7話
今まで堕けていた食生活を送っていたせいで着いた贅肉達も、真琴に紹介されてやって来た『さくら改造隊』によって劇的な変化を見せていた。
ボンレスハムのように太さだけは逞しかった腕も、すっきりとしてきた。
「さくらさん。今日までよく頑張りました。後はご自分で体調管理をしてください。でも、すぐに怠けると以前と同じか、もしくはもっと恐ろしい数字をたたき出すこともありますからね」
人懐っこい笑顔で毒と釘をさして行ったケンさん達とは今日でお別れだ。
ただ、心配だからってことで一週間に一度は会う事になっている。
この日はまさにその一週間に一度会う日だった。
いつもと同じようにストレッチをし、食事も野菜中心にして炭酸飲料よりも水をのむようにしているさくらの肌は、いままでの顔一杯にあったニキビは何処に消えたのかと思うくらいに、白くもちもちしている。
「しっかりと続けているようですね」
「はい。ケンさんやミナトさん達もお元気そうで何よりです」
ケンさん達を見送ったさくらはほっと息を吐くと、カウンターに突っ伏した。
この日も仕事は目白押しだった。
いつものダブル嫌味コンビに悩まされ、仕事は山のように積まれてく。その上、就業時間ギリギリになって書類を纏めてくれと言いだして来た営業のせいで、カリカリとなりながらもハイピッチで仕事を済ませた。
ようやく終わりそうだと思っていた仕事だったのに、あのバカ男が乱暴に自分の紙を置いたせいで今までようやく整理していた紙の束がバラバラに床に散らばった。これを最悪って言わないでなんだろうね。
手伝おうってしてくれたけど、これ以上この人と関わるとろくなことがないから、「大丈夫です」そう挿げもなく言って背中を向けた私は別に悪くない。
絶対に悪くない!
なのに、ヤツは社員出入り口の所で待ち伏せませしていた。
一体何なの?
こっちは、さっさと仕事を済ませて早く待ち合わせのバーに行こうとしていたのに。
「早乙女さん、夕食でも…」
「いりません。今夜は用事がありますから。新倉さん、今度から第二企画部に仕事を頼まれる時は、時間を見て言って下さい。私以外にも仕事ができる人はいますから。失礼します」
言ってしまったと思った時にはもう遅かった。
後は逃げるように待ち合わせの展望台レストランバーに来てた。
ここはさくらにとって隠れ家でもある。大学の時にお世話になったオケの先輩がバーテンダーとして腕を振るっているところだ。
突っ伏しているさくらの目の前に碧いカクテルが置かれた。
「糸井さん…あ、あの…私、今…「ダイエット中なんでしょ? 大丈夫。これはノンアルのカクテルだし、カロリーも抑えめなんだよ。さっき早乙女と一緒にいたケンさん達から頼まれてたからね」
ゆるゆると顔を上げたさくらはカクテルを眺めると、くすっと笑った。
「きれいね」
「当たり前だろ? 俺が作ってんだからな。それよりも早乙女、お前さ〜今度助っ人で良いからオケに出てくんないか?」
「え…?」
糸井広太も突然さくらがオケ部を辞めたことも納得がいかなかった。
「お前ほどのレベルの人間が出るような大きなオケじゃないんだが、たまには弾きたいだろ?」
「……糸井さん…「早乙女さん、ヴァイオリン弾けたの?」
さくらがその話はやめてと言おうとした時、今一番聞きたくない声が背後から聞こえて来た。
不機嫌も露に目を三白眼にさせるさくらの隣にその人は断りも無く座った。
「あなたは?」
「あ…はじめまして。早乙女さんと同じ会社の…新倉浩之と言います」
互いに名刺交換をした後、広太はさくらの方を見て「凄いのつり上げたじゃん」そう呟いた。
「早乙女。お前さー今、巨匠が日本に来てるのは知ってるよな? 何でもお前を捜しているって聞いたんだが…」
「ふーん。でも連絡なんかとってないわよ。昔のことだしね」
カクテルを傾けたさくらは、ふいに懐かしい自分のもう1つの名前を呼ばれた気がして、後ろを振り向いた。
ーティンク
そこには最後に会って以来、全く年も取っていないんじゃないかって思うほど、容姿が変わらない妙齢の外国人男性が立っていた。
「ルッソ…どう、して?」
幼児のような片言しか出て来ないことにもどかしさを感じながらも、唇を噛み締めた。
『ティンク。そんな哀しい顔をしないでおくれ。君のヴァイオリンが聞けないことにソニアも空の上から悲しんでいるよ』
泣きたくなるようなことを言われ、さくらはルッソに抱きつくと泣き出した。
「早乙女、さん…その人は…」
新倉の声なんか聞こえていないのか、そのままさくらはその外国人男性と二人で夜の街に消えて行った。
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この日も新倉はさくらと話をするために、ワザと就業時間ギリギリを狙って、第二企画部にやってきた。
昼間にここにやって来れば、他の女子社員達に阻まれてさくらと話すことも、顔を見ることすら出来ない。だが、就業時間近くになれば第二企画部に残っているのは、さくらだけだ。
別に急がなくてもいい用事を持って第二企画部へと来た新倉は、さくらをみつけると何か話さなきゃと思いながらも、ポケットに忍ばせていた映画のチケットを手にした。
いくら自分がさくらのすぐ後ろに立っていても、彼女は余程集中しているのか気がついてくれない。
(折角俺が、来てんのに…気がついてくれてもいいだろ?)
そう思った新倉はさくらに気付かれたいがために、勢い良く彼女の側に書類を置いた。
それがさくらの気に障ることだったとは、本人は全く気がつかない。
新倉が置いた書類の近くには、さくらが先ほどまで項目ごとに種類分けしていた書類の束があったのだが、それらが新倉の置いた書類の風圧で吹き飛んだのだ。
「あ…ごめん」
「……」
怒って…るよな…。
慌てて拾い集めようとしていると、盛大なため息を吐かれた。
「後は私がやりますから」
と挿げもなく言われ、新倉はトボトボと第二企画部を後にした。自分が悪いってことはわかってるが、そこまで怒ることないじゃないかと新倉はさくらに対して怒っていた。
まだ諦めきれない新倉は社員出入り口のところでさくらを待ち伏せした。
さっきの事を口実に、食事にでも誘う。どこまでも前向きな男である。
そう決意していた新倉の前を物凄い勢いでさくらが走り去って行く。そんなさくらをおいかけて、手を掴むと食事に誘った。
普通の女子社員達は自分が食事に誘うと頬を染めて付いて来る。なのに、早乙女さんは違った。
「早乙女さん、さっきのお詫びに夕食でも…」
言い終わる前に、クルリと振り向いたさくらの表情は不快感を強く示していた。
「いりません。今夜は用事がありますから。新倉さん、今度から第二企画部に仕事を頼まれる時は、時間を見て言って下さい。今日新倉さんが持って来られた書類ですが、あれって期限が来月までですよね? なら、私じゃなくても大丈夫のはずです。私以外にも仕事ができる人はいますから。失礼します」
取りつく島もないと言うのはこう言うことか。
さっきまで掴んでいた手は今もまだ、寂しく宙に浮いたままだ。
ここで諦めるわけにも行かず、新倉はさくらの後を着けて展望台レストランバーへとやって来たのだった。
そこで見た光景は、新倉の心臓を止めるほどの衝撃。さくらの周りに見目麗しい男達が笑顔でさくらの相手をしていた。
最後には互いに抱きしめ合っていて、自分もそこに割り込んで行きたい衝動を抑えるのに理性を総動員させて戦っていた。
なのに、自分が話しかけると心底嫌そうな顔でこっちを見て来る。
バーテンダーも俺の気持ちを知ってるのか、生暖かい目で「頑張れ」と言われてしまった。
これから仕切り直しで早乙女さんを食事にでも…そう思っていたら、今度は怪しい外国人男性だ。彼女は一体、何人の男達と付き合ってんだ?
ムッとしながらも二人のやり取りを見ていた新倉だったが、日本語じゃない言葉が飛び交うことに、眉を顰めた。
「糸井さん、あの外国人男性は誰ですか?」
バーテンダーに思い切って聞いてみれば、含み笑いをしてくる。一体何なんだよ。
「ん? 新倉さん。君って面白いこと聞くね〜。君の会社って音楽機器を扱ってる徳永楽器でしょ? その御曹司である君がルッソを知らないとはね…」
どうしてそのことを…今の自分は母方の旧姓を名乗っているから、新倉がまさか徳永の御曹司だと知る人間はそういないはずだ。何故知っているんだと聞き返そうとした新倉はあることに気がついた。
この糸井広太と言う男は、以前祖父の側にいた男と酷似している。
「あなたは…」
「私ですか? 糸井正隆の息子と言えばお分かりでしょう。以前はお屋敷であなたと遊んだ記憶もありますけどね」
「そうか…あの糸井秘書の息子さんだったとはね…。で?あの人は何者何だい?」
広太はまだわからないのかとばかりに目で笑っている。
グラスを拭きながらも広太はルッソのことを話始めた。
「ルッソ=バルトー。ジャン=バッカルと並ぶ世界の巨匠って呼ばれるクラッシック界の大物さ」
ールッソ?それって…あのルッソかよ。
「じゃあ、何で早乙女さんとあんなに親しいんだ? 君ならわかるだろ?」
その問いには広太も肩を竦めるばかり。
「例え早乙女と大学が一緒でも、知らないものは知らない。ただ、彼女に関しては色々な憶測が飛んでてね」
ールッソの恋人か愛人なんじゃないのかって言われてたことがあったよ…。
その言葉が頭に響いた。
もしかして最近急に彼女がきれいになり始めたのも、自分の親と同じくらいの男の愛に答えるためだったら…。
そう思うと新倉の顔に焦燥が走る。
「天下の徳永の御曹司が早乙女相手に嫉妬とはね。こうなると色男も台無しだな。君の噂は大学のときから知ってるよ。曜日ごとに女が違う色男で来る者拒まず、去る者追わずだってね」
広太が笑いながらも出したカクテルは学生時代彼がよく愛飲していたものだ。
それを一気に喉の奥に流し込むように呷ると、喉が焼け付くような痛みが走る。
もし、これが恋と言うのなら俺はあの子に恋をしているんだろうか…。
「悪いことは言わない。早乙女はやめておくんだな。あいつは恋なんかしないから」
バーテンダーの低い声だけが響いた。