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東京原人  作者: 夏川龍治
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グッドタイミング

 まるで魚群が一気に放流されるように、改札口から人の波が押し出されていく。だが、その波の中に香織の姿はなかった。

 俊雄は、いよいよ不安になった。香織は、本当にこの駅の中にいるのだろうか。

 若干のはにかみを交えたあの誘いは、たんなる冗談だったのかもしれない。休日にまで上司と食事をしたがる部下など、今の時代にはいないだろう。

 いや、待てよ。決断を下すのはまだ早い。ただ単に、電車を一本乗り過ごしただけという可能性もあるではないか。あるいは、香織ももうすでにこの駅に到着しているのだが、こちらの居場所を見つけるのに苦労しているのかもしれない。携帯電話が使えないのだから、電話一本で連絡を取り合うわけにもいかない。

 とにかく、香織と連絡を取る術が残されていない以上、今はここでじっと待っているしかない。万一、香織に弄ばれているだけだとしても、それは自分がその程度の人望しかない、愚かな人間だったというだけのことだ。

(当駅南口改札の正面に、臨時の連絡板を設置しております。待ち合わせや緊急時のご連絡にご利用ください)

 途絶える気配のない喧騒に紛れて、幾分くぐもった調子の構内アナウンスが聞こえてきた。腕時計を睨む俊雄の視線がかすかに上がる。

 臨時の連絡板? そういう便利なものがあるなら、もっと早く知らせてくれよ。確か、南口の正面だったな。今立っているのが北口だから、ちょうど反対側になるのか。少しばかり歩くことになるが、ここでじっとしていても仕方がない。もしかしたら、連絡板に香織からのメッセージが書き込まれているかもしれない。いつだったか、香織も言っていたではないか。迷った時は古典的な方法が一番だと……。

 人混みをかきわけるようにして南口にたどり着くと、改札の正面に簡易の連絡板が設置されていた。携帯電話が使えないとあって、連絡板には数件のメッセージが書き込まれていた。

(グロテスクなヘビのオブジェ前で待ってます。香織)

 ひときわ遠慮がちに記されたメッセージに、俊雄の内心に安堵感が広がった。

 やはり、香織はきていたんだ。香織と連絡がついて、とりあえずはひと安心だ。あとは、指定された待ち合わせ場所に行くだけだな。(グロテスクなヘビのオブジェ)というのは、おそらくはここにくる途中に車の窓から見かけた、奇妙なヘビの怪物のことだろう。新作映画か何かのキャラクターらしいが……そんなことはどうでもいい。

 無機質な発車ベルでさえも自らの幸運を祝福しているかのように、俊雄には思えた。


 人混みに目をこらすのに疲れて、美代子は目頭を手でおさえた。

 まだ買い物に夢中になってるのかしら、お義母さん。私はもうとっくに買い物が終わって、かれこれ三十分以上もここで待ってるっていうのに。もしかして、本当に迷子になっちゃったんじゃないでしょうね。それとも、今頃誰かに誘拐されて……いやいや、そんなことはないわよね。あんな元気なおばあちゃんを誘拐するのは骨が折れるわよ、きっと。

 そもそも、待ち合わせの場所と時間をちゃんと決めておかなかったお義母さんが悪いのよ。ケイタイも使えないから、お義母さんの居場所を確かめる手段がないし、ホントに困っちゃったわ。何でもいいから、お義母さんと連絡を取り合えるスペースがあるといいんだけど……。

 そうよ、連絡よ。昔は、こういう駅にはだいたい共用の連絡板があって、待ち合わせの時にはすごく便利だったのよ。もしかしたら、そこにお義母さんの伝言も書いてあるかもしれない。

 手近な駅員に連絡板の場所を尋ねると、南口の改札正面に設置されているという。すでに疲労の色が滲む脚を宥めながら指示された道順を進むと、即席の連絡板前にたどり着いた。

(変なヘビの置物の前で待つ)

 書き込まれた数件のメッセージの中にひときわ特徴的な文字を見つけ、美代子は思わず苦笑した。

 これは絶対、お義母さんの字だわ。名前が書いてなくても、こんなに達筆な文字を書く人はそうそういないもの。

 えっと、変なヘビの置物って、駅前の交差点にあるオブジェのことかしら。ちょっと前にアメリカから届けられたって、ニュースで話題になったわよね。他の伝言もあのオブジェを待ち合わせ場所に指定してるってことは、きっと相当目立つんだわ。

 隣のメッセージは、たぶんまだ若い子が書いたのね。字の感じが幼いもの。名前は……守君か。もしかして、デートかしら。

 えっ、守君? 同じような名前を、私も最近聞いたような気がするんだけど……まあいいか。そんなことより、今はお義母さんと合流するのが先決ね。


 何度目かの発車ベルが通り過ぎて、夏海は心細さはもちろん、やり場のない苛立ちすら覚えはじめていた。

 夏海と同じように人待ち顔で立ち尽くしていたワンピース姿の女が、ぱっと明るい表情になった。その視線の先には、改札付近の人混みからはずれて笑顔で女のほうに向かってくる、茶髪の男の姿があった。

「待たせて悪かったね」

 と顔の前で手刀を切る男に、女は微笑とともに首を横に振って、

「いいのよ。それより、連絡板見てくれた?」

「ああ、見たからここにきたんだろ」

 微笑みあう二人を、夏海は険のこもった眼差しで見つめていた。その視線に気付いているのかいないのか、二人は腕を絡め合って雑踏の中に紛れていった。

 何よ、あれ。こっちの迷惑も考えずに二人の世界に入り込んじゃって。そういうことは、人目につかないところでやりなさいよ。

 そんなことより、連絡板って何のこと? この駅の中に、そういう便利なものがあるのかしら。連絡板って、学校の職員室前にあるようなものなのかな。

 そうよ、待ち合わせよ。私は今、守と待ち合わせをしてるんだわ。ってことは、その連絡板の前に行けば何とかなるかもしれない。

 考えるより先に、足が動きだしていた。駅の構内をぐるりと歩きまわってみると、(南口改札正面に臨時の連絡板設置)という看板が目に入った。表示通りに南口に急ぐと、改札の真正面に粗末なつくりの掲示板が見えた。

 これが連絡板ね。けっこうメッセージが書き込まれてるじゃない。

(スネークマンのオブジェの前で待ってるよ。守)

 やっぱり、あった。機転のきく守のことだから、きっとここに何かのメッセージを残してくれると思ってたんだ。

 それはそうと、その左隣の字、けっこう汚いわよね。同じような感じの文字を最近どこかで見たことがあるような……まあ、いいや。そんなことより、今はスネークマンのオブジェ前に急がなきゃ。


「あっ!」

 スネークマンのオブジェを中心に、六人の驚きの声が重なった。

「どうしてここにいるのよ、お父さん!」

「それはこっちが聞きたいよ」

「このオブジェが、待ち合わせにちょうどよかったんですよね」

 必死にとりなそうとする香織の声も、困惑気味に震えている。

「そんなことより、夏海、今日待ち合わせするのはクラスの女の子じゃなかったの?」

「そ、それはですね……」

 当の夏海本人よりも、守のほうが慌てている。

「親に嘘をついて遊びに行くなんて、あまり感心しないなあ」

「そう言うお父さんだって、部下は男の人だってウソついたじゃん」

「それはなあ……」

 平然と言い返す夏海に、俊雄のほうが額に脂汗を浮かべてうろたえている。

「急に予定が変わっちゃって、私が代理で係長とお会いすることになったんですよね」

「ああ、そうだった」

 香織のとっさの機転に、俊雄はぎこちなく頷いた。それから、とってつけたように父親としての表情に戻って、

「お父さんはいいんだ。れっきとした仕事なんだから。でも、夏海はただの遊びじゃないか。しかも、親に隠れて男友達と……」

「何よ、その言い方! これはただの遊びなんかじゃないの。一生をかけた真剣な……」

「真剣な付き合いって、まさかそんなところまで……」

「もう、うるさい!」

「やめなさいよ。ここは人通りも多いんだから。守君もあきれてるじゃないの。ねえ?」

「ええ、まあ……」

「守までお母さんたちの味方なの!」

「いや、まあ……」

 夏海に睨まれて、守は曖昧に微笑んだ。

「まあまあ、いいじゃないの」

 と、トメは鷹揚に頷いた。

「何はともあれ、こうして無事に集合できたんじゃから」

「さて、これからどうしようか」

 これまでの気まずさをたちきるかのように手をたたいて、俊雄は言った。

「また、それぞれのペアに分かれますか」

「それが一番だな」

 美代子の提案に、俊雄は頷いた。

「では行きますか、美代子さん」

「……そうですね」

 いささか不本意そうに、美代子はこたえた。

「私たちも行きましょうか、係長」

「そうだな。大事な打ち合わせもあるし」

 わざとらしく胸を張って、俊雄は頷いてみせた。

「俺たちも行こうか」

「うん、そうだね」

 しおらしく、夏海はこたえた。すぐにでも腕を絡め合いたいところだが、俊雄たちの前ではさすがにそうもいかない。

「夕方までには帰ってくるんだぞ」

「できるだけ頑張るよ」

 駅に向けて歩いていく夏海に、俊雄は威厳の欠片もない忠告を投げかけた。

「できるだけじゃ許さんぞ!」

 どこか物悲しい俊雄の呼びかけも、すっかり守との世界に浸っている夏海にはあっけなく受け流されてしまった。

 六人の滑稽かつ珍妙なやり取りを、スネークマンはその怜悧な眼光で静かに傍観していたのだった。


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