出掛けるまえのひと幕
カーテン越しに透き通るようなポカポカの春の陽射しが、ベットで惰眠をむさぼる俺に柔らかく降り注ぐ。
その光に微睡んでいた意識が浮上し、うーんと小さく欠伸をして目を開ける。
外は晴れ渡る青空に恵まれていることが見てとれて、爽快な気分での寝醒めとなった。
「ふわああぁー♪」
もうひとつ大きく伸びをして、勢いよく布団をはね除けると熱いシャワーを浴びに部屋から出る。
「あら陽菜乃、おはようー 日曜日なのに今日はやけに早起きね」
とても美味しそうな匂いが漂うリビングでは、しぃちゃんの絶妙な手捌きによりベーコンやアスパラなどの食材がフライパンの上で踊っていた。
「ふわぁわー おはよう......ママ」
「もう。ほらシャキッとしなさいな。洗顔してきてモーニングするわよ」
「ふわぁい」
なんとも気の抜けた返事を残して風呂場に行くと上から順番にパジャマのボタンを外していく。
その際もなるべく鏡を見ないように、いそいそと着替えると手早くバスルームに入り、少し熱めにしたシャワーを白く華奢な体にかける。
女の子になったことで何が一番に戸惑うかというと、トイレもそうだけど、なんといってもお風呂に入る時が今でも緊張してしまう。
菜々子にしょっぱいと称されてしまった柔らかな二つの膨らみも、そうはいえども俺には十分に存在をアピールしているし、細くしなやかにくびれた腰や、滑らかな太ももや足首なんて今でも洗いながらもドキドキし放しだ。
『うん! それに大きかったらそれはそれで肩凝るし、都ちゃんみたく注目の的になっちゃうし、これぐらいが申し分ないのだよ......決して小さいこと気にしてるわけじゃないんだからね』
俺はサラサラの髪を入念に注ぎ終えると、両手を泡立てて全身を隈無く洗っていく。
『ヒップもこじんまりしてるけど引き締まっているし、形はベストだよね?』
キュッと摘まむと確かな弾力さともちもちしたような感触が、跳ね返ってくる。
『はうう イケないイケない』
自分の身体を触って恥じらうのもどうかと思うけど、なんとなく照れくさい。
シャワーを使って体についた泡を満遍なく洗い流し、そくそくと風呂場から出る。
身体中の飛沫を拭きながら、なんとはなしに正面を見ると鏡の中の美少女と目が合う。
ほっそりとした全身をほのかにピンク色に染めて目をパチリと見開き俺を凝視している。
それが自分自身の今の姿とは判ってはいるけど画像を観ているような現実味のなさ。
「今日も陽菜乃は元気です!」
声を出すことで気合いを入れてみる。
手早く下着をつけてパジャマを履き直し、今日着ていく服装を選ぶため部屋に戻った。
前に下着のまま部屋に戻ろうとして、女の子なんだから家族の前でも最低限のモラルは持ちなさい!
うん、しぃちゃんにこっぴどく怒られたんだよね。
着替えてリビングに行くと既に食欲を誘う色とりどりの料理がテーブルに並べられており、しぃちゃんは席に座って俺が来るのを待ってくれていた。
「あら、お洒落して今日は出掛けるの? もしかして孝くんとデートなのかな」
満面の笑みで、それが当たり前のように聞かれ、何故か赤面してしまう。
いや現実は悲しいかな孝とは学校に入ってから、これがまだ一度も会ってないんだよね。
「違うよ 今日は黒野さんのお宅にお邪魔するんだ」
俺は陽一と紫月先輩の三人で行くことになった経緯を伝える。
「桐原 紫月さんね。こんなにも早く陽菜乃があの娘と巡り会い、ともに行動することとなるなんてね。運命的な何かがそこにあるのかも知れないわ」
しぃちゃんは、彫刻のように整った顔に思慮深さを浮かべ、瞑想してるが如く目を閉じて静かに囁く。
「紫月先輩は、殊のほかママに感謝しているみたいだよ。やっぱり入学するには様々な問題があったんだよね?」
「それはそうね 前例があるわけでもなく、トランスジェンダーという言葉や意味さえも、一般的には知られているものじゃないのだから」
いったん言葉を止めて過去に思いを馳せる。
「あの娘が真っ先に直面した問題としては、戸籍を変更出来なかったことが大きいわね」
しぃちゃんは、きっちりと先輩を女性そのものとして扱う。
当たり前のこととはいいながら中々そこまで人を信じる事ができるのだろうか。
「桐原さんのお父様のもとに最初伺ったときは、そりゃもうけんもホロロでとりつく島がないとは正にあんな感じなのかと思ったわ」
「剣道の名門の家柄としての矜持。私からみたら只の思い上がりなんだけど、あそこまで頑な態度をとれるのはある意味ひとつの才能かもね」
やれやれと手を挙げ
「結局、最後は私と楓歌と梨花の三人掛かりで説得というか、無理矢理にというか。長子の嫁とその姉には流石のあの偏屈も甘かったのか。それでもあれは納得してなかったよね?」
最後は珍しく自信なさげにフェードアウトしてしまう。
うん? 今、たしか梨花って言ったような、それはMattarikaオーナーのことなんだろうか、俺は執事喫茶を経営している人と同じか確認してみた。
「えっ? 陽菜乃もしかすると梨花とも知り合いなの」
驚くしぃちゃんと事実関係を整理してみると、梨花オーナーと楓歌先生は実の姉妹で、もともと桐原流剣道を修行していた時に二人ともそこで、今の旦那さん達と知り合ったとのこと、紫月先輩がオーナーの所でバイトやお世話になっているのも、この繋がりがあるからかと納得する。
「そう。縁とは真に不思議なものなのね。陽菜乃がここにこうして戻ってきてくれたことで、絡まりほつれていた糸が周りにも良い影響を与え、ほどけていってるのかもね」
しぃちゃんは、慈しむような面差しで俺を見て、極めて大事なものを扱う慎重さで、首に掛けていたネックレスを外し俺に見せる。
「これ......もしかして......」
鎖の先端部を小さな巾着袋で覆ったそのアクセサリを目にした瞬間、とても暖かな慕情と胸が締め付けられるような想いが、怒濤のように押し寄せて俺を飲み込む。
巾着袋越しからでも伝わる穏やかな心念と慈愛。
袋の中には清流父さんが乾坤一擲の大呪式により形づくった魂のこもる水晶球。
「これを預けておくわね きっと陽菜乃と貴女の大事な人の力強い支えとなるから」
しぃちゃんは俺の背後に立つと、やんわりとした動作でネックレスを首に掛けてくれる。
「ママの......それは大事なものなのに本当にいいの」
どんなに大切にしていたものなのか痛いほど判っている。
俺の髪の毛を愛しそうに手櫛で何度もすく。
「いいのよ。陽菜乃がここにいてくれる。ただそれだけで、私には他に何も要らないのだから」
手で整えた俺の頭を優しく撫で
「想いは力となり証しと成る。願い続けることで心は満ちたり、現実をも改める存在へと昇華する」
詠うように紡がれた言葉が俺の胸に深く染み渡っていく。
都ちゃんの家を訪れるのに駅前で紫月先輩と待ち合わせをしていたが、陽一はマンション近くまで俺を迎えに来てくれていた。
二人で駅まで歩きながら、紫月先輩のことを包み隠さず陽一に伝えて、俺は一つの提案をする。
「陽一......相談なんだけど、今から会う紫月先輩には俺たちに起こった、この不思議な現象を余すことなく話そうと思うんだけど、いいかな」
陽一は俺がそれでいいのであれば心から承諾したとばかりに、屈託のない笑みを投げて寄越した。




