平穏な暮らし(2)
昼休み。いつものように、夏海と梢は校内のテラスで昼食をとっていた。
校舎の中央部分にあたるこのテラスは、教室を三つ分つぶして造られただけあって、かなりゆったりとした空間となっている。陽当たりもよく、昼休みには大勢の生徒が談笑の場として利用しているのだった。
「そのお弁当、今日も梢がつくったの?」
色の三原色によってバランスよく彩られた梢の弁当をのぞきこんで、夏海は聞いた。
「うん、そうだよ」
こともなげに頷く梢に、夏海はへえ、と感心したように呟いた。
「大変でしょう、毎日お弁当をつくるのって」
「時々そう思うこともあるけど、お母さんが体弱いから仕方ないんだ。それに、将来いい奥さんになるための修業でもあるわけだし」
見えない圧力をはねのけるかのように、梢は微笑んでみせた。
「そういえば、もうすぐスネークマンの映画が公開になるね」
梢の一言で、夏海の頭は一気に遊びモードになる。
「ずっと観たかったんだよね、その映画」
「映画の公開を記念して、アメリカからスネークマンのオブジェが届いたしね」
「そうなの? その話、今初めて知った」
「ウソ! 朝のニュースで言ってたじゃん!」
「ああ、今日は寝坊しちゃったからニュースは見てないや」
そう言った瞬間、夏海は自分の右の眉毛がかすかに動くのを感じた。それは、夏海が嘘をついた時の、昔からの癖であった。
寝坊してもしなくても、私はニュースなんか見ないもんね。だって、つまんないから。っていうか、高校生でニュースを見るほうがおかしいよ。やっぱりマジメなんだな、梢って。
「いいよなあ。一緒に映画に行くカレがいる人は」
と、梢はすねたような視線を夏海に向けた。その視線の意味を夏海は瞬時に察して、
「映画が公開されたら二人で観に行こうよ」
「べつに、私に気をつかうことはないよ」
「そんなんじゃないって。私はホントに梢と映画に行きたいの。だって、私たち親友じゃん」
「親友、か……」
夏海の言葉を反芻するかのように梢は呟き、そしてはにかんだように笑った。
「私たち、親友だもんね」
「うん、親友だよ!」
力強く頷きながらも、夏海は自分が次第に冷静になっていくのを感じていた。
ふう、これだからメンドウなんだよな、彼氏のいない人は。まあ、結局映画には守と二人で行くことになるんだろうけど、こんなふうに言っておかないと梢との関係がこわれちゃう。こういうのを(社交辞令)って言うんだっけ。トモダチ付き合いって、ホント疲れる。
「今朝の夏海にはウケたよ」
思い出したように、梢が微笑んだ。
「えっ、何で。私、何かした?」
「だって、先生の注意さえぎってトイレに行くんだもん。あれは笑えたなあ。防虫剤のCMじゃないんだからさあ」
「あの時はホントにトイレ行きたかったんだもん」
と言って、夏海はほんの少し唇を尖らせた。いくら何でも、トモダチのピンチをそこまで笑うことないじゃない。
「あのセリフのタイミングが最高だったんだよ。クラスのみんなも爆笑してたじゃん」
「それはそうだけど……」
唇を相変わらず不満げに尖らせながらも、夏海は内心では妙な満足感を覚えていた。
人から笑われるのはちょっとショックだけど、そのおかげで結果的に爆笑が起こったんだったら、まあいいか。
「でも、荻原先生は怒ってるかもよ」
と、梢は言った。口調こそ険しいものの、その目はからかうようにゆるやかな半円形をつくっている。
「いい加減、その遅刻グセ治したら? これ以上遅刻がつづいたら成績にもひびくだろうし……」
「何だかんだ言って、結局マジメなんだね、梢って」
「何よ、その言い方」
梢の声から、からかいの色が消えた。言葉の真意を問いかけるように夏海にむけられたその目も、いつしか水平に戻っている。
「高校に入ってから彼氏もつくらずによく勉強にうちこめるなあって、素直に感心してるだけだよ」
「そんなイヤミやめてよ!」
暴発寸前の感情の爆弾を、梢は夏海に投げつけた。その頬はうっすらと赤く染まり、水平を保っていた目は鋭角な逆三角形をつくっている。
「ねえ、梢どうしたの?」
夏海は戸惑っていた。これほど怒りに頬を紅潮させる梢は見たことがない。
「何か気にさわることでも言った?」
まるで、全身の毛を逆立てて怒りを表現している猫を恐る恐る宥めるように、あるいは、眼前で燃え盛る炎をわずかな水によって鎮めようとするかのように、夏海は口調を和らげた。時折眉を八の字に歪めるその表情の裏には、梢との感情のねじれを修復したいというよりも、この場での言い争いを何としてでも避けたいという意識が優先してはたらいていた。
梢ったら、突然どうしちゃったんだろう。いつもは私の話を笑って聞いてくれるのに。お願いだから、文句があるならここじゃなくてメールで送ってよね。こんなところでケンカなんかしたら、みんなに見られるじゃないの。
「ホントに鈍感よね、あなたって」
「鈍感?」
とぼけるわけではなく、素直に夏海は聞き返した。経験したことのない場面に直面しているせいか、頭の中の変換機能がうまく働かない。
「どうせあなたは、私が彼氏のできない、勉強しか取り柄がない人間だと言いたいんでしょ」
「べつにそんなこと……」
「いいわよ、その通りなんだから」
そう呟く梢の目は、暗く沈んでいた。
「あなたはいいわよ。勉強も運動もそれなりにできて、しかも彼氏までいるんだから。あなたみたいな優等生には、私の気持ちなんかわからないのよ」
内心の興奮がおさえきれないのか、梢は立ちあがっていた。
「あなたは私のことなんか忘れて、サッカー部のキャプテン君と仲良くやってればいいのよ!」
そう言い捨てると、まだ半分以上残っている弁当箱を乱暴に鞄にしまい、梢は肩を怒らせて立ち去った。状況をよく把握できないまま、夏海は苛立ちの混じったため息をついた。周囲の視線が痛いほどに突き刺さる。
梢のせいでせっかくの昼休みが台無しになったじゃないの。もうお昼を食べる気分じゃないけど、お弁当をこのまま捨てるのももったいないから、無理して全部食べちゃうか。
周囲の視線を気にしながら、夏海は淡々と弁当を胃袋におさめていく。諍いの苦々しさによって味覚がマヒしているのか、何を食べてもまったく味が感じられない。大好物であるはずの玉子焼きも、今はただのフニャフニャしたスポンジだ。
空虚な満腹感とともに、苛立ちをともなったやるせなさが内心に込み上げる。
何よ、もう。あそこまで怒らなくてもいいじゃないの。別に梢の悪口を言ったわけじゃないんだから。これじゃあ、私が梢をいじめたみたいじゃん。
トモダチって、本当にメンドクサイ。