朱の頬
異性を好くと、少々過剰にのめり込んでしまう。それが私の短所だった。とは言うものの奥手な性格であったがゆえ上手にアピール出来ず、恋心ばかりが悶々と自分の中で渦を巻き、結果として自分でも引くような行為に及ぶこともあった。
高校一年生だった当時、私はクラスメイトの福谷葛郎くんを好いていた。彼は平均的な身長に、良くも悪くもない容姿と、けしてルックスで女子を惹きつけるものは持っていなかった。私との間柄も、特別仲が良かったというわけでもなく、あくまでも多少よく話すクラスメイト、という認識しか互いに持っていなかった筈である。
だが、気が付いたら私は福谷くんのことが好きになっていた。
何故彼のことを意識し出したのか、自分でも分からない。いつからか、会話の何気ない仕草や、屈託のない笑い方に魅力を感じていた。気持ちは日に日にましていき、気が付いたら紛れもない恋愛感情を抱いている自分に気づかされたのだ。
恋を成就させたいとは思うものの、積極的になれる性格ではなかった私は、自分なりに彼に近づこうと画策するものの、いつまでもクラスメイトという間柄から抜け出せないでいた。勇気を出してアドレスを聞いたはいいが、その当日にメールを交わしてそれっきりである。用もなくメールを打つ、というのは性分じゃなく、また鬱陶しがられないかという不安もあったのだ。結局メールはそれ以降送信することがないままである。
加えて、意識しだしてからは福谷くんとの会話もぎこちないものになってしまった。元より赤面しやすい私は、彼と話していると顔の火照りを感じるようになったのだ。
そんな顔を見られていると思うと余計顔が熱くなり、その所為で中途半端に会話を切ってしまう。その火照りもしばらくすると多少は緩和され、話せるようにはなったが、まだまだ顔の熱さは残っている。
もしかすると、もう福谷くんも私の挙動から、薄々と私の気持ちに気づいているかもしれない。それでもって福谷くんも、私のことを意識している、そうだったらどれだけいいだろうと思った。ある日彼と話していたら突然恋愛話になり、彼が真剣な面持ちで私に告白する様な、そんな展開になったら。
そんな美味しいことがあり得る筈がないのは自分でもわかっていた。所詮、しょうもない慰みの妄想だ。
だが、内に向けられた恋心はそんな妄想ばかりを次々に生み出していった。そして、当時図書部員だった私は、誰もいない図書室でそれらの妄想を小説という形式に変えて綴っていたのだった。
我ながら、変態的な行為だと思った。だが、元から本が好きだったこともあり、執筆は思いのほか私に楽しさを感じさせたのだ。
好きになった人との架空のラブストーリーであり、私の願望を濃縮させたifストーリー。貸出カウンターのパソコンで書き綴ったその創作は、気がついたら原稿用紙換算で三十枚にもなっていた。
教室では緊張しつつ福谷くんと話し、放課後には空想上の恋人と物語を繰り広げる。そんな奇妙な日々がしばらく続いたある日のことだった。
昼休み後の五限目、保健授業の調べ学習の為にクラスの面々は図書室に来ていた。各々が保健に関するテーマを決めて、数コマ先のクラス発表に備えて原稿と資料を作る、という授業内容だ。授業担当の教師は初老の男性で、体育の授業も掛け持っているのだが、体育教師にありがちな厳格な性格をほとんど持ち合わせていない人だった。その日の授業も、始業後に二言三言を生徒に話しただけで、後は部屋の隅にあるソファに腰掛けて船を漕ぎ出す始末である。
その為、クラスメイトは仲のいい人同士で寄り集まって、もっぱら雑談に興じていた。男子の一部に至っては、本棚同士の通路で手押し相撲なんぞをやっている。私のグループには、話しつつもきちんと発表用原稿を作る真面目さがあったが。
私は参考になりそうな本を棚から見繕って、友人らのいる机へ向かおうとしていた。
何の前触れもなく、突然軋んだ音がした。ふと音のした方を見やると、同時に木の板が折れる様な、不快な音が室内に響き渡った。
音の正体はすぐにわかった。図書室の一番端、壁に隣接していた本棚である。手押し相撲をしていた男子の一人が、たたらを踏んで棚にぶつかってしまったらしい。
天井近くまで高さのある金属製の本棚は、その衝撃を受けて、ゆっくりと傾いたのだった。軋みの後の音は、壁と棚とを繋いでいたL字型金具が外れたことによるものだろう。
普通ならば、たかだか人一人ぶつかった程度で、重い本棚が動じることはないだろう。だが、寄贈されて数十年経つ老朽化したそれは、角のボルトが緩んで衝撃に弱くなっていたに違いない。
その証拠に平行四辺形に歪んだ本棚は、軋みを立てて緩慢と通路側に倒れだした。そして、不幸なことにその棚の傍には、二人の生徒の姿があった。
様子を見ていた全生徒が息を呑むなか、棚は生徒にのし掛かって床に倒れた──かのように思われた。
だが、図書室中が騒然とするなか、そこにあったのは、しゃがんで頭を抱えている女生徒と、歯を食い縛って棚を支えている福谷くんの姿だった。
そこからはあっという間だった。手押し相撲の面々はすぐさま福谷くんに加勢して棚を支え、女子が数人、うずくまった彼女を抱え起こす。教師も騒ぎを耳にし目を覚まして、棚の処置を指示する。ゆっくりと倒されて、棚は床に接地した。
その後、本棚は用務員の手によって起こされ、幾重にもビニル紐を巻きつけて壁に固定された。新しい本棚を購入するまではこの応急処置のまま使われるらしい。
福谷くんの勇姿はクラス内に飽き足らず、学年中に知れ渡った。自己防衛の意味合いもあった筈だろうに、彼が女生徒を守ろうとした、と誇張されて。
その日以降一気に人気者となった福谷くんは、男女問わずに今まで以上の人脈を持つようになった。私との会話がめっきり減ってしまったのは言うまでもない。だが、何よりも私を複雑な気持ちにさせたのは、助けられた女生徒だった。
彼女、香月玲菜はその一件以降、恐らく福谷くんに恋をしていた。彼女も私同様、あまり恋愛に積極的な方ではない様だが、事件前はほとんど話もしなかった二人が、今や高い頻度で話している。事件後に福谷くんと話すようになった人達も、助けられた張本人の前では会話を譲っていた。
玲菜さんが福谷くんに惚れている、というのは皆にも容易に想像出来たらしい。広まる噂はそう時を置かずして、武勇伝から恋愛話へと変わった。
運命的な出会いをした二人。周りの認識はそれであり、玲菜さんを応援する人は多かった。反面、私の気持ちを知っている人は一人もいなかった為、当然私への配慮なんてあるわけがない。
マジョリティは玲菜さんと福谷くんが結ばれることを望んでいた。福谷くんもそのことを知っているかもしれない。玲菜さんは小柄で、女子から見ても小動物のような可愛さを持っている子だから、告白したとなれば成功率はかなり高いに違いない。
私は、どうすればいいんだろう。
悩みは小説に昇華された。現実世界では何も出来ない私は、自身の鬱屈を妄想で晴らすことしか出来なかった。そんな無様な自慰行為に身を費やしていても、何も変わらないというのに。
二人の距離が縮まっていく度に、原稿用紙の枚数は増えていった。今や、八十枚代に及んでいる。
どの休み時間にも、べったりと寄り添っている二人。消極的な玲菜さんも、皆の協力を得られたお陰で容易に福谷くんの傍にいることが出来た。
二人が仲良くしているのを見て、嫉妬している自分に気づいた。私が勇気を出して、会話をしたり、アドレスを聞いたりなどしたというのに、彼女はたまたま福谷くんに守られて、たまたま皆の協力を得て、何一つ苦労しないまま彼の隣にいる。教室で聞こえてくる二人の会話が、私の徒労を嘲笑うかのように聞こえ出して、私はますます執筆に力を注いだ。桜色のUSBメモリは着実にデータ量を増やしていく。そんな自分を気味悪がり、自己嫌悪に陥る。
事件から二週間くらいたったある日の昼休みのことだった。弁当を食べる為に友人らと机を向かい合わせにしていると、対面から四人の女子が歩いて来た。全員がこちらを見ていたので、私に用があることは推察出来たのだが、その目に宿る攻撃的な光に私は少し狼狽した。
「えっと……どうしたの?」
私がおずおずと訊くと、そのうちのリーダー格、女子サッカー部の宮崎さんが口を開いた。
「伊野ちゃん、ちょっと来てよ」
日に焼けた170センチの彼女は、有無を言わせぬ口調で言うと私の手を掴んだ。ただならない空気を感じたが、私は友人に一声かけて、彼女たちに連れられて教室を出た。
連れてこられた先は、屋上入口だった。私の高校は生徒の屋上出入りを禁止しているので、鍵がかかった入口の踊り場には全く人が来ないのだ。
「あんたさあ、福谷のこと好きじゃんねぇ」
着くと同時に宮崎さんが私に言った。単刀直入で棘のある物言いに、ポーカーフェイスを続けつつも内心驚愕した。
どうしてそれを知っているの?
「いや、別に好きとかじゃないよ・・・」
ああ、これは絶対に玲菜さん関係だ。そう思った私は、即座に問いかけに嘘をついた。
「嘘でしょ。あんたずっと福谷にまとわりついてたじゃん」
見ればわかんのよね、ともう一人が同調する。アイライナーの引かれた鋭い目が私を睨む。
私は彼女に反駁したくなった。まとわりついてた、と言っても、会話をしていたのは事件前に限ってだし、どう考えてもずっと、ではない。
「本当にただの友達だったし」そう言っても四人組は信じようとしない。どうやら、私が福谷くんを好いているのは私の返答に関係なく決定された事項らしかった。実際その通りなのだが。
宮崎さんがまた言う。
「まあ、あんたが福谷のこと好きでもうちらはいーけどさあ、玲菜ちゃんが可哀想じゃん」
やはりそれか。内心で溜息をついた。
余計な介入。他人の恋路に口を出して、横槍をいれて、恋のキューピットを気取る人達。
玲菜さんと福谷くんの関係は良好なのだから、もし玲菜さんが私が恋敵だと気づいたとしても、宮崎さんらに頼んで私の邪魔をするなんてことは無いだろう。彼女達は恋の成就が見たいが為に、勝手に自分たちの意志で私を排除しようとしているのだ。
「今更、私が邪魔するわけないじゃん。玲菜さんと福谷くん上手くいってるみたいだし、私ももう諦めたから大丈夫だよ」
笑みながら言葉を吐く。実質、私が福谷くんを好いていたことを認める発言だ。表情が張り付いているのが自分でもわかった。
「ガチで言ってる?」と凄みのある低音で言われる。「本当だよ」と引きつり笑いで返した。
「じゃあもういいよ」
言うなり四人は階段を降りていく。彼女らの姿が見えなくなってから、私はその場に座りこんだ。
邪魔者なんだ。
膝頭に顎を乗せて、かすれた声でつぶやく。
皆が望んでいるのは、やっぱり玲菜さんと福谷くんのカップルなんだ。宮崎さんも、他の皆も、そして多分、福谷くん自身もそっちの方がいいのだろう。
私は孤独感に苛まれた。
その日、授業が終わるや否や、掃除もサボって図書室へ向かう。カウンターに入って、執筆の続きをする為にパソコンを立ち上げた。
また現実逃避だ。自分の都合のいい世界に逃げ込むんだ。
そうやって、自分に呆れる声が聞こえた。
それの何が悪い、と私は涙を拭った。
邪魔者。邪魔者。邪魔者。心を抉る三文字が身体中に蔓延る。何も悪いことをしていないのに、皆が見たいストーリーの、阻害者たりうる可能性が僅かにあるというだけで、私は脅迫された。実際には玲菜さんの勝ちは明白なのに、駄目押しの意味で私は屋上入口に連れ出された。
もう福谷くんのことは無理だと分かってはいる。それでも、恋心までは消えてくれない。相変わらずに、いや今まで以上に私の心臓を締め上げ、思考の大半を占める。
諦めろ、と何度も自身に命じた。無理矢理に気持ちを押さえつけて、忘れようとする。
誰一人にも歓迎されない想いなのだから。
そうして、私は自慰的な執筆に身を委ねた。
夕方五時のチャイムで私はパソコンから顔を上げた。
何時の間にか没頭していたらしく、作品は原稿用紙九十枚分に至っている。
もう帰らなくちゃ。そう思い、ワードソフトを上書き保存してUSBを抜く。パソコンの電源を落として、私はUSBをいつもの場所に隠そうとカウンターを出た。
本棚同士の間にある通路を進んで、一番奥の棚に着く。棚の最下段、一番左の本を抜き取り、空いたスペースににUSBをいれて本を戻した。
そして、カウンターにスクールバッグを取りに行こうとした、その時である。
本棚の通路を歩いていると、嫌な音がした。
何かが引き千切れるような音。そして、聞き覚えのある軋み。
はじめの音は、ビニル紐の切れる音だった。おざなりの応急処置は、棚の重さに耐えられなかったらしい。
声をあげる暇も無かった。本当に呆気ない、一瞬のことだったのだ。
棚が再び倒れてくる。そして玲菜さんの時とは違って、私を助けてくれる人はいない──
オレンジの夕景が最期に見えた。
「なあ、大丈夫?」
声をかけられて我に返ると、目の前に浩介の姿があった。訝しげにこちらを見ている。
「ごめんごめん、全然平気だから」
思わず笑みがこぼれる。
あれから、図書室で死んでしまった私は、そこから動くことも出来ずに6年間を過ごしてきた。此処にやって来る生徒の会話を聞いて、私の死が悲しまれたことを知り、玲菜さんと福谷くんが結ばれたことを知った。あまり人の来ることのない図書室だが、たまに授業の一環として生徒らがやって来る。その時に、他愛ない噂話やからかい合いを見聞きするのが私の楽しみだった。
今ではもう、私が当時知っていた生徒は皆卒業してしまってこの学校にはいない。けれども、たまに来る見知らぬ生徒らが、私は好きだった。
そして、今年の春。新一年生が図書部に入った。図書部員はほとんどが幽霊部員になってしまうので(本当の意味での幽霊部員は私だけだが)、毎日足繁く図書室にやって来るその一年生のことが、私は気になり出した。
そして、その年の夏休み。休暇に入って、教職員が図書室にいなくなったのを好機に、私はその子、浩介の前に姿を現した。初めは凄く驚かれたけれど、今では仲が良い。
浩介と話すうちに、私は彼のことが好きなのかもしれない、と思った。6年前にとっくに終わったあの恋と、似た気持ちになる。
その所為か、浩介を意識してから六年前のことを思い出すようになった。今では悲しみは風化し、懐かしさが主だが。
目の前の浩介は、まだ首を傾げて私を見ている。そんなに心配させてしまっただろうか。
私は、自分が幽霊になった理由を思い返した。死の直前に抱いた未練。「自分の気持ちに、素直になれなかった」という悔しさ。
だからこそ、今度は素直になろう。この未練を晴らそう。私は彼に話しかけた。
「ねえ、浩介って小説を読むだけじゃなく、書いたことってある?」
私の顔は赤くなっていないだろうか。