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東京原人  作者: 夏川龍治
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嵐の前の慌ただしさ

 いつものようにたっぷりと湯船に浸かって、リンスを入念に洗い流してから、夏海は浴室を出た。

 水玉模様があしらわれたお気に入りのパジャマを着て、洗面台の鏡の前に立つ。薄手のパジャマを着ているせいか、胸のふくらみが妙に目立って見える。夏海は同級生の中でも発育が早いほうで、最近どんどんふくらみはじめた胸が悩みの種なのであった。

 脱衣場の扉を開けると、そこには携帯電話を手にした俊雄が立っていた。

「キャッ!」

 夏海は反射的に、悲鳴に近い声をあげた。その半分は扉のすぐ前に何かの物体があったという驚き、もう半分はそれが俊雄だったという苛立ちであった。

「何してるのよ」

 腹立ち紛れに、夏海の口調も刺々しくなる。

「何してるって、トイレから出てきただけだよ」

 俊雄はぎこちなくこたえた。そして、夏海の胸のふくらみに視線を落として、

「大きくなったなあ、夏海も」

 と緩みきった微笑を浮かべた。

 その瞬間、体のずっと奥のほうから全身に一気に熱が伝わってくるのを、夏海は感じた。あまりに急激に体が熱くなったせいで、全身から湯気が出ていないかと心配になるほどだった。

「もう、サイテー!」

 ありったけの力でそう叫ぶと、夏海はまるでチーターに追いかけられるジャッカルのように一直線に階段を駆け上っていった。ややあって、夏海の部屋の扉が閉まる乱暴な音がリビングに響く。

「なに怒ってるんだ、あいつ」

 階段を見上げながら、俊雄は首をかしげた。

 夏海の苛立ちの余韻が残る階段に、美代子は呆れたような、それでいてどこか懐かしげな視線を送っていたのだった。


 ベッドに横になって好きなマンガを広げても、夏海の怒りはいっこうにおさまらなかった。

(大きくなったなあ、夏海も)

 数分前の俊雄の言葉が、まるで悪魔の囁きのように夏海の頭の中でしつこくリフレインする。その言葉を発した時の俊雄のやけに粘りけのある声、口もとに浮かんだだらしない微笑、そして、夏海の胸元に注がれたいやらしい視線……そのすべてが、思春期真っ只中の夏海のコンプレックスをことごとく刺激するのだった。

 高校生の娘の胸をジロジロと見つめるなんて、ホントに許せない。昔から鈍感な人だと思ってたけど、ここまでデリカシーがないとは思わなかった。もう、お父さんとは一生口きかない!

 夏海の怒りをなだめるかのように、扉が優しく二度、ノックされた。

「入るわよ」

 美代子の声だった。夏海は天井をぼんやりと見つめたまま何も言わない。

 返事がないことを無言の承諾だと受け取ったのか、扉がゆっくりと開いて、美代子が入ってきた。

「お父さん、しょんぼりしてたわよ」

 ベッドの縁に腰を下ろして、美代子は言った。

「胸のことを言われたら、女の子なら誰でもいやな気分になるわよね」

 穏やかな美代子の口調に、夏海の苛立ちも少しずつおさまっていく。

「でも、お父さんの気持ちもわかってあげて」

「お父さんの……気持ち?」

「お父さんは、うれしいのよ」

「うれしい? ハハッ、何が」

 白けたように夏海は鼻で笑ったが、美代子は真剣な顔で、

「どこの世界に、娘の成長を喜ばない父親がいるもんですか」

 と、かすかに語気を強めた。

「お父さんって不器用なのよ、昔から」

 と言って、美代子は照れたように微笑んだ。

「自分の気持ちを言葉で伝えるのが下手な人なの。だから、夏海にもどう話しかけていいかわからないのよ、きっと」

「そうなのかなあ」

 と呟きながら、夏海は考えていた。そう言われてみると、俊雄は自分に対して、どこか遠慮しているような気がする。携帯電話の操作方法の件にしても、俊雄なりの精一杯の表現方法だったのかもしれない。

「確かに胸のことに触れるのはちょっとデリカシーが足りないと思うけど、お父さんに悪気はないのよ、きっと。要は受け取り方の問題ってことかしら」

「受け取り方……」

「同じ言葉でも、受け取る人の気分次第でほめ言葉にも悪口にもなる。世の中ではよくあることよ」

 美代子はベッドから立ちあがった。

「夏海がもし本当にお父さんの言葉で傷ついたのなら、そのことをお父さんに冷静に伝えるべきよ。一方的な捨て台詞で終わりにしても、何も解決しないわ。あんな言い方をしたら、おたがいに傷つくだけよ」

「お母さん……」

 ようやく冷静になった頭で、夏海は美代子の言葉をゆっくりと反芻し、そして、一時の興奮にまかせて俊雄に感情的な一言を投げつけてしまった自分を反省した。さっきまでの全身の火照りがなくなったのは、湯上がりの熱気が冷めたせいばかりではないだろう。

 美代子は朗らかな笑顔を浮かべて、

「はい、この話はもう終わり! 明日も学校があるんだから、遅刻しないように早く寝なさい」

 と部屋の扉を開けた。

「ありがとね、お母さん」

 部屋を出ていく美代子の背中に、夏海は言った。美代子は振り返ると、

「どういたしまして、お嬢様」

 とおどけてみせた。

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 ゆっくりと、扉は閉められた。室内に残る心地良い余韻に、夏海はわけもなく清々しさを感じていた。

 夏海の頭の中に、ふと、梢の顔が浮かんだ。

 梢も、同じ気持ちだったのかもしれない。何気ない気持ちで言った言葉でも、梢にとってはすっごくショックなことだったんだ。だとしたら私、すごくひどい友達だ。これはやっぱり、私からちゃんと謝ったほうがいい。いや、絶対に謝らないと。

 夏海は携帯電話を手に取った。メール作成画面を呼び出して、一文字ずつ丁寧に、梢の顔を思い浮かべながら入力していく。

 ――今日はひどいこと言ってホントにごめんね――

 ううん、何か違うなあ。やっぱり、(ごめんね)じゃ軽すぎるかな。謝るならちゃんとした言葉にしないと。

 ――今日はひどいこと言っちゃってホントにごめんなさい――

 これでもちょっと軽いかな。

 ――今日はひどいこと言って本当にごめんなさい――

 だいぶんマシになったけど、どこか違うんだよね。こんなに相手の気持ちを考えてメールを打つのは初めてかもしれない……。

 ――今日はひどいことを言ってしまって、本当にごめんなさい――

 いくらなんでも、これは重すぎるか。これじゃまるで、テレビでよく見る謝罪会見の挨拶みたいだもん。メールの内容がかたすぎるからって嫌われたらどうしよう。

 でも、いいよね。大切なのは気持ちだもん。多少内容がおかしくても、精一杯考えて送ったってこと、梢に伝わるよね。

 メールの本文をゆっくりと読み返して、夏海は送信ボタンに指を添えた。指に力を込めたところでふと不安になり、もう一度本文を読み直した。

 念のために、もう一度メールを見直しておこう。もしかしたら何かの拍子でどこかの文字が消えてるかもしれないし。

 ――今日はひどいことを言ってしまって、本当にごめんなさい――

 よし、これでカンペキ。これだけ心を込めたメールなら、梢もきっとわかってくれるはず。ケータイの電池が残り少ないから、はやく送信しなきゃ。

 鼓動が速まるのを感じながら、夏海は送信ボタンに指を添えた。そして、ゆっくりと指に力を込めていく……。


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