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東京原人  作者: 夏川龍治
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上司と部下

「この駅の中に、コーヒーのおいしい喫茶店があるんですよ」

 香織に促されるままに、俊雄はコンコース内にある喫茶店に入った。

「テレビでも何度か取り上げられるくらい有名なんですよ、このお店」

 香織の言葉通り、店内は混雑していた。

「素直な娘さんじゃないですか」

 と言って、香織は微笑んだ。

「そうでもないんだよ。家じゃなかなかの反抗期でね」

「幸せなご家庭だと思いますよ。奥さんもきれいだし」

「社交辞令がうまいね、君は」

 俊雄は苦笑して、メニューに視線を落とした。

「さて、何にするかな」

「ここの自慢は、アメリカンコーヒーらしいですよ。私はそれにしようかな」

「じゃあ、僕も同じのを」

 気軽な調子で、俊雄は言った。香織と二人きりで対面しているという緊張感は、いつしかなくなっていた。

「それで、ご相談なのですが……」

 注文が済んでから、香織は切り出した。

「やっぱり、彼に気持ちを伝えようと思うんですよね」

 薄れかけた緊張感が、じわじわと俊雄ににじり寄っていた。

 動揺を鎮めるために水を一口含んでから、俊雄は口を開いた。

「どうしても、待てないのかい」

「ええ、どうしても」

 そうこたえる香織の瞳には、蠱惑的な光が宿っていた。迂闊に見つめているとその淫靡な魔力に吸い寄せられてしまいそうで、俊雄は香織から視線を落とした。

「君の想いに、その男性は気付いているのかな」

「たぶん、それはないと思います」

「どうしてそう言いきれるんだい」

「どうしてって……」

 女というのは、なぜこれほどまでに回りくどいのだろう。戸惑いがちに返答を渋る香織を見ながら、俊雄はある種の苛立ちを覚えていた。彼女はもしや、悪戯に返答を先延ばしにして、こちらが焦りを覚えるのを愉しんでいるのかもしれない。俺は今、狡猾な小悪魔と対峙しているのだろうか。

「何だか、警察の取り調べみたいですね」

「そんなつもりじゃないんだ。ただ、状況をできるだけ正確に把握しておきたくて。君が気を悪くしたのならすまなかった」

 テーブルに両手をついて、俊雄は頭を下げた。

「いいんですよ、塚原さんが謝ってくださらなくても」

 恐縮したように顔の前で手を振って、香織はとりなすように笑ってみせた。

 コーヒーが運ばれてきた。インスタントとはまるで違う色合いのコーヒーに、俊雄はかすかに戸惑いを感じた。

「ずいぶんオシャレなコーヒーだね」

「ここのコーヒーは初めてですか」

「ああ。恥ずかしながら、コーヒーというと専らインスタントなものでね」

 照れたように微笑んで、俊雄はカップを口もとに運んだ。と、唇に触れる寸前で手もとが狂い、コーヒーがネクタイにかかってしまった。

 しまった、と俊雄がハンカチを取り出すより先に、香織が俊雄のほうに素早く身を乗り出していた。

「コーヒーのシミは落ちないんですよ」

 子供の悪戯をたしなめるように香織は言うと、バッグから取り出したポケットティッシュでネクタイについたコーヒーを拭き取りはじめた。

 香織の全身からたちのぼる清廉な芳香が俊雄の鼻腔をくすぐる。鼓動がにわかに速まるのを、俊雄は感じていた。それは、駅のホームを全力で駆け上がった時の気だるい動悸とはまったく違う、どこか郷愁を誘う胸の高鳴りだった。

 気がつくと、香織は何事もなかったかのようにコーヒーを啜っていた。芳香の淫靡な余韻だけが、俊雄の本能を静かに刺激する。

「このコーヒー、やっぱりおいしいですね」

「ああ、そうだね」

 屈託のない香織の笑みに、俊雄は曖昧に頷くしかなかった。

「彼の件だけど、君がもし本当に彼に好意を抱いているのなら、思いきってその気持ちを伝えたほうがいいと思う」

 思い詰めたような俊雄の言葉に、香織は次第に真剣な表情になっていく。

「彼もきっと、小野寺君の気持ちを真摯に受けとめてくれると思うよ」

 それは、香織への励ましと同時に、自分自身の勉励の言葉でもあった。ここまで二人の関係が進展してしまった以上、男としてきちんと責任を取らなければならないだろう。

「塚原さん……」

 か弱い乙女よりもはるかに純粋な香織の視線が、俊雄の理性の中枢部分に深く突き刺さる。

「本当に、ありがとうございます」

 香織は神妙に頭を下げた。

「でも、本当に大丈夫でしょうか」

「不安なのかい」

「だって私、何の取り柄もないダメ人間だし……」

「そんなこと言っちゃダメだよ」

 自分でも驚くほど強い調子で、俊雄は言った。

「誰から見ても、君はとても魅力的な女性だよ。仕事の上でも有能だし、性格も朗らかで、それに女性としても……」

 あとに続く言葉を、俊雄はあわてて呑み込んだ。わずかに乱れた呼吸を整えるために、ゆっくりとコーヒーを食道へ流し込む。

「とにかく、君は魅力溢れる女性だよ」

「塚原さんって、優しいんですね」

 香織の瞳は、かすかに潤んでいた。

「塚原さんの部下になって、本当によかった」

「そう言ってもらえると、上司冥利に尽きるよ」

 心地良い照れ臭さを感じながら、俊雄は鷹揚に微笑んだ。

「じゃあ、僕のほうもちょっと相談していいかな」

「塚原さんから相談ですか?」

 驚いたようにそう言ってから、香織は子供っぽく笑った。

「塚原さんの相談なら、何でもお聞きしますよ」

「中里君のことなんだが……」

 そう切り出しておいて、俊雄は緊張気味に手をすり合わせた。

「恥ずかしながら、彼をどうやって元気づければいいのか、僕にはわからないんだよ」

「そうですか……」

 と呟いて、香織は思案げにコーヒーをストローでかきまわしていたが、やがて顔を上げると、

「塚原さんなりのやり方でいいんですよ、きっと」

「僕なりのやり方……」

「ごめんなさいね、無責任な言い方しちゃって。本当は同僚の私たちが励ますべきなのに」

「そんなことはないさ」

 自戒の意味を込めて、俊雄は頭を振った。

「部下を励ますのも、上司として当然の責務だよ」

 と言ってはみたものの、具体的な方策はいっこうに浮かばないのだった。特に中里が相手となると……。

「でも、やっぱり自信ないんだよなあ」

「塚原さんだって、新人の頃は先輩に励まされたでしょう」

「まあ、それはそうだけど……」

 唸るように呟くと、俊雄は記憶の糸を手繰り寄せるように目を細めた。

 あの頃は、周囲に自分を支えてくれる仲間たちがいた。同僚はもちろんのこと、直属の上司や違う部署の先輩にいたるまで、とにかく自分と関わりのある人間は着実に人生の支えとなってくれていた。そういう役割を担う人間が、中里の周囲にいるのだろうか……。

「その頃の方法が今でも通用するかどうか、僕にはわからないし……」

「通用しますよ、きっと」

 きっぱりとした香織の口調に、俊雄は軽い衝撃を受けた。香織の純朴な、それでいて強固な意志を持った視線が俊雄をまっすぐに見据えている。

「部下を励ます方法に古いも新しいもありませんよ。係長がちゃんと誠意を持って中里さんと向き合えば、気持ちはきっと伝わるはずです」

「ありがとう、小野寺君」

「迷った時は、古典的な方法が一番です」

「何だか、立場が逆転しちゃったな」

 体の中心から熱気が全身に広がっていくのを、俊雄は感じていた。冷房は充分に利いているのに、体全体が妙に暖かい。

 喫茶店を出ると、街全体が淡いオレンジ色に染めあげられていた。日没にはまだ早いが、もう一軒店をまわるほどの余裕もない。

 東京駅の改札前で、俊雄は香織と別れた。

 駐車場まで歩く途中、居酒屋が林立する裏通りを並んで歩いていくスーツ姿の二人組が見えた。一目でわかるその年齢差から、会社の上司と部下という関係であるということは容易に察しがついた。

 会話の中にどこかぎこちなさが感じられる彼らに、俊雄は茫漠とした親近感を抱いていた。

 あの頃はよく、自分も先輩社員から飲みに誘われたものだ。そうやって酒の付き合いを積み重ねていくこと自体が、会社人間としての業務の一環のようになっていた。

(塚原さんなりのやり方でいいんですよ、きっと)

 香織の言葉がゆっくりと反芻される。

 それで、いいのかもしれない。このまま時間の経過にすべてを委ねるよりも、自分で行動を起こしたほうがずっとすっきりするのではあるまいか。古くさい方法だと笑われようと、今の自分にはそれしか手段が残されていないのだ。

 晴れやかな気分で、俊雄は茜色の空を見上げた。俊雄の背中を軽く押すかのように、夕陽が温かに微笑みかけているようだった。


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