始末の悪いことに黒骸骨は二体存在していたのだ。
文字通り絶体絶命。
既に逃げ出すどころか、脚を踏み出すだけの余力もない。
先程の犠牲者――それは既に人の形状を取っていなかったが――を手にぶら下げた黒骸骨達は、まるで実体化した『死』のように眼前に君臨する。
その光景は確定した『死』を突き着けられたようで、絶望だけがクザクの心に満たされていく。
「は……ははは……何だよこれ……こんなのありかよ……」
死にたくないと、生まれて初めて本気で思った。
生きていても寂しいだけ、辛いだけと思っていたので、いつ終わっても良いと考えていたこともあったが、いざその時となると、ひたすらに死にたくないと考えてしまう。
諦めた筈の人生でも、こんな終わり方は望んでいない……そう考えてしまうことを、情けなく、みっともなく思う。
膝は震え、歯はガチガチと鳴り、目尻には涙まで浮かべて、今にも恐怖に心を挫かれそうになりながら、それでも今は生きたいと願っている。
「ふざけんな……まだ死んで……こんな人生で終わってたまるか……」
クザクはその当たり前の願い……必死なまでの渇望を力に変え、ゆらりと立ち上がった。
死に対して足掻くために。
生にしがみつくために。
もう一度希望を持つために。
生きるために。
向かって左側の黒骸骨が、長い尾を振り上げる。
刀剣の様な尾が、クザクの首を目掛けて横薙ぎに振るわれる。
本来であれば、特に格闘技の経験など無いクザクに、躱せる一撃では無い。
「うあああああああああああああああああっ!」
雄叫びを上げ、クザクは残る全ての力を絞り出す。
生への執着、執念がクザクの脚を一歩前へ踏み込ませた。
頭を下げ、斬撃を潜り抜けるように姿勢を下げ、下から黒骸骨の剣状の尾を――剣で言うところの腹の部分を払った。
生への一歩を踏み込ませたクザクの執念と勇気は、偶然を呼び寄せ、ほんの小さな奇跡すら一瞬味方にして、体勢を崩しながらもその斬撃を無傷で回避させた。
ほんの僅かに刃の軌道を変えただけだが、クザクの命を刈り取る筈の一撃はもう一体の黒骸骨を浅く切りつけた。
聴く者を恐怖に陥れるような苦悶の声が上がり、怒りに満ちた視線がクザクに突き刺さる。
「畜生……怒らせただけかよ……」
クザクが起こせる奇跡はここまで……クザク自身がそれを自覚してしまう。
黒骸骨達の次の攻撃に、油断や手加減は無いだろう。しかもクザクは初撃を回避する際に派手に転倒してしまい、起き上がることをすら出来ていない。
黒骸骨達は再び、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
黒骸骨が、その一本一本が肉厚のナイフの如き鋭い爪を振り上げる。
今度こそ確実に仕留める――そんな覚悟を感じ取り、クザクは反射的に目を瞑った。
「くそ……一瞬寿命が延びただけか……」
つまらない人生だった。
もう少しマシな生き方が出来なかったのか。
幸せになりたかった。
もっと笑って生きたかった。
誰かに傍にいて欲しかった。
誰かにその存在を認めて欲しかったのに、自分の存在を認めたのはこんな化け物共だったなんて……。
全て尾を諦めていた筈なのに、死の際になったらこんな未練が溢れ出てくる自分に、心底嫌気がさす。
「格好悪いなぁ……俺……」
最後に出た言葉は、後悔に満ちていた。
シュガガッ!
何かを切り裂く音が、工場内に響き渡る。
クザクの身体……からではない。クザクの頭上、遙か高く、工場の天井から。
ガランガランッ!とクザクの周囲に何かの資材、いや破片が降り注ぐ音がする。幸い、突き出た二階部分が屋根の役割を果たし、クザク自身に破片が当たることは無い。
黒骸骨は何かを警戒するように数歩下がる。鉄骨など屋根の破片と思われる物の一部がクザクと黒骸骨の間に突き刺さるように落下する。
そして。
それ舞い降りた。乱暴に。
それは刀を携え、黒い雷を纏った少女。
ふわりと……では無く、落雷のように鋭く。轟音と共に、黒骸骨達の正面に降臨した。
同時に黒骸骨のうち一体が左右に泣き別れた。
一瞬で、一撃で。
「君が『ヴァニタス』の一撃を凌がなければ、とてもではないが間に合わなかった」
彼女はクザクを一瞥しそう言った。
血煙のように消えていく黒骸骨を背景に、肩越しにクザクに視線を投げクザクの前で起立する少女は、天井の穴から降り注ぐ月光に包まれ、まるで天使の様な印象をクザクに与えた。
ただし、心優しい天使では無い。まるで断罪を担うような畏怖を纏った天使だ。
クザクは少女に見惚れてしまった。僅かに微笑んだその顔は、今まで誰もクザクに向けてくれなかった優しい表情をして……。
「なかなか格好良かったぞ」
そう言って、切れ長の目を細めて微笑んだ。