予兆
夕暮れのさわやかな風が、校舎脇のポプラの葉を揺らした。それほど冷たい風でもないのに、夏海は背中から首筋にかけて寒気が走るのを感じた。
こんな季節に寒気がするなんて、ちょっとめずらしいわね。最近テスト勉強で疲れてるから、少しカゼ気味なのかな。
寒気を追い払うために激しく首を振ってから、夏海は歩きだした。
駐輪場には、梢がいた。ちょうど今から帰るところらしい。
梢は夏海に視線を向けることもなく、無表情のまま自転車で走り去った。あまりにも素っ気ない梢の態度に、夏海の薄れかけていたはずの怒りがじわじわと込み上げる。
何よ、今の態度。昼休みのケンカのこと、まだひきずってるのかしら。このままぐずぐずしてても時間のムダだから、あとで私から謝りのメールを送っとくか。メールなら表情が見えないから、本気で謝ってるかどうかなんてわからないだろうし。
こういう時に便利なのよね、メールって。
研究室の扉のノブに手をのばしかけて、助手はいったん格子状のガラス窓から中の様子を窺った。
博士の視線の先には、見るからにグロテスクな蛇のオブジェがあった。近頃流行しているヒーロー映画の主人公らしいが、濃い紫をベースとしたボディと狂気すら感じさせる怜悧な瞳を持つその物体は、ヒーローというよりも冷酷な怪物に近い雰囲気を漂わせていた。
「入りたまえ」
扉をノックすると、興奮の余韻が滲むくぐもった声が扉ごしに届いた。
「新しい研究の実験データをお持ちしました」
と助手が実験データの束を博士の前に置いても、博士は返事をせず、視線ひとつ向けようとしない。
「どうされたのですか、博士」
助手がそう呼びかけても、博士からの反応はない。
「博士……?」
不気味な予感を胸に、助手は博士の肩を軽くゆすった。すると、わずかな振動に流されるように、博士の体は助手が力を加えた方向にゆっくりと傾いていった。
「博士!」
雷にうたれたように、助手は博士の体を支えた。
「博士、大丈夫ですか!」
と助手が博士の顔を自分のほうにむけると、乱れた白髪の隙間から、目も鼻も口もない、完璧なのっぺらぼうの顔が現れた。
「ギャアッ!」
反射的にそう叫んで、助手は博士らしきものを放り投げた。おさえていた脂汗が一気にふき出す。
しばしの沈黙の後、どこかからくぐもった笑い声が聞こえてきた。
「すっかり楽しませてもらったよ」
実験用具をしまうロッカーの陰から、博士がゆっくりと姿を現した。無邪気な博士の拍手が、淀んだ空気に包まれた研究室に軽快に響く。
「これは……何ですか」
かすれた声で、助手は訊いた。
「これは私の分身さ」
「からかわないでくださいよ!」
嗜虐的な響きすら漂う博士の微笑に、助手は怒りを爆発させた。
「実体を確かめずに翻弄されるとは、科学者にあるまじき態度だね」
助手の激昂にはとりあわずに、博士は平然と言ってのけた。
「計画は続行されるおつもりなのですか」
「当然ではないか。今回の計画のために私がどれだけ苦労したか、君もわかっているだろう」
博士はそう言うと、スネークマンのオブジェを満足げに撫でた。それはまるで、最愛の孫を慈しむかのような、穏やかな仕草であった。
「このオブジェの内部には、強力な電磁波を発生させる装置が組み込まれている。この電磁波は、携帯電話に使用されるマイクロ波に強い干渉作用を引き起こす。私がスイッチを押してこの装置を作動させ、電磁波を周囲に伝播させれば、携帯電話での通信が不可能になるというわけだ」
頬をうっすらと紅潮させて、博士は説明した。
「計画が実行すれば、私はその功績によって歴史に名を残すことになるであろう。そう、これは全人類の未来を救う、偉大なる実験なのだよ」
「どうしても、やらなければいけませんか」
「ああ、もちろんだ」
微塵の逡巡も感じさせることなく、博士は頷いた。
「これさえなければ……」
熱に浮かされたように呟くと、助手はオブジェを手に取り、視線の高さまでゆっくりと持ち上げた。
「おい、どうする気だ」
「こうしてやるんですよ!」
狂気すら滲む怒声とともに、助手は寸分の躊躇もなくオブジェを扉に力いっぱいに投げつけた。オブジェはあとかたもなく砕け散り、床にはその残骸が無造作に散乱した。
「何ということを……」
無気力に立ちあがって、博士は静かに慨嘆した。そして、オブジェの粉塵の傍らにゆっくりと屈み込んだ。
やがて、博士の哀切に満ちた嗚咽が研究室を包み込んだ。
とめどなく流れる博士の嗚咽には、これまですべてを犠牲にして取り組んできた研究の頓挫に対する無念が込められていた。それは、研究を破綻に追いやった助手に対してではなく、計画を成功に導けなかった自分自身へと向けられているようであった。
しかし、嗚咽は徐々に嘲笑の色を帯び、ついには無邪気な高笑いへと変わっていった。
「今回も私の勝ちだな」
勝ち誇ったように、博士は悪戯っぽい微笑を浮かべて、言った。
「これは偽物さ」