父の戸惑い
「ハックション!」
キーボードに顔を向けたまま、俊雄は大きなくしゃみをした。ハンカチで口もとを拭って顔をあげると、ディスプレイには(dふぁぎょうじゅh)と、資料の内容とは関係のない文字が入力されていた。
「あら係長、おカゼですか」
第一企画課の紅一点、小野寺香織が心配げな視線を俊雄に向ける。幾分アンニュイな色気を含んだその眼差しは、企画課の男子社員の垂涎の的となっていた。
「ありがとう、小野寺君。実は最近ちょっと体調が……」
「ただの花粉症じゃないですか」
と、さして興味もなさそうに言ったのは、企画課一の怠け者、中里太一である。デスクの上の書類はすでにきれいに片付けている……と言うと彼が有能な社員のようだが、何のことはない。片付けたのは書類だけで、肝心の仕事のほうは遅々として進んでいないのだ。それにもかかわらず、今日も五時きっかりに退社すべく、壁の時計と健気ににらめっこを続けているのである。
「いや、こう見えてもアレルギーには強いんだ」
アレルギーに強いも弱いもないのだが、俊雄もなぜか中里に対しては突っ慳貪な態度をとってしまうのであった。
「お体には充分気をつけてくださいね。係長がいないと、あのプロジェクトも動かないんですから」
「ありがとう、小野寺君」
どこまでも穏やかな香織の微笑に、俊雄の頬もついだらしなく緩んでしまう。
「よし、もう五時だ」
この瞬間を待ちわびたように呟くと、中里は手際よく荷物をまとめて立ちあがった。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「ちょっと、中里君」
「何ですか」
「今日は君に残業を……」
「お断りします」
にべもなく、中里は言った。
「僕は仕事を勤務時間内に仕上げる主義ですから。これからの時代は、残業を徹底的にカットして業務の能率化をはかるのがベターな選択というものですよ。では、また明日」
自信に満ちた講釈を残して、中里はオフィスを出ていった。
「何がベターな選択だ」
中里の足音が聞こえなくなるのを待って、俊雄は苦々しげに呟いた。
「相変わらずですね、中里さん」
二人のやりとりを聞いていた香織が悪戯っぽく微笑んだ。
「あれで一人前に仕事ができれば文句はないんだが」
「悪い人じゃないんですけどね」
とりなすように、香織は言った。
「残業の徹底カットか……時代は変わったもんだ」
しみじみと呟くと、俊雄はとうにぬるくなってしまったコーヒーを一口啜った。
俺たちの若い頃は、ベテランから若手まで、残業をするのが当たり前だった。時には自分から進んで残業を引き受けることもあったし、ましてや上司から残業を命じられたら一も二もなく従うのが会社人間としての常識であった。
しかし、今は違う。残業を命じられることが部下として認められた証などという価値観は、現代の若手社員にはもう通用しないだろう。
「どうされたんですか、係長」
わずかに甘い響きを帯びた香織の呼びかけに、俊雄の感傷的な意識は現実に引き戻された。
「パソコンの画面、大変なことになってますよ」
香織の忠告に従ってディスプレイに視線を移すと、そこには純粋な日本人が入力したとは到底思えない暗号めいた文字列が表示されていた。
「係長、お疲れなんじゃないですか」
「そうなのかな」
「ネクタイも曲がってますよ」
と言うと、香織はさりげない手つきで俊雄のネクタイを直した。香水のほのかに甘い香りが、俊雄の理性をほんの一瞬弛緩させる。
「係長はケータイをお持ちですか」
「ああ、持ってるよ」
「実は、係長に内密のご相談があるのですが……」
と言って、香織は逡巡するように視線を床に落とした。
「面と向かってはお話ししづらい内容なので、メールでお送りしてもよろしいですか」
俊雄の返事を待ちわびつつ、それでいてどこか時間の経過を恐れてでもいるかのように、香織の唇は不安げに閉ざされていた。
「それは構わないよ」
寛容な微笑とともに、俊雄は言った。悪戯による叱責を放免された幼子のように、香織は安堵の色を満面に浮かべた。
「よかった。係長ならきっと相談に乗ってくださると思ったんです」
一点の虚飾も感じられない香織の言葉が、俊雄の上司としての自尊心を絶妙に刺激する。
「じゃあ、早速メールアドレスをお教えしますね」
はずんだ調子で言うと、香織はバッグから携帯電話を取り出した。
「係長のケータイって、赤外線はできるんですか」
「あいにく電話の機能には詳しくなくてね。けっこう新しい機種らしいからそういうのもついてるかもしれんが、よくわからないんだ」
正直かつ丁寧に、俊雄はこたえた。
「赤外線か……冬には便利そうだね、温かくて」
さりげなく発せられた俊雄の呟きに、香織は吹きだした。
「そういう機能じゃありませんよ、係長。遠赤外線じゃなくて、赤外線通信です」
俊雄の機械オンチ加減がよほど面白いのか、香織は目尻にシワをつくってまで笑いつづけていたが、その声には嘲笑の響きはまったく感じられなかった。
「赤外線通信っていうのは、お互いのケータイのセンサー部分を合わせるだけで簡単にアドレスの交換ができる機能です」
「そんな便利な機能があるのか。いやあ、初めて知った」
香織につられるように、俊雄は笑った。
香織はさりげなく俊雄の携帯電話を手に取って、あれこれとしばらくボタンを操作していたが、やがて顔をあげて、
「むやみにいじるより、私がアドレスを打ち込んだほうが早そうですね」
と言った。
「迷った時は、古典的な方法が一番です」
普段黙々と仕事にうちこんでいる彼女とは別人ではないかと思うほど、香織ははしゃいでいた。慣れた手つきで、俊雄の携帯電話を操作していく。
「アドレスの登録が終わりました。あとは私のアドレス宛てにメールを送るだけです」
「あ、ありがとう」
困惑の色を滲ませて、俊雄は頷いた。
とうとう、香織のメールアドレスを手に入れてしまった。香織のほうからアドレスを教えてきたとはいえ、これは上司としてかぎりなくタブーに近い行為ではないのか。
いや、そんなことはない。香織は今、人生の窮地に立っているのだ。部下からの相談にこたえてやるのは、上司として当然の責務である。香織のメールアドレスを手に入れたからといって、罪悪感を抱く必要はないのだ。
「それでは、メールお待ちしています」
おどけたように、香織は敬礼をしてみせた。
「係長はもうお帰りになられますか」
「まだ仕事が残ってるから、もう少しここにいるよ」
「そうですか。では、私はこれで失礼します」
慇懃に一礼をして、香織はオフィスを出ていった。艶めかしい香水の余韻に、俊雄はしばし恍惚とする。
パソコンのディスプレイに視線を戻しかけて、俊雄はある重大な事実を忘れていたことに気がついた。
そういえば俺、自分でメールを送れないんだった。もともと、電話は通話ができれば充分だという主義だったから、取扱説明書も通話の手順以外は読まずにどこかに押し込んでしまった。しかし、困ったぞ。このままだと香織にメールができないじゃないか。
そうだ、夏海に聞いてみよう。あいつならこういうことに詳しいだろうし、親子の間だから妙な遠慮もしないですむ。よしよし、我ながら名案だ。もしかしたらこれが親子の会話のきっかけに……。
根拠のない期待を膨らませる俊雄のしまりのない顔が、ディスプレイにぼんやりと映しだされていた。