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東京原人  作者: 夏川龍治
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その夜の出来事

 時おり沈んだため息を洩らしながら、夏海はリビングのテーブルに頬づえをついて、携帯電話の画面を見つめていた。キッチンでは、美代子が慌ただしく夕食の準備をしている。

「ちょっと夏海、電話で遊んでばかりいないで、少しは手伝いなさいよ。お皿を並べるぐらいはできるでしょ」

「ダメ。いま忙しいから」

 夏海は素っ気なくこたえた。こずえにメールを送るべきかどうか決めるのに、夏海は今、確かに忙しいのである。

「まったく、いつもそうなんだから」

 美代子の諦めたような嘆息も、こずえとの関係修復の道を必死に模索している夏海の耳には届かない。

 こういう場合、どんなメールを送ればいいんだろう。「ごめんね」だけじゃ素っ気ないだろうし、だからって余計なことをダラダラ書くのもメンドウだし……。それよりもまず、自分から謝るっていうのが気に入らないのよね。

「ほら、電話をどけてよ。食器が並べられないじゃないの」

 苛立ちを含んだ美代子の一言が、夏海の思考を中断した。不満げなため息を洩らしながら、夏海は携帯電話を閉じる。

 すべての食器がテーブルに並べられた頃、玄関のドアが開き、俊雄が帰ってきた。

「おっ、今日は冷しゃぶか。夏らしくていいな」

 テーブルに並べられた料理をちらりと見やって、俊雄は言った。わけもなく込み上げる不快感に、夏海は顔をしかめる。

 何よ、そのドラマから引っ張ってきたようなありきたりなセリフ。べつに夏じゃなくても冷しゃぶはおいしいわよ。それに、いつの間にかネクタイがまっすぐになってるし。朝見た時はあんなに曲がってたのに。部長さんから怒られたのかしら。まあ、どうでもいいけど。

 夕食が始まった。

「今日の冷しゃぶは特にうまいな」

 と、俊雄は言った。

 美代子は得意げに微笑んで、

「このお肉、すごく安かったのよ。いつもの半額近い値段で買えちゃったんだから」

「お母さんは買い物の天才だね」

 若干のからかいを込めて、夏海は言った。

「夏海も結婚すればそうなるわよ」

「そうかなあ」

 かすかににやける夏美の頭に、守のさわやかな微笑が浮かぶ。

「夏海はきっと、お父さんみたいな人と結婚するんだよな」

 ひやかすような俊雄の一言に、夏海の顔から笑顔が消える。

「そんなわけないでしょ」

 一日置いたコーヒーより冷めきった視線を、夏海は俊雄に送った。

「まあまあ、夏海。お父さんも冗談で言ってるんだから」

 と美代子はとりなすように言ったが、一度凍りついた部屋の空気はそう簡単には変わらない。

「そんなに嫌な顔することはないだろう。夏海だって昔は……」

 俊雄の言葉を遮るように、リビングの電話が鳴った。

「俺が出るよ」

 気まずい沈黙に堪えきれなくなったのか、自分への弁解のように呟いて、俊雄は立ちあがった。

「もしもし。ああ、お袋か」

 俊雄の声に安堵の色が滲む。

 電話の相手はおばあちゃんか。おばあちゃんと喋ってる時のお父さんは、何だか子供みたい。それもそうよね。お父さんはおばあちゃんの息子なんだもの。

「ああ、わかった。美代子たちにも伝えておくよ。はい、じゃあね」

 俊雄は受話器を置き、悪戯っぽい微笑を浮かべてみせた。

「明日、お袋がこっちに出てくるってさ」

「おばあちゃんがウチにくるの? やったあ、またいっぱい遊んでもらえる!」

「お義母さんがまたいらっしゃるのね」

 無邪気に喜ぶ夏海とは対照的に、美代子はどこか浮かない顔で味噌汁を啜った。

「このお味噌汁、ちょっとしょっぱいわね」

「ようし、明日にそなえて、今日は思いっきりエネルギーを補給するぞ!」

 まるで食べ盛りの子どものように無邪気に冷しゃぶを頬張る俊雄に、美代子はかすかに恨めしげな眼差しを送っていたのだった。


 食事が終わり、リビングで(こずえとの仲直り作戦)の続きを練っている夏海の隣に、俊雄はさりげなく座って、

「夏海、ちょっといいか」

「見ればわかるでしょ。私は今、すっごく忙しいの」

「メールの送り方をちょっと教えて……」

「そういうのは説明書を見ればわかるでしょ」

「どこにあるかわからないんだよ」

「もう、しつこい!」

 自慢のストレートヘアをかきむしって、夏海は怒鳴った。

「自分の部屋でやる!」

 夏海が憤然としてリビングを出ようとした時、脱衣場の扉が開き、美代子が顔を出した。

「何を怒鳴ってるの」

 驚いたように、美代子は言った。そして、仏頂面の夏海とリビングでしょんぼりしたまま座っている俊雄を見比べて、納得したようにくすっと笑った。

「お風呂沸いてるから、さっさと入っちゃいなさい」

「うん、わかった」

 助かったと言わんばかりに、夏海は頷いた。

「昔はかわいかったのに……」

「子どもなんて、そんなものよ」

 うなだれる俊雄の肩に、美代子はそっと手を置いた。

「それはそうと、夏海に何か相談があったんでしょう。私でよければ相談に乗るわよ」

「いや、いいんだ」

 さきほどまでの落胆ぶりから一転、かすかな狼狽の気配すらのぞかせて、俊雄は立ちあがった。

「あら、そう」

 がっかりしたように、美代子は嘆息を洩らした。

 久しぶりに夫婦で話をするチャンスだと思って俊雄に話しかけたのだが、あっけなく無視されてしまった。

 倦怠期というわけではない。互いの愛情が失われてしまったわけでも、もちろんない。だが、何かが足りないのだ。長年一つの家で暮らしてきたのだから、日常生活での細々としたことはわざわざ口に出さなくても伝わる。けれど、それでも会話がほしいのだ。新婚時代のような緊密な会話を求めるのは自分勝手な理想論なのだろうか……リビングのソファに座って黙々と携帯電話を操作している俊雄の背中をぼんやりと眺めながら、美代子は静かにため息をついた。

 一体、いつからこうなっちゃったのかしら。夏海が生まれる前は二人でどんな小さなことでも口に出して、笑い合えてたのに。夏海がまだ小さかった頃は三人でいろんな所に出かけて、楽しい想い出をたくさん作ったのに。今は夫婦の会話なんかほとんどなくて、私はただ毎日家の仕事をするだけ。これじゃあ家政婦と同じじゃないの。それに、夜のお楽しみだってずいぶんご無沙汰だし……。

 夫婦って、こんなものかしら。


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