発端
グロ注意です。
ことの始まりは放課後。
この日もクザクはクラスメートと言葉を交わすこと無く帰路についた。
正しくは昼休みに一言だけ朝狩野ミオリに対して文句を言っているが、相手が返事をしていないので言葉を交わしたとは言い難い。意思疎通が出来ていなければそれは独り言と変わらない。
誰かと会話をしていないと、日本語すら忘れてしまいそうだ。実際、人間は一人きりでいると言葉を忘れないよう、自己防衛的に独り言を発するらしい。が、教室で机に話しかける姿は客観的に見ればかなり危ない人にしか見えないので、教室での独白は控えるようにしている。
もっとも、クザクを客観的に見ることの出来る人物はクラスに皆無なので、取り越し苦労とも言える。
ただ、自室でネットしながら独話する自分に気が付いて、複雑な気持ちになった事は何度も覚えがあった。
今日もそんな風に一日が終わるのかと、ほんの僅かに悲しい気持ちになる。
同時に仕方なく思う。
もう自分は他人と関わることを諦めてしまったのだから……。
顔を上げると、古びた工場――今は稼働しておらず、資材置き場になっているようだ――が目に入った。そのうらぶれた光景に、自分の姿を見せられた様な気がして眉をしかめる。
ふと、クザクの耳に何かが聞こえた。
「悲鳴?」
明確にそれと解ったのではない。
ただ、何か危機的な空気を纏わせた声が、目の前の工場から聞こえてきた。
鍵をかけ忘れたのか、資材搬入用の大きな引き戸――トラックを乗り入れる為なのか、四メートル以上の高さがある――が、細く、ギリギリ人が通れる程度に開いている。
関わるべきか、それともこのまま立ち去るか。
僅かに逡巡したが、突然湧いた好奇心と、『このまま立ち去ることで後味の悪いことになったら嫌だな』という余計な考えと、『ここで行動したら何かが変わるかも知れない』という下心にも似た淡い期待に逆らえなかった。
クザクは物音を立てないよう、周囲を気にしつつ慎重に引き戸をくぐる。
窓が少ないので、夕刻の薄暗さに拍車をかけた工場の敷地は、粘つくような静けさに包まれていた。
はたして、先程の悲鳴の様なものは空耳だったのだろうか……疑いが心の中を過ぎったが、この静けさは誰も居ない静けさでは無いと思い直す。
その空気は建物の奥に進むほど、顕著に重苦しくなっていく。
今まで感じたことが無い、独特の空気の重さは、クザクの呼吸すら難儀なものとした。
今は稼働していないとは言え、工場の内部は機械油や鉄錆の臭いが漂っている。
しかし、それ以外の『何か』が臭う。
機械的な臭いではない……生臭い空気。
例えるなら生魚の臭いと硫黄の臭気を混ぜ合わせたような……深呼吸は遠慮したい場違いな臭い。
首筋を、嫌な汗がつたう。
「安易に入り込むべきじゃなかったか……」
次第にクザクの中で、好奇心を塗りつぶすように後悔の方が大きさを増していた。
――引き返すべきだろうか……。
好奇心が勝っていた時は勢いでここまで来てしまったが、所詮、クザクの行いは不法侵入である。この建物の持ち主や関係者に見つかれば、説教は確実。場合によっては訴えられても文句は言えない。
頭に浮かんだその事実は、クザクを引き返させるには十分な理由だったが、決意するには遅すぎた。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
静寂をたたき割る様な女の叫び声が、重苦しい工場の空気を切り裂いた。
ビクッと大きく肩を震わせて叫び声のする方に振り向いたクザクの脇を、バレーボール大の影が凄まじい速度で飛んでいき、ガツンと大きな音を立てて資材にぶつかる。かなり固いと思われるそれは、ゴロゴロとクザクの足元まで転がって……それと目が合った。
飛んできたそれは、人間の……若い男の生首だった。
暫し、何が起きたか理解が出来ず、茫然自失としていたクザクはその生首の目から視線を外すことが出来ずにいた。
やがて、恐らくは一秒か二秒……突如、胃の腑が裏返るような吐き気に見舞われ、クザクはその場で吐いた。といっても既に胃袋には昼に食べたものなど残っている筈も無く、出てきたのは胃液だけだった。
「い……一体何が……」
胃液に喉を焼かれる不快感と目の前の生首から否応なしに感じる恐怖を必死に押さえ、何とか叫び出さずに耐えたものの震える脚まで止めるには至らない。
冷静さを欠き、何とかして思考をまとめようとするが、混乱したクザクの頭からは判断力といったものが極限まで欠如している。今起きた現象を正しく理解出来るだけの余裕は一瞬で消失し、この生首が飛来した理由を思索することが出来ない。
汚れた口許を拭うのに精一杯で、この惨劇を作り出した原因に予想を付けることはおろか、聞こえた悲鳴は女のものであったのに目の前の生首はどう見ても男であること――つまり、悲鳴の主は別に存在していることも、クザクには思い至る事が出来なかった。
「ひ……ひぎっ……嫌っ! がっ……がぼご……」
聞くに堪えない断末魔と、何か固いものが砕かれる……いや、咀嚼されるゴリゴリといった物音に耳を塞ぐことも出来ず、呆然と振り向いたクザクの前に、その元凶と思われる黒い影が佇んでいた。
一言で言うなら、悪魔。または黒い骸骨とでも形容しようか。
実際の骸骨のように空洞になっているのでは無い。骨を覆うように黒く滑り、光沢を放つ皮膚とそれを支えるには物足りなく思えるほどの細い筋肉に覆われている。
見た目はクザクより華奢に見えるのに、その身体から発せられる圧力は、明らかに人間の放てる気配では無い。
その双眸はどす黒い血液のような色をして、まるで炎のようにちらちらと燃えている。
身体のあちこちから角のような突起物が生えているのも特徴的だが、何より目を離すことが出来なかったのは、その黒い骸骨は女の身体を抱え、巨大な口が女の頭部を丸かじりにしていた。化け物が咀嚼する度に、口許から血液と、恐らくは脳漿が漏れ、ビチャビチャと辺りに飛び散る。
その光景を見た瞬間に、恐怖が――全ての人間が根源に持つ『死』への恐怖にクザクは支配されてしまった。
「う……うわあああああああああああああああああああああああああっ!!」
クザクは這うようにしてその場から逃げ出す。
背を向けて逃げ出すなど、普通であれば自殺行為にも等しいが、今のクザクにとって、形振りなど構ってはいられない。
ただ、ひたすらに、ここから逃げ出すことだけを考えた。
黒骸骨が手に持っていたもの――引き千切られた人間の腕を無造作にクザクに向かって投げつける。それは轟音と共にクザクの背中目掛けて突撃してきた。
直後、恐怖に脚をもつれさせ前のめりにつんのめったクザクの肩を飛来した腕が僅かに擦める。足をもつれさせなけれ直撃していただろう。だが擦っただけの筈なのに、その肩に激痛が走り、同時に地面に押さえつけられるように地に伏した。
直後、積み上げた資材が凄まじい破壊音を伴って崩れ落ちる。
今投げられた腕が、数トンはありそうな鉄骨の束を突き崩したのだ。
「え? うぐっ……あがっ!」
崩れた資材の方を確認しようと顔を上げたクザクは、本当に僅か一センチほど擦っただけなのかと疑いたくなる程の激痛に、一瞬視界を失いかける。
手で肩をおさえるが、幸い折れてはいないようだった。クザクの額から、激痛の為か恐怖からか、それとも双方が原因なのかは解らないが、大量の脂汗が流れて落ちた。
それでも前方に目を凝らし、同時に愕然とする。
崩れた資材の束が、完全に出口を覆っている。
ちょっとやそっとの力ではどうにもならなさそうな状況を目の当たりにしたクザクは、黒い骸骨から少しでも距離を取るため、辺りを見回して逃げ道を探す。
「くっ……一体何なんだよ、あれは!」
このままでは、追い詰められる。
クザクは恐怖に震える膝頭を手のひらで押さえつけると、建物の奥に向かって逃走を再開する。
現に黒骸骨は直ぐ後ろで、クザクを捕まえようと鋭い爪が伸びた腕を伸ばしてくる。
資材や柱の影に隠れるように、必死に逃げ惑うが、すっかり日が落ちて夕闇に支配された建物の中で、捕まらないように逃げるのは困難を極めた。
振り向き様に、仄暗い赤光がクザクを睨め付け、それがより一層の恐怖を煽る。恐怖に囚われ脚が竦みそうになるのを、なけなしの勇気で奮い立たせ不格好に逃走を続ける。
痛む左肩からは、うっすらと血が滲んでいた。
先程の投擲でダメージを負った肩の皮膚が裂けたようだが、この程度で済んだのであれば僥倖と言って良い。
無差別に置かれた資材のお陰で、完全に迷路と化した建物の中を、半ば勘だけで掻き分けるようにして逃げ続ける。
辺りに置かれた資材――クザクの腕力でも動かせそうな細い鉄骨など――を、少しでも化け物の足止めになればと、ばらまきながら進む。幸い立てかけてあった鉄材などは、容易に崩す事が出来た。
逃げながら追跡を阻むため、無闇矢鱈に辺りの資材をひっくり返すと、倒れた鉄材が配電盤を突き破ってショートする。
バチィッと激しい音がクザクの背後から響き、フラッシュを焚いたかのごとく、周囲を激しく照らす。
「グゴオオオオオオオオオオオオオッ!」
思わず脚を止めてしまいそうな、恐ろしい叫び声に必死で抵抗するように、クザクは後ろも見ずにひた走った。
幸い、今のが目くらましとなったのか、黒骸骨との距離が開く。
今のうちに外に逃げたいところだが、この工場はクザクの想像より遙かに広く、置かれた資材がちょっとした迷路を形成していた。日が落ちてしまったことも手伝ってか、クザクも自分自身が建物の何処にいるのか解らなくなっている。
直後、クザクは自身の肉体に生じた異変に気が付いた。
「くそ……脚が……」
黒骸骨の声が聞こえなくなったことで、一瞬の安堵が気の緩みを呼んだ。
極度の緊張状態から僅かに開放されると同時に、膝がガクガクと震えたかと思えば、全く力が入らなくなってしまった。
脚を叩いて無理矢理にでも立ち上がろうとするが、あまり大きな音を立てることは、黒骸骨に居場所を教えることになるのではと不安が過ぎり、膝を叩こうとする手が止まる。今は手近な柱に捕まり、なんとか立っているが、あと少し気を緩めれば、その場にへたり込んでしまうだろう。
仕方なく、クザクはうずたかく積み上げられた資材の隙間に一時的に身を潜めることにした。
クザクが脚を止めた場所は、二階部分のフロアが突き出した構造をしており、それがやや低い天井の役割をしている。その天井に届くほどの高さに鉄板などの資材が積み上げられている為、周囲からは大部分が死角となっていた。
資材の隙間を縫うように奥へ入り込むと、所々人一人がしゃがめる位の空間があり、資材の隙間から覗いたくらいでは奥まで見通すことは困難と思えた。
周囲に置かれている資材は大きめの鉄板など、特に重量のある物が置かれているようで、簡単には動かせそうも無い。
黒骸骨が常識でははかれないほどの腕力を持っていることな、先程の一撃からも判断出来るが、それでもそれまでクザクが見かけた鉄骨に比べれば積み上げられた鉄板の方が遙かに重いことは間違いが無い。
黒骸骨が如何に怪力であっても、これらを一瞬で排除するほどの怪力は無いのではないか。
先程までの黒骸骨の追跡を思い起こすと、クザクはそう結論づけた。
もしこの鉄板を素手で排除出来るほどの力があったなら、クザクは今頃とうの昔に黒骸骨に捕らえられていてもおかしくはない。
であれば、取り敢えずこの場に隠れてやり過ごすのも、悪くない選択肢のように思えた。
袋小路にもなっていないので、見つかった場合にも反対側から逃げることも出来そうだ。
クザクはあらかじめ目星をつけていた空間に身を潜めると、ズルズルと崩れ落ちるように座り込んだ。
勿論、この考えが楽観的なものの見方であることは、クザク自身も重々承知している。
それでも、今は命を狙われながら、暗がりの中を無闇に歩き回るより、このまま隠れつつ少しでも休んだ方が良いと判断した。
いや、正しくは休みたいという欲求に逆らうことが出来なかった。
当然のことながら、最善は工場の外に出て逃げ出すことなのは間違いがない。
ただ、自分の場合はこのまま隠れていた方が安全なのでは無いか。
根拠は明確に無いが、普段の自身を顧みれば黒骸骨にも認識されないままやり過ごすことも可能なのではないか――とクザクは思案し、結論を出した。
それが甘い妄想でしか無いと、クザクは直後に思い知ることになった。