線香花火
まるでそこだけが別世界であるかのように、ベランダには心地良い夜風が流れていた。ネオン街の灯りが邪魔をしているのか、ほの暗い夜空には一筋の星の輝きすら浮かんでいない。
「線香花火のやり方は知ってるかい?」
トメにそうきかれて、夏海は返事に困った。
線香花火が燃えるのは、テレビドラマで何度か見たことがある。あと、理科の実験でも一回やったっけ。でも、こうして間近で線香花火をやるのは、たぶん初めてだ。だいたい、こうやってご飯の後に家族そろって何かをするなんてこと、今までなかったんだから。
「……わからないかも」
おずおずと頷く夏海に、俊雄は驚いたような表情で、
「そんなはずないだろ。線香花火なら、昔、お父さんがよくここで見せてやってたじゃないか」
「お父さんったら、どのくらい昔だと思ってるのよ。あれはまだ夏海がやっと一人で歩けるようになった頃だから、きっと忘れてるわよね」
美代子の言葉に、俊雄はあからさまに落胆の色を顔に浮かべた。
「まあ、いいじゃないか。想い出なら、これからいくらでも作れるんじゃから」
と、トメは快活に笑った。
おばあちゃんの言う通りよ。人生、プラス思考が大切だわ。でも、今さらお父さんとの想い出を増やす気はないけど。
「さあ、いよいよじゃぞ」
もったいをつけるようにトメは言うと、線香花火をビニールから取り出し、三人に一本ずつ配った。
「火をつけるならライターが……」
「いいんじゃよ、美代子さん」
立ちあがりかける美代子に、トメは穏やかに首を振った。そして、巾着袋からマッチ箱を取り出すと、
「時間はたっぷりあるんじゃ。ゆっくりやろうじゃないか」
「そうですね、お義母さん」
「マッチを擦るのもひさしぶりだなあ」
トメに配られたマッチを懐かしげにしげしげと見つめて、俊雄は言った。
「マッチの擦り方はわかる、夏海」
「そのくらいわかるわよ」
即座に言い返してはみたものの、いざマッチを箱にこすりつけようとするとなかなか火がつかない。頭の中のイメージ通りにマッチの先端をマッチ箱にこすってはみるのだが、シュッシュッ、というかすれた摩擦音がするだけで、いっこうに火のつく気配がないのだ。
「つかないよ、お母さん」
「どれ、見せてごらん」
美代子は夏海の手もとをのぞきこんで、
「そりゃあつかないはずだわ」
と、目尻にシワをつくってまで笑いころげた。
「だって、マッチを擦る面が違うもん」
「どれどれ、見せてごらん」
と、トメは夏海の目線までかがみこんで、そしておかしそうにケラケラと笑った。
マッチは、マッチ箱の上面に対して垂直に立てられていた。つまり、夏海は、マッチ箱の絵柄が描かれている面に、必死でマッチをこすりつけていたのである。
「いいかい、夏海」
ひとしきり笑い終わったあと、優しく教え諭すようにトメは言うと、夏海のマッチ箱を側面が上に向くように動かした。
「マッチっていうのは、マッチ箱のここの面にこすりつけて初めて、火がつくものなんだよ」
自分のマッチ箱からマッチを一本取り出すと、トメは指でなぞっておいた面にこすりつけた。いや、こすりつけるというよりも、マッチ箱の側面を軽くなぞっているだけのように、夏海には見えた。まるで、トレーディングカードをカードリーダーに読み取らせる時のように。
シュッというかすかな摩擦音とほぼ同時に、マッチの先端に火がともった。
「さあ、やってごらん」
トメに促されるままに、夏海はマッチを手に取った。そして、マッチ箱の側面に瞬時にこすりつける。
わずかな火花があがって、マッチに火がついた。あまりの驚きに、夏海は思わずトメと顔を見合わせた。
「よくやったな、夏海」
トメは目を細めて、夏海の頭を優しく撫でた。懐かしい快感が、夏海の全身を駆け抜ける。
そういえば、最近、こうやって誰かにほめられることなんてなかった。大人になってまでほめられるなんて恥ずかしいと思ってたけど、いざほめられてみると、けっこううれしい。
全員のマッチに火がともり、ベランダはほのかな熱気で包まれはじめた。
「さあ、いよいよじゃ」
愉快そうに笑いながら、トメは持っている線香花火の末端にマッチの炎を近づけた。炎が線香花火へゆっくりと受け渡され、その末端からは細かい破裂音とともにか弱い火花がとびちりはじめた。
トメに倣うように、夏海たち三人も線香花火に火を移す。四人の足元が、赤みがかったオレンジ色にほんのりと照らされた。
「きれいだねえ、夏海」
線香花火の火花へと視線を落としながら、美代子がおっとりと言った。
「そうだね、お母さん」
そう呟きながら、火花のむこうに奇妙な残像がちらつくのを、夏海は感じていた。忘れていたはずの記憶の断片が、にわかに甦ってくる。
夏海の脳裏に浮かんだのは、幼い頃、俊雄の膝に抱かれて見た、線香花火の淡い光であった。火花のもの悲しい輝き、火花ごしに見える果てしない暗闇、そして、俊雄の膝の温もり……その一つ一つが今、夏海に鮮烈な衝撃を与えていた。
「こうやって家族そろって会話をするのも、ずいぶんひさしぶりだよな」
どこか感傷的な眼差しを火花に投げかけながら、俊雄はしんみりと呟いた。
言われてみれば、その通りだ。一応、夕ご飯の時には家族全員がそろうけど、みんな食べるのに夢中なのと、何を話していいのかわからないのとで、会話らしきものはほとんどない。けれど、それが普通だと思ってた。ケータイが使えなくなるまでは……。
「夏海に話したことあったかしらね、あなたの名前の由来」
穏やかな口調で、美代子は言った。
「その話なら、お父さんから聞いたことがあるよ。確か、お父さんが海が好きで、私が夏に生まれたからだったよね」
確認するように、夏海は俊雄に視線をむけた。だが、俊雄はぎこちなく頷くばかりで、なぜか照れたように背中を丸くしている。
「あなた、そうこたえたの?」
と、美代子は悪戯っぽく微笑みかけた。
「実は、それはウソなのよ」
「えっ、そうなの?」
反射的に、夏海は素っ頓狂な声をあげた。そんなウソで私を十年間もだましつづけるなんて、やっぱりお父さんは許せない!
「それで、ホントの由来は何なのよ」
「どうしても聞きたい?」
「うん、聞きたい!」
勢い込んで、夏海は何度も頷いた。肝心の俊雄はというと、ベランダの隅のほうですっかり知らん顔を決め込んでいる。
「わしも聞きたいなあ」
好奇心を丸出しにしてそう言うと、トメは美代子のほうにぐいと身を乗り出してきた。その無邪気な笑顔はまるで、悪だくみに参加する少年のようだった。
「お父さんとは、真夏の海で出会ったのよ」
恥ずかしそうに目尻にシワを寄せながら、美代子は語りはじめた。
「あれは私がまだ大学生の頃で、お父さんは社会人になりたての新人サラリーマンだったのよ。大学の夏休みを使って友達とビーチに遊びに行ってたんだけどね」
お父さんがビーチねえ。休みの日に家で一日中ゴロゴロしている姿からは想像できないけど、若い頃はあれでけっこうスポーツマンだったのかもしれない。
「それで、どっちから声をかけたの?」
「それが、そういうんじゃないのよ」
ここで、美代子はかすかに表情を曇らせた。
「あんまりはしゃぎすぎたせいで、お母さん、波に体をすくわれて溺れちゃったのよ。その時に助けてくれたのがお父さんだったんだけどね」
美代子の口から語られる想い出はどれも新鮮で、まるで昨日起こったことを聞かされているように、夏海は感じていた。俊雄も会話の内容は気になるのか、時折美代子のほうにちらちらと視線を向けては、懐かしげな微笑を浮かべている。
「溺れてるところを助けられて結ばれる、か……。何だかロマンチックだね」
「普通のドラマだとそうなるんだろうけど、実はお父さん、根っからのカナヅチなのよ」
「えっ、ウソ!」
「おい、それは言わない約束だろ」
俊雄は不満げに横槍を入れたが、その目は笑っていた。
「そうじゃ、そうじゃ。俊雄は子供の頃から泳ぐのがヘタじゃったな。水泳の授業でもいつも……」
トメの言葉を遮るように、俊雄はわざとらしくせき払いをした。ささやかな笑いがベランダに広がる。
「勇ましく助けにきてくれたのはいいけど、自分も泳げないものだから、二人とも溺れかかってね。結局はお父さんの友達に助けてもらったから、まあ無事だったんだけど」
「せっかくのロマンチックムードが台無しじゃん」
「現実はそんなものよ」
と、美代子は笑ってみせた。
「でも、泳げないのを忘れてまで助けようとした優しさは本物だったわ。そして、それは今でも変わってない」
妙に熱っぽい視線を、美代子は俊雄に向けた。
「なにを言い出すんだよ」
照れたように言って、俊雄は視線をそらした。
「夏海も結婚するなら、そういう本物の優しさを持った人を選ぶのよ」
「本物の優しさ、か……」
と呟いて、夏海は顔を上げた。線香花火の炎に照らされて、美代子の顔が幾分上気したように映る。
優しさなら、何となくわかる。お年寄りに親切にするとか、困ってる人に力を貸してあげるとか。でも、(本物の優しさ)となると、イメージがぼんやりとしすぎていて、よくわからない。友達にノートを見せてあげるとか、学校の帰りにハンバーガーをおごってあげるのとは、ちょっと違う気がする。
「そういう男の子は当分現れないだろうな」
「そんなことないわよ」
俊雄の冗談に、条件反射のようにそうこたえてから、夏海はふと考えこんだ。
お母さんの言う(本物の優しさ)を、守は持ってるのかな。確かに、私がヘコんだ時にはちゃんと慰めてくれるし、だいたいのワガママも聞いてくれるけど、それだけじゃ物足りないような気もする。よし、夏休みに二人でビーチに行って、(本物の優しさ)ってやつを試してみるか。でも、守は泳ぎがすっごく得意だし……。
「さて、もうそろそろかな」
どこか寂しげに呟くと、トメはそれぞれの線香花火に視線を走らせた。
あれほど勢いよく燃えていた炎が、わずかな風にさえも吹き消されてしまいそうなほどにしぼみかけていた。四方に飛び散っていた火花はいつしか消え去り、炎の名残のような弱々しいオレンジの灯火が線香花火の先端にかろうじて留まっているだけだった。
「もう少しかな」
トメが呟くのとほぼ同時に、夏海の線香花火の先端に残っていたほのかな火がポトリと地面に落ちた。自分の存在を最後に主張するかのように、か弱い火の粉はベランダのコンクリートにはね返って、夜の闇にはかなく紛れた。
「夏海の花火が一番先に落ちたわね」
「うん……」
切なげに俯く夏海に、美代子は優しく微笑みかけて、
「最初に花火が落ちた人は願い事が何でも叶うのよ」
「そうなの?」
夏海の顔に、ぱっと明るさが戻る。
「でも、もう遅いわね」
「どうして?」
「だって、花火が落ちる前に心の中で願い事を唱えないと、おまじないにはならないんだもの」
「何でもっと早く教えてくれなかったのよ!」
「夏海にそんな願い事があるなんて知らなかったから」
「もう、意地悪!」
「ほら、まだ間に合うぞい」
むくれてみせる夏海に、トメは自分の線香花火をさしだした。棒の先端にかろうじて火が残っているものの、今にもあえなく力尽きそうであった。
「ありがとう、おばあちゃん」
線香花火を受け取ると、夏海は懸命に守の笑顔を思い浮かべた。
いつか必ず、守と結婚できますように。そして、永遠に幸せな家庭を守ることができますように……。
火花が、落ちた。足元のコンクリートでかすかに赤く光っている火の粉を見つめて、夏海はもう一度、内心で強く念じた。どうか、絶対に守と結ばれますように!
「願い事は終わったかな」
火の粉が完全に力尽きるのを見届けて、トメはおごそかに言った。
「一体、どんな願い事をしたのかしらね」
「それは誰にも秘密よ」
「お父さんが健康でいられますようにって、お願いしてくれたんだよな」
「ない、ない。それは絶対にない」
夏海があまりにも真剣に否定したので、ふたたび温かな笑いが起こった。ただ一人、俊雄だけがその輪の中で、どこか釈然としないような表情を浮かべている。
「さて、そろそろお開きにするかね」
トメが言った頃には、月は薄い雲に覆われ、夜風もだいぶん冷たくなっていた。それまで賑やかに燃え盛っていた線香花火もすっかり静まりかえり、ベランダの塀を隔ててすぐむこうには淡々とした紺碧の暗闇が迫っている。
「ねえ、お母さんは何か願い事したの?」
「もちろんしたわよ。夏海の成績がもっと良くなりますようにって」
「もう、お母さんったら!」
「わしも、夏海がもっと素直になりますようにってお願いすればよかったかのう」
「おばあちゃんまで!」
目尻のあたりまでクシャクシャにして、夏海は屈託なく笑いころげた。こんなに笑いの絶えない時間を過ごしたのは何年ぶりだろう……何の打算もない笑顔に囲まれながら、夏海はしんみりとそう考えていた。
幸福感に浸る四人を、倍以上の背丈に生長したカイワレが夜風に揺れながらそっと見守っていたのだった。