酒場の親父は転生者 <外伝> とある少女の夢見事情
私は夢を見ていた。
暖かくて、大きな物に抱かれ、ここ最近感じた事の無かった幸福感に包まれている。だからそれが夢であることがわかった。
現実は私に甘い夢を見させてはくれず、幸福は唐突に奪われて、それ以来悪夢の只中に置かれているようだった。
だから私は甘えた、その幸福感に。
夢なら冷めて欲しく無いと思った。
そして再び微睡んで、思い出の中に沈んでいった。
その日は私の十五歳の誕生日だった。
実家は農家だったが、地域では名主に次ぐ規模の農場を運営し、名主も領主も一定の配慮をしてくれる。そんな家柄だった。
その日まで、何不自由なく育てられ、甘やかされて不安を知らず、招かれた人々に誕生を祝われる中、その日待ち望んでいた最高の知らせを受けて、人生最高の喜びに満ちあふれていた事を覚えている。
「父さん、ほんとう? 本当に私が選ばれたの?」
「ああ、新年が明けたら御領主様のお屋敷に勤める事になる。しっかり勉強してくるんだよ」
父は優しく微笑んで告げてくれた。母は優しくお祝いを言ってくれ、周りに集う人からはお祝いと、羨望の声を聞いた。
それはずっと期待し、待ち望んでいた知らせだったから、私は天にも昇る気持ちだった。
この村や、近隣の幾つかの村を治める貴族の御領主様は、毎年十五歳になった娘を貴族の館に召使いとして住まわせて、行儀作法を学ぶ機会を与えて下さるのだ。
父さんに言わせれば「かいじゅうさく?」とからしいけど、これに選ばれる事はとても名誉な事で、村中の娘達の憧れだった。
貴族様のお屋敷で一年間から二年間暮らし、その豪華な生活を垣間見る機会を与えられる。そして、お勤めを無事に終えてお屋敷を下がった娘は、幸福な結婚が出来る。お父さんはこの事を「娘にはくをつける」とも言っていた。
実際に、十歳年上の憧れのいとこであるアデーレ姉さんは、お屋敷を下がった後、隣村の名主さんの跡取り息子に求婚されて、素敵なお嫁さんになったのだから、絶対に本当の事だ。
そんな未来が私にもやってくると、この時の私は信じて疑わなかった。
年が明けて、いよいよその日がやってきた。
今年は私の他にもう一人選ばれていて、その子は隣村の商家の娘でベッティちゃんと言うらしい。
でも、御領主様へのご挨拶のとき、殆どうまくしゃべれなくて可哀想だった。私はこの日の為にお母さんの厳しい特訓を受けていたから、自分でも驚くぐらい上手に出来た。そして、お褒めの言葉をいただき、とても誇らしかった。
実はお母さんも、貴族様の御屋敷にお仕えしていたらしく、その頃の思い出は人生の宝物として、今でも鮮明に覚えているのですって。それぐらい輝かしくて、素敵な思い出ばかりだって聞かされていたんだ。
それから召使いを取り仕切る家政婦長さんに仕事を教わりながら、御屋敷に仕える召使いとして一生懸命働いた。御領主様の御家族も、屋敷に勤める使用人の皆さんもとても優しくて、特に奥様からは「お茶の入れ方が上手ね」って特別に目を掛けていただいたりした。
初めて垣間見る貴族様の生活は見た事の無いもので溢れていて、毎日が新しい発見の連続で、興奮と楽しいことばかりで、気がつけば瞬く間に半年が過ぎ去っていた。
そんなある日、御領主様の嫡男であるフリードハイム様が、留学先の王都からお戻りになられた。
何でも二年間の留学を終え、明日から御領地経営の勉強をなさり、ゆくゆくはお家を継がれるんだとか。「お父さんとお母さんの為にも、頑張って気に入られないといけない。新しい御領主様になられるお方だもの」私はその時、そんな事を考えていたと思う。
フリード様――そう呼んでくれと、お願いされた――はとてもお優しい方で、私やベッティちゃんにもとても良くして下さり、珍しいお菓子をくれたり、王都の興味深いお話を聞かせてくれた。
だから私もベッティちゃんも、すぐに御屋敷の他の方達と同じように、信頼することが出来たんだ。
フリード様が御屋敷に戻られて二ヶ月が過ぎ去った頃だろうか、御屋敷の離れに通じる廊下を一人で掃除していた時だった。周りには誰も居なくて、それでもサボらずにちゃんと仕事をしていたときに、フリード様がそっと近づいてきて小声で言った。
「ユーリエ、君に頼みたい事がある。誰にも内緒でみんなを驚かせる仕掛けをしたいのだが、君にだけは仲間として協力して欲しい。今夜誰にも気づかれないように僕の部屋に来てくれ」
そう言って、フリード様は去って行かれた。その時の私は、フリード様が以前お話しして下さった、サプライズパーティの事を思い出し、そういったことをやるのだと考えていた。
(そんな仕掛けに携われるなんて、何て素敵なんだろう)
私は何の疑いも抱かず、自分を選んでくれたフリード様に感謝していた。
私は言われたとおり、同室のベッティちゃんが寝たのを見計らい、夜中に誰にも見つからないよう気をつけながら、内緒でフリード様の部屋に向かった。誰にも内緒の秘密を作る行為に、少なく無いスリルと興奮を覚えていた。
躊躇いがちにフリード様のお部屋をノックすると、フリード様は直ぐに私を部屋に招き入れてくれた。
お話をお聞きする為、フリード様の方を振り返ろうとしたが、その前に後ろから突き飛ばされ、寝台にうつぶせに倒れ込んでしまった。何が起こったか解らずに、慌てて起き上がろうとしたのだが、フリード様に素早くのしかかられ、身動きが取れなくなる。大きな声で叫ぼうともしたが、素早く顔を寝台に押しつけられ、叫びは少しも外へ漏れ出さなかった。
「静かにしろ。人を呼んでどうする気だ? お前が一人で俺の部屋に忍び込んできたんだぜ、それ以外、お前がここに居る理由があるか? それでも騒ぎたいなら騒げば良い、そのかわり、恥をかくのはお前で、家族が知れば悲しむことになると思うがな」
私はその言葉を聞いて、体の底から震え上がった。お父さんやお母さんから、そんな事だけはしてはいけないと、きつく言われていたのを思い出したからだ。
もし、貴族様のお手が付いたら、村に戻っても結婚相手なんか居なくなる。身分の違う貴族様とは結婚できないから、良くてお妾さんとして一生を過ごす事になる。大抵は体良く捨てられて、村の片隅でひっそりと一生を終えるのだ。過去にはそう言った事があったと聞かされていた。
(逃げなければ!)
そう思って、懸命に抵抗しようとするが、フリード様はメイド服のボタンを上だけ二つ外し、無理矢理に二の腕の位置まで服を脱がせた。それだけで、服が体に食い込んで上半身の自由が奪われてしまう。
それでも懸命に逃れようとするが、フリードの力は強く、易々と押さえ込まれてしまう。もがく私の胸を無理矢理掴んで強く揉みしだくと、
「只の村娘にしちゃあ、立派なモン付けてるじゃねえか、王都の娼館で働けば売れっ子になるぜ。ククク」
それまでの貴族然とした雰囲気をかなぐり捨て、フリードは下卑た声で笑う。その様子に私は戦慄した。
フリードの行為はどんどんエスカレートしていき、スカートをまくり、下着を全て脱がされる。危機感に全てを捨てて叫びだそうとしても、上から体重を掛けて来て肺を圧迫し、まともな呼吸を奪う。
やがて、柔らかな枕に顔を押さえつけられると、
「どうせ初めてだろう? 最初は痛いらしいからな。まあすぐによくなるさ」
そんな事を言って、上からのしかかってきた。
それがどんな事なのかは、薄々知識を持ってはいた。しかし、思い描いていた幸福な瞬間では無く、凄まじい恐怖と喪失感をもたらすものだった。
痛みが、灼熱感に変わり、さらに痛みへと戻っていく。それが何度も繰り返され、有る瞬間凄まじい痛みが押し寄せて、私は意識を手放した。
その時間がどのくらいだったのかわからない。しかし目が覚めても地獄の苦しみはまだ終わっていなかった。
再び目が覚めた私は、全ての抵抗する気力を奪われていた。服は全てはぎ取られ、生きる人形と化していた。
フリードはそんな私にはお構いなく、自分の欲望を満たす為、好きなだけ私を嬲り、蹂躙し、貪り尽くした。
やがて満足したのか、行為が済んだ私を寝台から蹴落とし、傲然と言い放った。
「この事は誰にも言うんじゃ無いぞ? 言えばお前が恥を掻くだけで無く、お前の両親もきっと大変な事になる。貴族の嫡男を誑かす為に送り込んだってな。お前がメイドに選ばれる時、結構強引な手を使ったらしいからな。それと、明日から毎日必ず同じようにここに来い。来なかった場合も同じ目にあわせるからな」
その言葉は、私にとって死刑宣告も同然の言葉だった。
あちこち痛む体に、無理矢理メイド服を着て、よろよろと部屋を下がる。自分の部屋までの道が、まるで世界の果てであるかのように感じられた。服を脱いで、ベッドに潜り込むと、声を聞かれないように泣いた。
泣き疲れ、うとうとしたと思ったら、もう朝が着ていた。
痛みと、気怠さが残る体を無理矢理寝台から引きはがし、仕事に出た。周りに気づかれるのが怖かったからだ。しかし、集中力を欠く意識と、体中の痛みのせいで、いくつものミスを起こし、家政婦長さんに何度も注意を受ける羽目になった。
その日から、毎夜のように陵辱に耐える日々が始まった。
既に退路がない事は、自分自身が一番良く理解していた。そしてそんな事は隠し通せるものでも無い事は明白だった。
初めは、仲良しだったベッティちゃんから避けられるようになった事だった。
それが気のせいでは無いと気づいた時、御屋敷の使用人達の全てから侮蔑の視線を受けている事を知った。彼らに知られたと言う事は、村の人々全てに知られたと考えても間違いでは無かった。悪い噂とはそういう物なのだ。両親を悲しませていると思うと、胸が張り裂けそうだったが、自分ではどうする事も出来なかった。
世界から色が失われ、自分を取り巻く空気さえ、自分を責め苛んでいるように感じる。誰とも会話をしない日が続き、私は段々とフリードに依存していくようになっていった。
フリードは冷たい男だったが、気まぐれに私に声を掛け、ときに優しく振る舞う。私は翻弄され、だんだんと言いなりになり、彼に見捨てられる事を恐怖だと感じるようになった。出来る限り従順に振る舞い、彼の歓心を買おうとさえした。
そんな生活が、半年ほど続いた頃、御当主とフリードが激しく言い争いをする事が多くなった。
御当主が諫め、フリードが逆上する。そんな争いだ。平和で、穏やかだった御屋敷の雰囲気は、もう何処にも感じられなくなっていた。
喧嘩した日は、フリードの自分への扱いも酷い物となる。全ての腹いせを叩き付けるかのように扱われるのだ。その日も、派手な喧嘩の後だったから、それを覚悟していた。
「ユーリエ、家を出る。お前も付いて来い」
私は何を言われているか、理解できていただろうか? その時の私に出来たのは、何の抵抗もせずについて行く事だけだった。
フリードは旅支度を終えており、私にローブを着せると、僅かな手荷物を手に厩へ向かう。
そこに用意されていた馬に鞍を乗せ、私を鞍に押し上げると、自分も飛び乗って馬を走らせ始めた。
時間は真夜中を過ぎた辺りで、天空には半月が出ており、ある程度の夜目は利いた。
人々は寝静まり、家の明かりは落ちており、昼間であればのどかな田園風景でしかない故郷の景色は、見た事も無いほど不気味に見え、恐ろしい魔物の住処にしか見なかった。
そして・・・・・・、それが故郷を見た、最後の光景となった。
連れ出された私と旅をしている間、フリードはやけに私に優しく接してきた。
「王都に出て、成功して親父を見返す」と繰り返して語り、私の事は「妻として大切にしてやる」と囁いていたが、私はそれに何の感慨も湧かなかった。あったのは見捨てられて一人になることへの恐怖だけだった。
王都へは二週間ほどでたどり着いた。しかし二人を乗せて旅する強行軍が祟ったのか、王都に着いた途端、馬が死んでしまうアクシデントがあった。
それでもフリードは、実家を出る時に持ち出した金で家を借り、以前王都に居た時の人脈を活かして仕事を探し始めた。
その頃の私は家に居て、戻ってきたフリードの世話をし、夜は従順に抱かれて過ごしていた。
フリードは、たまに仕事については、直ぐに止める事を繰り返していた。貴族のボンボンでしか無い彼に、勤まるような仕事など王都には無かったのだ。
持ち出した金が尽きていくのと時を合わせるようにして、フリードは荒れていくようになり、同時に酒に溺れるようになった。そして、私に暴力を振るい「少しはお前も働け」と罵った。理不尽な仕打ちにも、逆らう意思は浮かばなかった。この頃の私は、自分の心を殺し、思考を止め、言われたとおりに動く只の人形と化していた。
だから翌日から言われたとおり仕事を探し始め、それはすぐに見つかった。
仕事は、王都のメイン通りからは外れているものの、それでもなかなか人通りが多く、賑わっている通りに面した酒場の女給だった。
給与はそれ程良く無いが、賄いが付く上に、余った食料を分けてくれると言うのに惹かれたのだ。
その店は、太った親父さんと、優しげなおばさんの二人で切り盛りしており、私はその日から懸命に働き出した。
フリードが家に居る時間が多くなった分、自分が外で働く時間が多くなった。正直その方が楽だったし、なによりも、店のおばさんは私に優しく笑いかけ、仕事を教えてくれ、可愛がってくれた。
私はその時、人が自分に笑いかけてくれる事の大切さを実感し、そんな相手に出会えた事に感謝していた。
酒場で働いている時間だけは、昔の自分を取り戻せたかのようだった。酒場で働く自分と、フリードの元にいるときの自分、両方を知る人物がもし居たなら、とても同一人物とは思えない。そう感想を述べたに違いなかった。
その頃から、フリードは家を空ける時間が多くなり、だんだんと寄りつかなくなっていった。たまに現れる時は酒に酷く酔っており、凄く荒んで手が付けられない。乱暴に抱かれる間、じっと耐えるしか無かった。
そんな日々が続いたある日、それに気がついたのは自分では無く、酒場のおばさんだった。
私自身は、最近体調がおかしいくらいに思っていただけだ。
「ユーリエ、あんた妊娠しているんじゃ無いのかい?」
おばさんにそう問われたとき、何のことか、まるでわからなかった。
考えてみれば当たり前の話なのだが、男女の行為は本来そのためのもので、している事はしているのだから、常にその危険はあったはずだ。しかし私にとって苦痛でしかないその行為に、愛の結晶であるはずの子供を結びつけて考える事がすぐには出来ず、戸惑いが大きかった。
私は申し訳ない気持ちで一杯になった。おばさん夫婦には子供がなく、望んでも出来ないのだと知っていた。だから私の事が娘のように思えるのだと、可愛がってくれていたのだから。
望まない私に子供が出来て、望んでいる二人には子供が出来ない。何て不公平なのだろう・・・・・・。
フリードは、既に家に寄りつかなくなっていた。ここ最近の二ヶ月程は姿を見せておらず、もう現れないのかもしれなかった。
私は一人でこの子を産んで育てるか、堕ろすかの決断を迫られた。
この頃、私はやっと自分を取り戻す事が出来るようになっていた気がする。自分で働いて生活している事、おばさんという優しい味方が出来た事、フリードが現れなくなった事、それらが合わさって本来の自分を徐々に取り戻している最中だった。
だから自分に問うてみた。
(この子を愛せるのか?)と。
私は断言しても良いが、フリードを愛した事などない。
ただ恐怖心と孤独感から依存していたに過ぎない。だから、そのフリードとの子供を愛せるのか、自分に問うたときに、答えが意外とすんなりと出た事に自分でも驚いた。
(この子がいれば、私はもう一人じゃない。この子がいるなら、私は生きていける。この子を誰より愛して、幸せにしたい)
それが、私の出した答えだった。
それから二ヶ月間、何事も起こらなかった。フリードも現れていない。
おばさんは薄々私の境遇を感じ取っており、何かあっても自分が面倒を見ると言ってくれた。心強くて、暖かで、自然に涙が溢れてきた。自分もこんな風に優しい人になれるだろうか? そんな風に思わせてくれた。
覚悟を決めた私は、色々と準備を進めていった。
先ず、フリードが借りた家を出て、おばさん夫婦の酒場に住み込みで働く事にした。二人に甘える事になるが、おばさんは嬉しそうだったし、私も心強かった。
家を出た事によりお金の全てを生まれてくる子供のために費やせるようになった。
新しい産着を縫い、おしめを揃え、少しずつ準備を整えていった。
そうやって過ごす事に慣れだした頃だった。新年を明日に控えたその日、忙しい二人の代わりに仕入れ先へのお使いを引き受け、支払いを済ませた帰りのことだった。
(嫌なものに当たっちゃったな・・・・・・)
激しい人だかりを避けようとしている内に、表通りに押し出される格好となってしまっていた。
そんな表通りを、罪人が刑場に引かれる前に見せしめにされる行列が通りすぎていた。この日は、罪人に「新たな年を迎える権利は無い」との意味を込めて、処刑を待つ重罪人の刑が執行される事が多いのだ。
私はそんな行列には興味などなく、足早に迂回路へ向かおうとしていた。その足を止めさせたのは、その視界に、信じられないものを捉えたからだ。
重罪人として、馬に乗った役人に引きずられるようにして歩く犯罪者達の列。その中に見知った顔を見つけたからだ。
フリードだった。
頬がこけ、無精髭を生やし、幽鬼のような形相に目だけが爛々と輝いているが、その面影は違えようがなかった。口には木の猿轡をはめられ、手も鎖で後ろに拘束されている。両足にも鎖が付けられており、歩幅を制限されている。
私は、フラフラとその列の後を追った。理由なんてわからない。
やがて王都の外れに設置された刑場にたどり着いた。
そこでは、引き出された罪人達が次々と刑を執行されていく。残虐な光景をなるべく見ないようにしながらその時を待った。
そして、いよいよフリードの番となる。
読み上げられた罪状は、商家に押し入り、幼い子供を含めた家族六人全員を惨殺し、金品を奪った上、屋敷に火を付けた一味の一人と言うものであった。
その日と、事件には覚えがあった。ずいぶん騒がれていた事もあるが、赤ん坊を身ごもったときに逆算した最後にフリードにあった日と合致するのだ。
その日のフリードは、いつも以上に恐ろしく、忌まわしく、嫌悪を押さえるのに必死だった事を思い出す。
あれにはこんな理由があったのか・・・・・・。そして、この子はそんな時に生を受けたのか、何て酷い話だろう・・・・・・。
しかし、だからといって、この子に何の罪があるというのだ!
この事は、生涯自分一人で背負うと決めた。そして、最期まで見届けるのだ、私の運命をねじ曲げ、今、正に地獄へ落ちる男の最後を。
刑は、拘束具の付いた台座の上に、両手と頭を拘束された上、斧を首に当てられ、上からハンマーを落とす方法で実施される。この方法が最も苦痛なく刑を執行できると言われているらしい。
彼は刑の執行を迎えても、最後までもがき足掻いた。そして、とうとう猿轡を外す事に成功すると、しゃがれた声で叫んだ。
「俺は、バウツェン伯爵家の跡取り、フリードハイムだ! こんな扱いをして、ただではすまさんぞ!」
しかし、処刑執行官を務める役人は、顔色一つ変えなかった。
すぐさま、猿轡を締め直させると処刑を一時中断させる。
「死にゆく罪人に教えてやる義理もないが、バウツェン伯爵家の名誉に関わる事であるから話しておいてやろう。バウツェン伯爵家に問い合わせたところ、嫡男であるフリードハイム様は二年前に落馬事故でお亡くなりになっているそうだ。死者の名を語り、名誉を傷つける不届き者め、死して地獄でその妄言を吐けぬよう、その舌はくり抜いてカラスの餌としてやろう」
フリードは、呆然とした顔を浮かべていた。実家に見捨てられたのが、信じられないとでも言うのだろうか? だが、死にゆく者の妄執か、生に縋り付く執念なのか、フリードのその目が私を捉えた。
猿轡の下で、猛然と聞き取れぬ叫びを上げ、私に何かを伝えようとしている。多分、今すぐ助け出せとでも叫んでいるのだろう。
私は、自分の中にそんな冷酷な感情があった事を知らなかったが、フリードの必死な形相を冷然と眺め、その瞬間まで微動だにしなかった。
やがて、処刑の槌が振り下ろされ、それは、ゴロッと台の上を転がって止まった・・・・・・。
その瞬間に感じた感情は、確かに「安堵」だったに、違いない。見届けた私は、足早にその場を立ち去ったのだった・・・・・・。
二ヶ月後、赤ん坊は無事に生まれてきた。女の子だったのでミリィーアと名付けた。
ミリィーアを生んだものの、産後の肥立ちが悪く、三週間ほど寝込んで過ごした。生まれたばかりの子供を残して、死んでしまうのでは無いかとの恐怖に怯えたが、何とか体力を回復する事が出来た。全ては献身的に助けてくれたおばさんのおかげで、私はお世話になった分をきっちり返そうと誓い、必死に働きだした。
そんな矢先におばさんが風邪で寝込んでしまった。色々と世話をかけ過ぎたのだと思い心配になるが、自分に出来るのはおばさんの代わりにしっかりと働く事だった。
おばさんが寝込んでから二日目の夜、店じまいを済ませておばさんの様子を見ようと思っていたときに、親父さんに呼び止められる。
親父さんは無口な人で有り、殆ど会話もしないため珍しいなと思ったが、世話になっている人だ「はい、なんでしょう?」と快く応じて、用件を聞きに行く。
その時まで私は、親父さんの事を優しいおばさんの夫で、同じように優しい人だと考え、母親のように慕っているおばさんを通して、父親のように思っていたのだと思う。当然男性として意識した事など無かった。
しかし、唐突に、まるで人が変わったような形相をして、いきなりのしかかられ、店のテーブルの上に押し倒される。
「暴れるな、秘密をばらされても良いのか?」
その言葉にビクッとなってしまうのは、先日の処刑場での光景がよぎったからに他ならない。
「いいか、良く聞くんだ。お前の赤ん坊の父親は、あの大罪人フリードだろう? 俺は一度お前の後を付けて見た事があるんだからな。ばらされたらどうなると思う。お前も、あの赤ん坊も大変な目に遭うだろうよ」
時折息を切らせ、言葉を句切りながら親父さんはそう言うと、服の上から私の胸を強く揉みはじめる。
「いいか、黙っていてやる代わりに俺の言う事を聞くんだ。そしてあの石女の代わりに、俺の子を産むんだ。俺は才能有る料理人で、こんな立派な店もあるのに跡取りがいないなんてそんな馬鹿な事があるか、あんな大罪人より、俺の方がよっぽどお前を喜ばせてやるぜ」
そう言いつつ、いつの間にかズボンを脱ぎ、下半身を露出させて迫ってきた。
一瞬、裏切られた悲しみも有り、自暴自棄に陥りかけた・・・・・・。
なぜ、私ばかりこんな目に遭うのかと、悲しみと諦めに心を閉ざしかけた。
その時脳裏に浮かんだのは、おばさんが掛けてくれた優しい笑顔だった。このまま受け入れれば、あの優しい人を悲しませる事になる。以前裏切ってしまった両親のように・・・・・・。
その間殆ど抵抗していなかった私は、両足を体の間に差し入れると、思いっきり親父さんの体を両足で突き飛ばした。
親父さんは、抵抗を予想していなかったのか、もんどり打って倒れ、その拍子に頭を強く打ったのか、動かなくなった。
まさか殺したのではないかと怖くなったが、胸は上下しており、息はしていると確認して安堵する。
(でも、ここにこのまま居ることは出来ないんだ・・・・・・。それに、おばさんとも・・・・・・、ごめんなさい)
大好きなおばさんにも、もう会うことはできない。その事が何より悲しかったが、何より優先すべきはミリィの事だと思ったから迷わなかった。
自分の部屋に帰ると、ミリィの荷物を中心にあり合わせの荷造りを行い、ミリィを抱いて家を出た。
行く当てなど当然無かった。だが、ミリィを大事に育てるためには、ミリィの出自を誰も知らない場所へ行かなければならない。それには王都を出なければならなかった。
街道を行く、駅馬車の乗客場近くの軒下でひっそりと夜を過ごし、朝一番の馬車に乗った。実家の方向には近づけないので、反対方向へ向かう馬車だった。
馬車とは言え赤ん坊も連れた旅は、過酷の一言だった。
それに、ミリィが泣く度に、同乗者から白い目で見られ、針の筵の上で過ごした。
七日目にメセルブルグと言う街に着いたとき、駅馬車の御者から「もう、乗せることはできない」と告げられた。他の客からの苦情が酷くて商売にならないと言われれば、致し方なかった。
路銀は多くなく、ハッキリ言えば尽き掛けていた。すぐにでも仕事を探す必要があったが、自分に出来ることなどそれ程多いわけではない。だから酒場を見つけたとき、出来る仕事という意味では、先ず当たってみるべき場所だった。
その店はとても繁盛しているようだった。若い娘や、子供を抱えた女性が楽しそうに笑いながら次々と出てくる。知り合い同士、料理の話に夢中であり、誰も私に気がつかなかった。
私は、その店に思い切って入ってみることにした。
私が入った時間は、お昼をかなり回っていたので、お店は準備中のようだった。しかし、話をするなら逆に都合が良いだろうと、思い切って中に入る。
店の中では、年配の女性と中年の男性が後片付けをしている最中で、すぐさま「準備中だよ」と声を掛けられるが、私の様子を見て、何かを悟ったのだろう年配の女性はゆっくりと近づいてきた。中年の男性は、我関せずを貫くかのように、洗い物を抱えて下がってしまった。
(似てないけど、親子かな?)
私は二人の様子に、そう予測した。言葉を交わさず、仕事を瞬時に分担する様子には、相手に対する深い信頼感を感じたのだ。
「あら、可愛いわねぇ、お幾つかしら?」
年配の女性は、私が抱いたミリィを見て、笑顔で語りかけてきた。その優しげな笑顔に、母親と、おばさんの影を重ね、私は少し安堵する事が出来た。話しかけられたのが男性の方だったら、まともに話を出来たか疑わしい。
「一ヶ月ちょっとになります」
私はなるべく好印象を与えたくて、ハッキリとした口調で答えるように努力する。
「そう、大変な時期よねぇ。申し遅れたわね、私はこの店の女将でハンナよ、あなたとこのお子さんのお名前は?」
「ユーリエ・ハーフェンと申します。この子はミリィーア、ミリィと呼んでいます」
「そう、ミリィちゃんね、それで、ユーリエさん、何かご用時?」
ハンナは私が客では無いと既に悟っていたようで、優しく聞いてくれる。その姿におばさんを重ねてしまい、今度はチクリとした胸の痛みを覚える。
「ここで、働かせていただけないでしょうか? 路銀が切れてしまって、しばらくの間だけでも良いんです。お願いします。何でもしますから」
私は必死で頼み込んだ。この優しい人なら助けてくれるのでは無いかと思ったのだ。
ハンナは私の言葉をある程度は予想していたのか、それ程驚いた様子は見せなかった。少し困ったな、と言う表情を見せたぐらいだ。
それから、私に当たりさわりの無い質問を色々と投げかけてくる。どこから来たのか、どこへ向かっているのか、出身はどこで、どうしてこの店を選んだのかなどだ。
だが質問の答えに頓着する様子は無く、単に考えを纏める時間が欲しいから、答えを引き延ばすための質問をしている。そんな気配を感じる。すぐに断られなかったから、感触としては悪くないのだと思う。多分迷っているのだろう、私の素性が怪しいのは、自分でもよくわかっている。
そんな問答が続く中、奥に引っ込んでいた中年男性が店内に戻ってくる。手には、良い香りのする見た事も無いスープ料理、パンに野菜やお肉を挟んだ料理、それに飲み物を運んでいる。
彼はそっと私の横に立つと、それらを私の前に置いた。しかし私は横に立たれたとき、旅を出る原因となった事件を思い出し、自分でも体が強張るのがわかった。
しかし、彼はそれを気づかなかったかのように自然と私から離れ、ハンナと目線を交わす。
「食事は済んだかい? 良かったら食べて、残り物だからお代はいらないよ。少し席を外すからねぇ」
ハンナは料理を私に勧めると、彼と一緒に厨房の方へ向かった。私に聞かれたくない相談があることはすぐにわかる。
しかし、目の前に料理を出されて、自分がどれだけ空腹を覚えていたのか自覚させられていた私は、無料との気遣いに感謝をしつつスープを食べ始めた。
「美味しい!」
それは信じられないぐらい美味しい料理だった。
甘く、芳醇な、とろみとこくのあるスープに、様々な野菜がゴロっと入っている。野菜だけかと思ったら、何と肉まで入っている。そして、パンに野菜やお肉を挟んだだけに見える料理には、初めて食べる調味料が使われ、絶妙な酸味が全ての素材を調和させ、感動するほど美味しかった。
お店から出てきた女性達が、夢中で話していた理由がわかったような気がした。一度も手を止めること無く、全てを夢中で食べ尽くす。その感想は、まさに至福とも言うべきものだった。
王都でも、これだけの料理を味わえる店がいくつあるだろう? 貴族様御用達の店になら、あるかもしれなかった。
こんな店が王都で開いていたら、他の店は軒並みつぶれてしまうに違いなかった。
私を襲ったあの親父さんは自分の才能を誇っていたが、正直なところ勝負にすらなっていない。
(もしかして、ここは凄いお店なのかも、こんな所に雇ってもらえるだろうか?)
つい悲観的な思いに囚われる。そんなタイミングで、二人は戻ってきた。
ハンナは私の目の前に座り、真っ直ぐに見つめてきた。
「ユーリエだったね」
「はい」
私は、緊張で心臓が飛び出しそうだった。ハンナの言葉次第では、親子で路頭に迷う可能性が非常に高いのだ、運命を告げる宣告である。
「そう、ユーリエ、こっちはウートだよ。二人で話し合った結果、あんたを雇うことにするよ」
一瞬、緊張で聞き逃しそうになった。と言うか、雇うしか頭に入ってこない。
「ほんとうですか・・・・・・?」
私の声は、緊張でかすれていた。こんなに都合良く話が進んで良いのだろうか?
「ああ、丁度、人を雇う話をしていたところでね、人を探しているところだったのさ。条件は、日給大銅貨三枚、働きしだいで昇給有りだよ。それからあんた、住むところはあるのかい?」
ハンナの言葉に首を振る。どこか最初は安宿を借りるか、倉庫でもかまわないから紹介して貰おうと考えていた。
「一応、酒場の裏に寝泊まりできる場所はあるんだけど、あそこにいるウートと同じ建物って事になる。勿論部屋は別々だけどね、どうする嫌かい?」
ハンナの言葉に、私は冷や水を浴びせられる思いだった。
いい話には裏がある。男と一つ屋根の下で暮らす提案は、つまりそういうことなのだ。この息子だろう男におもちゃにされる覚悟が無ければ、この話は無くなる。さっきのは、そういう相談だったのだろう。
断る選択肢は浮かばなかった、必死の思いで取り戻した自分が、又、思考停止を起こし始めているようだった。
「わかり、ました、それでかまいません・・・・・・」
私は屈した。再び自分を捨てる覚悟をした。
それで最後にミリィが残れば、それでいいでは無いかと思った。そのために今は全てを、心を殺して委ねるのだ。
「そうかい、なら部屋に案内しよう。付いておいで」
私はハンナに従い、部屋を案内して貰うため、後をついて行った。ウートと呼ばれた男性は、いつの間にか姿を消していたが、覚悟を決めた私は気にも止めなかった。
ハンナが案内したのは敷地内にある宿泊施設で、彼女は離れと呼んでいた。入り口の扉を開けると、中には部屋が二つ並んでいた。
「手前をウートが使っているからね、あんたは奥を使っておくれ。寝台はあるから、後で寝具を取りにいこうかね」
「ありがとうございます」
「それから、服もあんまり持ってないんだろう? 私の若いときの服で良ければ出して上げるよ、胸がきついかもしれないが我慢しとくれ。そのうち仕立てて上げるから」
ハンナは色々と気の利く性格で、面倒見も良さそうだ。ウートとの事が無ければ、これほど恵まれた職場は無いであろう。しかし、これだけの女性でも、自分の息子は可愛いらしい。私のような行きずりの行き場の無い女性なら、あてがっても非難する者はいない。後腐れ無く弄んでから、飽きたら追い出せばいい。結婚していておかしくない年齢に見えたが、地元住民からそう言った態度を嫌忌されているのかもしれない。私はそんな風に考えていた。
「それから一つだけ言っておくよ」
ハンナは急に真剣な顔になり、私を正面から見据えていった。今までに無い真剣な姿勢だ。
「ウートの事なんだけどね、あの子はちょっと普通じゃ無いんだ」
ハンナは急に変なことを言い始めた。ハンナの真剣な様子に、真剣に対応しようとしたが拍子抜けである。まさかの息子自慢とは・・・・・・。
「ウートは半年ぐらい前にひょっこり現れて、この街に住み着いた人間なんだけどね」
「え? 息子さんじゃ無いんですか?」
私は思わず問い質す。ハンナが、息子でも無い男に女性をあてがうとは思いも寄らなかったからだ。正直とてもそんな人には見えない。私はその真意を問いただそうとした。
「違うよぉ、とにかく最後まで聞きな。あの子はここに来てまだ半年しかたたないのに、次々と驚くようなことをやって、今じゃこの街に無くてはならない人材なんだよ。街中の人が、その一挙手一投足に注目していると言っていい。ウートを敵に回せば、この街の住民はあんたを疎ましく思うかもしれない。そのぐらいに思っておいていいからね。それから、基本的には無害な人間だけど、ややこしい性格をしていてね、一度嫌われたら中々修復するのは難しいかもしれないよ。だからなるべく好かれるように努力しな。別に女として好かれなくてもいい、人として好かれるよう努力するんだ。いいね?」
私には、どういうことなのか全然わからなかった。とにかく、ハンナの息子じゃないこと、人身御供になど考えていないこと、ウートは街の中心人物で、難しい人らしいことを話しているのはわかったが、それが一体どういう事態を招くのかが解らない。
それに、どうしようとも私の運命が変わるようには思えないのだ。
だが、ハンナの言葉が杞憂でも何でも無いことはすぐにわかった。ハンナに色々準備して貰い、着替えてウートの所へ挨拶に行く。しかし、まともに目も合わせて貰えず、無視するように背を向けられた。
ハンナは「遅かったか」と言う顔で私を見たし、私は何がなにやらわからなくてオロオロするしか無かった。その後の仕事中も最低限の指示しか会話をしてもらえず、素っ気ない対応に終始された。
常連客の皆さんには、気さくに挨拶され取りあえず受け入れてもらえた気がしたが、全員からウートとうまくやってくれと釘を刺された。私はハンナの言葉が誇張一つ無い、真実であったことを知った。
しかし、既に取り付く島も無い有様である。何があれほど気に触ったのか全くわからない。或いは、ただの取り繕ったポーズでは無いかと疑い、そうであって欲しいと期待すらした。
その夜、私は覚悟して待った。
これまで、私を襲ってきた男達のように、豹変して扉を開けて襲いかかってくるのをじっと待った。
だが、隣の部屋からは、聞いた事が無い謎の言葉が響いて来るのみで、聞こえる度に体を震わせたが、それもしばらくすると止んで、どうやら寝入ったらしい気配が感じられた。
私は呆然とするしか無かった。その時、間が悪くもミリィが夜泣きを始め、それをなだめるのに必死になった。今度は、いつ怒鳴り込んでこられるだろうと、これもヒヤヒヤしながら待ったが。それすら起こらなかった。やがて私は待ち疲れてしまい、ミリィと二人でいつの間にか眠りについていたのだった。
翌日朝一番に、夜泣きの事を謝りに行った。
「すいません、ウートさん。ミリィが泣いて五月蠅かったでしょう。気をつけますので」
「え・・・・・・? 全然気がつかなかった。俺は寝たらそうそう起きないんで、気にしなくていいぞ」
あれだけ大泣きしていたのだ、気づかないはずは無いのだが、謝罪すら受け入れたくないのだろうか。
その日から、明らかにイライラし始めたウートに対し、なんとか関係改善を図ろうとするが、悉く躱され、拒否され、無視された。
そして気がつけば、途方に暮れていた。
なぜ嫌われたのかさえ解らないままに拒絶され、どうやら女としても求められておらず、このまま取り付く島も無くやがて追い出されるのだろうか?
この職場はウートとの関係を除けば、すこぶる条件が良かった。住み込みで、賄い――しかもそれがとんでもなく美味しい――が付き、ハンナが色々と服を用意してくれたので、衣食住完備と言って良かった。それに、ハンナがミリィをかなり気に入ってくれて、必要なときは面倒も見てくれる。これ以上の好条件など望めるはずも無かった。
だから関係改善を図る手がかりを探していたのだが、彼の親友が尋ねてきたときの会話を偶然聞き取り、さらなる絶望が押し寄せた。
「いよう、ウートどうした、しけた面して。なんか可愛い子入ってんじゃねえか、もう手を出したのか? どうなんだよ」
「そんな事は“どうでもいい”から、ちょっとこっちへ来い」
それを聞いてガックリと落ち込むしか無かった。彼にとって私は、既に“どうでもいい”人と区別されているのだと知ってしまった。
翌日、肩を落とす私を心配したハンナが、ウートへ取りなしてくれる事になり、私はそれに一縷の望みをかけた。ハンナに諭されたウートが目を泳がせながら近寄ってくる。目すら合わせられないというのか・・・・・・。
私は何をしてしまったのだろう? ここまで忌避されるようなことをしただろうか? ウートの答えを不安な面持ちで待った。
「態度が悪くて済まないな。気の利かないダメ親父なんて、許さなくていいから。俺に全然気を遣う必要は無いし、もうその辺の石ころとか、雑草だと思って自由にのびのびやってくれていいからさ」
一縷の望みを繋いだ、ハンナさんの取り成しは、彼の逆鱗に触れたのだろう。まさかの絶縁宣言だった。
一見、自分を貶め、気を遣わないようしろと言っているが、この街で彼をそんな風に扱う人間はいない。よそ者の私がそんなことをすれば、街の人が快く思わないことを知っていて、そんなことを言ったのだろう。
私は全てが手遅れであった事を知り、無力感に打ち拉がれ、泣き出していた。そして、そんな私を見て、彼は怒っているようだった。私は彼の前から逃げ出すことしか出来なかった。
泣いてはいけないと思ったが、涙を止めるのは難しかった。必死で今後のことを考えた。
(関係改善が無理なら、長くはここにいられない。お金を貯めたらどこか余所に行こう。それまで何とか頼み込んで働かせて貰おう)
そう考えるのが、精一杯だった。そんなことをくよくよと考えていたせいで、気がつくのが遅れてしまった。ミリィの様子がおかしいことに。
気づいたときには、元気が無く、苦しそうに息をしている。慌てて額に手を当てると、異常なほど熱が高い。
丁度部屋に入ってきたハンナさんに、異変を告げる。
それからしばらくは、混乱して何が起こっているかわからないほど動揺していた。
いつの間にか来ていた薬師が発した、『黒斑病』と言う病名を聞いて目の前が真っ暗になり、気が付けば泣き叫んでいた。それが、赤子が稀にかかる病気で、罹患すれば助からない“死の病”である事は、村の長老による昔語りで知っていた。ミリィが死んだら自分も死のう。その時はそう考えていた。
しかし、気づいた時には謎の薬が出てきて、治らないはずの病が治ってしまった。そしてその薬は、ウートが用意した『エリクシール』と言うらしかった。
(なぜ助けるの? 私のことが嫌いでは無かったの? ミリィは別なの? なのになぜ追い出そうとするの?)
次々と疑問が湧いたが、何一つ答えは得られなかった。
私は知りたくなった。彼が何を考えているのか、なぜ嫌われたのか、なぜ助けてくれたのか、その全てを知りたくなった。そのためにはまず、傍に居る必要があるのだった。
彼がミリィを嫌っていないことだけは間違いない。ならば、ミリィを理由にして近づけば良いのだと気づく。早速試してみた。
「触っても良いか?」
まるで自分に言われた気がした。――そして、どこか喜んでいる自分が居ることも知った。
「ミリィに触れても良いかな?」
彼は言い直した。やはり興味があるのはミリィのことらしい。――がっかりした。
「助かって良かったよ」
心からの言葉であることがわかった。だから私も心からのお礼を言った。
そして気がついた、彼は酷い人間では無いのだと。自分とは無関係な赤子の命をこれほどまでに思いやれるのだから。
そんな人間が、無為に人を傷つけたりするだろうか?
無視して、親子を路頭に迷わせようとするだろうか?
そうではないのだとしたら、何か理由があるのだ。私にそうさせる原因が、何かあるのだ。そう考えても、心当たりはまるで浮かばなかった。答えを知るピースが足りていないのだと思った。彼をもっと知らなければ解らないのだろう。
だからミリィをだしに何度も接近した。彼はミリィの前では無防備に自分を晒しているようだった。私に対する態度とは全然違う、赤ん坊相手なのに、逆に甘えているようにすら見えた。
もっと観察すれば、わかる気がした。
もう少しの所まで来ている気がしていた。
切っ掛けは、アクシデントに過ぎなかった。
私がお客様にぶつかって、スープをかぶり、エプロンを脱いでいたために起こった、偶然の産物に過ぎない。
私の胸が透けるほど、母乳が漏れ出していることに気づいた彼が、一瞬だけ見せ私に向けた欲望の眼差し、だが、それは本当にほんの一瞬に過ぎなかった。恐るべき意思の力で自分の欲望を抑え込むと、私を庇い、注意を促し、その場から連れ出してくれた。
その瞬間、全てのパーツが繋がった気がした。
私に近づかないのは? ――私が始めに怖がったからだ。
私に素っ気ないのは? ――私に欲望を抱かないようにするためだ。
私に目を向けないのは? ――私に欲望の視線を気づかせないためだ。
全部私のためだった? ――それ以外の答えは考えられない。
なぜそこまでしてくれるの? ――それが彼という人なのだろう。
私が彼を怖がる素振りを最初に見せたから、彼は全ての欲望を制御して気づかせないために、私と距離を置いたのだ。私が嫌いなわけでも疎ましいわけでも無く、一人の人間として、ちゃんと大切に扱うためにしたことなんだ。
私は自分が、男性不信に陥っていたことに気がついた。欲望のままに扱われ、信頼する人から引きはがされた。思うが儘に振る舞って、相手のことを少しも顧みない。そんな相手しか知らなかったのだから、無理も無いのかもしれない。
しかし、そんな相手と同等に扱われ、それを態度で示され、彼は深く傷ついただろう。私が傷つけたのだ。そんな私に償う術は、あるのだろうか・・・・・・。
服を着替えながらそう考え、思い悩んでいた。
そこへハンナが、ミリィを連れて部屋に入ってくる。そして「今日は早仕舞にしたよ」と教えてくれる。
ハンナの手からミリィを受け取りながら、思い余ってハンナさんに相談してみた。
「あるわけ無いだろう? そんな都合の良い方法が」
あっさりとそう告げられてしまう。思わず絶句してしまうが、ハンナの言葉には続きがあった。
「あんたが考えている以上に、あの子への借りは大きいんだよ。まともな方法で返せるもんかねぇ。あたしゃ聞いちまったんだよ、バイエルからあの『エリクシール』とか言う薬の値段をさ」
ハンナの顔色は、心持ち青く見えた。
「幾ら・・・・・・、だったんですか?」
私はハンナの様子に嫌な予感を覚えながら、恐る恐る聞いてみた。
「金貨五百枚(五億円)、だってさ」
聞いた瞬間、心臓が止まるかと思った。とても正気の沙汰とは思えない金額だ、何かの間違いでは無いかと強く願った。
「・・・・・・冗談ですよね?」
それは私の願望を強く反映した思いだ。そう有って欲しいという思い。
「はあ、だったらどれだけ気が楽になるか。あの子は非常識の塊みたいなもんなんだよ」
「そんなの、もうどうしたら・・・・・・」
私は絶望に震え、ハンナは大きな溜息を吐く、そんな金額、すでに人が払える金額を遙かに超えているではないか。私がどんな事をしたとしても、とても返せるような金額では無い。
「もう後は、男女の仲になるしか無いね」
ハンナは思いがけないほど、大胆な事を言った。
「そんなものでどうにかなるんですか? 彼がその気になれば、いくらでも望む相手が手に入るでしょう?」
ウートには、わざわざ私みたいな面倒な女を選ぶ理由は無い。今ではそう自覚している。才能も、器量も桁外れで、街の人々はそれを認めている。慎重に、自分に見合った相手を選り好のんで、望める立場だ。
「そうだとしてもだよ。うちの亭主がむかし言ってたんだ『女の肌には男にしかわからない価値がある、時には千金を超える価値がある』ってね、それに賭けてみて、ダメなら次を考えればいいじゃないさ」
とてもハンナとは思えない、やけくそのような意見だが、それだけ『エリクシール』の金額に動揺しているのだろう。
「でも、彼は私に目もくれませんよ・・・・・・」
私はどうして良いかわからずに、嘆くしか無かった。最初に犯した失敗が全ての元凶となり、自らの行動を制限していた。もし彼が望むならば、この身を投げ出すことにもはや何の躊躇いも無くなっていた。
自分にそれ程の価値があると思い上がっているわけでは無い。ただ、受けた恩はあまりにも重く、返せるものなど何も無い私にとって、せめて、望まれるならと考えるのは自然なことではないか。
それに、この胸に芽生え始めている気持ちは、決してそれだけでも無い。大それた望みかもしれなかった。
「いいかい、ユーリエ。いい女ってのは、特別な相手にだけ隙を見せるもんだ。大きな隙をね。男は馬鹿だから、いい女が見せた隙には逆らえないもんなのさ」
ハンナはわかるような、わからないような話で、私をけしかけてくる。目すらまともに合わない相手にどんな隙を見せれば良いのか皆目見当も付かない。
「それにね、そんなにのんびりもしてられないよ。あんたが言うとおり、ウートが誰かを望めば『町会』の奴らは何としてでも丸め込んで連れて来るだろうからねぇ、そうなる前に何とかしないと。あたしゃねぇ、あんたとミリィのことが心配なんだよ。女一人で子供を抱えて生きていくなんて、簡単にできる事じゃない。それぐらいなら、目の前にまだ誰のものでも無い男がいるんだから、全力で縋ったっていいじゃないか。受け入れるかどうか決めるのは男の器量次第だし、ウートならその点は心配ない気がするんだよ」
私だって、縋れるものなら縋り付きたい。それが許されるなら、どんなに大きな安堵を得られるだろう。特別な関係で無い今でさえ、彼の存在を大きく頼りがいのあるものとして感じているのだ。
しかしこのままではいずれ、その傍らには自分で無い存在が現れることになる。そうなれば必然、このつらく苦しい現実に、ミリィと二人で取り残される事になる。自分はそれに再び耐えられるのだろうか・・・・・・。
だが、その日は遠くないうちにやって来るだろう。ウートにだって身に秘めた欲望がある事を知った今ならば解る。彼は今、慎重に選んでいるだけなのだ、自分に見合った相手が現れるのを。
(自分の都合ばかりで嫌になる。彼が私なんか選ぶはずが無いのに、自分を欲望のままに蹂躙する男達と、どこが違うというの・・・・・・)
そんな悲観的な思考ばかりが浮かんできて、自らの自尊心を傷つけてしまう。
ハンナは、そんな私の様子をどう思ったのか、傍に来ていきなり抱きしめてくれた。
「いいかい、ユーリエよくお聞き。ウートが欲しいなら逃げちゃ駄目だ、自分を飾る事もしちゃ駄目だ。ただただ真っ直ぐあの子を見て、真っ直ぐに向かっていくんだ。あの子は正直な気持ちには、きっと正直に答えてくれるよ」
そう言って、ハンナは部屋を出て行った。
その日の夜、早じまいをしたウートは早々に部屋に下がり、いつもの如く寝入っているようだった。彼は信じられないほど寝付きがいいらしく、それにミリィが夜泣きをしても起きてくる気配が無い。
だから一度寝入ったら、接触するチャンスは無くなってしまう。
フロアで見せた欲望の眼差しを思い出し、或いは誘われるのでは無いかという妄想に近い思いは、早々に断念せざるを得なかった。
自分も諦めて寝ようとしたのだが、胸が張る感覚が気になり、痛みすら感じるようになって、寝られる気がしなかった。
この酒場で働くようになってからは、信じられないほど美味しい賄い料理を堪能しているため、栄養が格段に良くなったせいなのか、以前と違って母乳の量が増えていた。
しかも、ミリィは余り多くは飲んでくれないので、行き場を無くした母乳が服にまでしみ出てくるのだ。これをどうにかしないと、とても眠れるはずが無かった。
ここ数日繰り返されている作業を、今日もやるため部屋を出た。
一度寝入ったウートは絶対起きてこないので、わざわざ部屋に重たい洗い桶を持って行く必要は無い。そう思っていつも通りリビングのテーブルに洗い桶を用意し、上半身をはだけて、前のめりになった瞬間だった。
不意にウートが部屋から出てきて、目が合う。
「す、すまん!」
ウートは私の姿に気づくなり、部屋の中に戻っていった。
何が起きたか理解するまでに、しばらくの時間が必要だった。私は呆然と椅子に座ると、両腕で胸を隠し、その理由を考えていた。
(私がいると気づいて? いえ、それなら部屋に戻るのはおかしいし、それならどうして・・・・・・。あ、お手洗いか・・・・・・)
私に気づいて出てきたのでは無いと理解したとき、自分のしていた事が急に恥ずかしくなった。どうやら願望と妄想が入り交じって、つい期待してしまったらしい。早く部屋に戻らなければ、そう思って腰を上げた途端、再び扉が開いてウートが姿を現す。それを見て、私は再び腰を下ろした。
私の姿に一瞬ひるむ様子を見せたものの、こっちを見ないようにしながら素早く外に出て行く。こんな時間に外に出る用事は、お手洗いしか思いつかなかった。
ウートの目的が確認できた事で、やはり自分が求められていなかった事を確認する。
その夜の私は、やはりどこかおかしかったのだろう。思い悩みすぎて、焦りすぎて、願望に取り憑かれていた。そんな混乱した脳裏に浮かぶのは、ハンナが語っていた「隙を見せろ」と言うなんの根拠の無い言葉だった。
とてもウートがそんな手に引っかかるタイプには思えないが、隙を見せろというのは無防備な姿をさらせ、と言う事では無いだろうか? 今の自分はとても無防備だと思う。そして彼は再び部屋に戻るためにここを通る事は確実だ。そんな思いが、私を椅子に縛り付けていた。
戻ってきた彼は、とても怒った様子を見せていた。
自分でも馬鹿な事をしている自覚はあったから、怒りに恐怖は抱かなかった。
気が付けば、机の上に押し倒され、普段のウートとは全く違う男が自分を押さえ込んでいた。その目は、昏い欲望にギラ付き、今にも私に襲いかからんとしている。
だが、それでもどこか、最後の理性を残しているように感じられる。今までの自分を襲ってきた男達とは決定的に違う、恐ろしい程の意志の強さを感じるのだ。
私には、逃げ出せばもう二度とチャンスは訪れないだろうとの予感があった。
これは自分に与えられた唯一の、絶対的な幸運を掴む好機で有り、始めて自分から望んで行っている事なのだ。
私はじっと待った。
やがてその瞬間は訪れる。
ウートはその時初めて、分厚い理性の奥に眠る本性の一端を覗かせ始めた。
左胸をすわれ、母乳を嚥下している気配が伝わってくる。まるで私の状態を知り尽くしたように、張り詰めた胸を解きほぐし、解放していく。右胸も同じように解きほぐされ、全身を甘美な開放感に包まれる。
それが終わったとき、ウートの目に見つめられ、やがて唇を塞がれた。
その時、意外な事に気が付いた。それが自分のファーストキスであった事に、気が付いたからだ。
初めての慣れない行為に、戸惑いを覚える。
しかし、逃げようとも避けようとも思わず、ウートに導かれるままに答え、絡め取られ、やがてその行為に没頭していく。
唇が離れたとき、私は残念に思い、もっと繋がっていたいとすら考えたほどだ。
しかし、その余韻を感じるまもなく、彼に抱え上げられ、彼の部屋に運ばれていった。
優しくベッドに横たえられ、もどかしげに服を脱がされ、やがて彼の全てを受け入れた。
それは、二人がくたくたになるまで続き、その間ずっと大きな幸福感に包まれ、何度も快感に意識を失い、再び意識を取り戻し、その度に大きな安堵感に包まれ、幸福な夢に抱かれて眠る、幼い頃の自分を思い出させた。
それは、私が初めて知った女としての悦びだったのかもしれない。
翌朝起きた私は、それを夢だと思っていた。
出来れば永遠にひたっていたいほどの、甘美な夢だと。
だが自分が、大きな腕に抱かれていると気づいたとき、それが夢では無く、現実である事をハッキリと自覚させた。
私はその時、安堵感、幸福感、そして勝利感に包まれていた。
彼の傍に居ていい、という安堵感。
彼の傍に居られる、という幸福感。
彼の傍に誰よりも近くに居場所を得た、という勝利感。
私は気怠い体を起こし、彼の元を離れ、身支度を調えるために散らばった服を拾い集めて部屋を出た。ミリィの元に返るときは母親に戻らなければならない。
汲み置きの水で体を入念に清めると、別の服に着替え、ミリィの横にそっと体を滑り込ませると、もう一度眠るために目を閉じた。
そうしていても、この身に宿る気持ちが途切れる事は無いようだった。
こうして私は、あの日から続いた悪夢から目覚め、幸福な夢を見て眠る事が出来たのだった。