平穏な暮らし(3)
淡いオレンジ色に染まった渡り廊下を、夏海は一人で歩いていた。全身に溜まった疲労が伝わったかのように、通学用のショルダーバッグが右肩からだらしなく垂れ下がっている。
今日は、何だかやけに疲れた。昼休みまではけっこう調子良かったのに。そうだ、今日にかぎってこんなに疲れてるのも、梢のせいなのよ。
昼間のケンカが相当こたえたのだろうか。梢は珍しく、午後の授業を欠席した。勉強が唯一の趣味のような梢が授業を休むなんて、本当に珍しいことだ。それだけ昼休みのことが胸にひっかかっているのだということは、夏海にも想像できる。でも、カバンはロッカーに置かれたままになっているから、家に帰ったわけではなさそうだ。部活にだけは出るつもりなのだろう。
何もかも梢が悪いのよ。私はべつに梢をバカにしたわけでも、ましてやイヤミを言ったわけでもないのに、どうしてあそこまで怒鳴られなきゃならないのよ。むこうはさんざん怒鳴ってすっきりしたかもしれないけど、私はあれからみんなにジロジロ見られながらお弁当を食べたんだから、逆にこっちが謝ってほしいくらいよ。まったく、思い出しただけでも腹が立つ。
ふたたび込み上げた夏海の苛立ちも、グラウンドが近づくにつれて次第に薄らいでいった。力いっぱいにボールを蹴る硬質な音が、まるで子守歌のように夏海の逆立った気分を落ち着かせる。
一日が終わって、家に帰る前にグラウンドでサッカーの練習をする守の姿を見るのが、いつしか夏海の日課になっていた。一心不乱にボールを追いつづける守の姿を見るだけで、夏海の体から一日の疲れがきれいに抜け去っていくような気がするのだった。
「今日もきてくれたんだ」
と、守は夏海に笑いかけた。かすかな汗の匂いが夕暮れの秋風に乗って夏海の鼻腔をくすぐる。
「練習、いいの?」
「練習はもうすぐ終わりだから。それに、ちょうど僕も夏海に話があったんだ」
と言って、守はさりげなく前髪をかきあげた。その仕草に、夏海は思わずうっとりする。
やっぱり何度見てもカッコいいよね、サラサラヘアーをかきあげる守って。その指で私の髪も……って、いけないいけない。うっかり妄想モードに入るところだった。
「もうそろそろ、夏海のお父さんに会ってみたいんだけど」
「えっ、どうして?」
反射的に、夏海は聞き返した。
「会って、どうするのよ」
「別にどうするってことはないけど、夏海のお父さんがどんな人なのか、ちょっと興味があってさ」
「どこにでもいる普通のオヤジよ」
夏海は素っ気なくこたえた。俊雄の話題になると、どうしても表情が険しくなってしまう。
「もしかして夏海、お父さんとうまくいってないの?」
「そんなことはないけど……」
夏海は腕組みをして、そして考えた。
ウチの家族は、うまくいってるのかな。確かに普段の会話は少ないかもしれないけど、今まで大きいケンカもないし、それはそれで普通の家庭……だと思う。でも、守をお父さんに会わせるのだけは絶対にイヤ!
「とにかく、お父さんに会うのは絶対ダメだからね」
「だから、どうして」
「会ったら百パーセント後悔するよ。だって、ウチのお父さん、ものすごく頭がカタイし、着る服も時代遅れだし、人前でも平気でオナラをするし、それから、何度注意しても新聞をトイレの中で読むし、それに……」
思いつくかぎりの俊雄の悪口を、夏海は並べたてた。夢中で不満を吐き出しているうちに、守を説得するために言っているのか、あるいは自分自身のストレス解消のためなのか、自分でもよくわからなくなってくるのだった。
「ねっ、これで会いたくなくなったでしょ?」
と言って、夏海はとびきりの笑顔を浮かべたが、そこにはもう守の姿はなかった。
(なに必死になってるのよ。カッコ悪い)
自分の影にも笑われているようで無性に悔しくなり、夏海は足もとの砂を思いきり蹴りあげた。