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東京原人  作者: 夏川龍治
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ヘビ男

 日曜日にしてはたいした渋滞もなく、車は順調に進んでいた。

「東京にはどんなお店があるのかねえ」

 後部座席の窓から外の景色を食い入るように見つめて、トメははずんだ口調で言った。昨晩の夜ふかしなどものともしない、超人的なはしゃぎぶりである。

 遠足前日の子供のように無邪気にはしゃぐトメとは対照的に、夏海はその隣でぐったりとうなだれていた。昨晩の夜ふかしが予想以上に体にこたえたらしい。

「どうしたんだ、そんなに疲れた顔して」

 カバのような大あくびを連発する夏海に、俊雄は心配そうに言った。

「夜更かしでもしてたんじゃないの」

「そんなわけないでしょ」

 と言い返したそばから、またもや大きなあくびが洩れる。

 夏海の全身に蓄積された眠気も、東京駅が近づくにつれて次第に吹き飛んでいった。執拗な睡魔といれかわるように夏海の内心を満たしたのは、もうすぐ守に会えるという、若々しい高揚感であった。

「さあ、着いたぞ」

 東京駅周辺のコインパーキングに車を停め、俊雄は言った。

「俺はこれから部下と会う約束があるから、この後は夕方まで別行動にしよう」

「部下の人と約束ねえ」

 夏海の訝しげな視線を俊雄は無視して、

「美代子はお袋に付き添ってくれるか」

「まあ、いいけど……」

 美代子の表情が微妙に曇るのを、夏海は見逃さなかった。お母さんったら、また無理してるな。

「わしは一人で大丈夫じゃよ」

 周囲にもの珍しそうにキョロキョロと見まわして、トメは胸を張ってみせた。

「駄目だよ、お袋」

 と、俊雄は首を横に振って、

「東京はこわいところでもあるんだ。そんな場所を、お袋一人で散策させるわけにはいかないよ」

「そうかい」

 意外なほどにあっさりと、トメは頷いた。

「一緒にきてくれるかい、美代子さん」

「ええ、もちろん」

 ぎこちなさが残る笑みで、美代子はこたえた。

 夏海はふと、腕時計に目をやって、そしてあせりを感じた。

 あっ、もうこんな時間じゃない! ボヤボヤしてると、守に会えなくなるかもしれないじゃないの。ケータイが使えないんだから、ちょっとでもすれ違っちゃったら連絡が取れなくなるんだからね。

「友達が待ってるかもしれないから、もう行くね」

「楽しんでくるんじゃよ、夏海」

「夕方までには帰ってくるんだぞ」

「わかってるって!」

 鬱陶しげに俊雄を一瞥すると、夏海は駅へと走っていった。

「うらやましいねえ、若さってやつは」

 駅前の雑踏に紛れていく夏海の姿を目で追いながら、トメはしみじみと呟いた。そして、自分に気合を入れるように深呼吸をすると、

「さあ、夢の大都会に挑みますかね、美代子さん」

「そうですね、お義母さん」

 美代子は力なく微笑んだ。

 四人のささいな悶着など一切興味がないかのように、東京駅はただ悠然と人の流れを見届けていたのだった。


 絶えることのない人の往来の中、守は、駅の時計台と腕時計との間でせわしなく視線を往復させていた。時折改札口周辺の雑踏に目をやってみるが、やはりそこに夏海の姿はなかった。

 やっぱり、待ち合わせの時間と場所をもっと詳しく決めておけばよかった。これまで携帯電話に頼りきっていたものだから、いつの間にか待ち合わせの方法を忘れてしまっていた。考えてみれば、時間と場所を決めておくだけなのに。

 守はふと、閃いた。駅には待ち合わせのための連絡板が設置されていると、いつの日か母親から聞いたことがある。まあ、それは守が生まれるはるか前の、ずっと昔のことだから、今でもそれがあるかどうかはわからない。

それでもわずかな望みを託して周囲を見まわしてみると、雑踏の向こう側に、遠慮がちに連絡板が設置してあるのが見えた。昨日からの携帯騒動による混乱をおさめるために、臨時に設置されたらしい。

 連絡板にはまだ、誰の文字も記されていなかった。チョークを手に持って、待ち合わせ場所はどこにしようと考えあぐねているところに、スネークマンの奇怪なオブジェが目に入った。

 あのオブジェなら、人混みの中でも充分に目立つし、見失うこともないだろう。ちょうどいいタイミングで、絶好の待ち合わせ場所ができた。

 納得するように何度か頷いて、守は戸惑いながらも連絡板にチョークを走らせていく。

(スネークマンのオブジェの前で待ってるよ。守)


 次々と視界を彩る高級食材の数々に、美代子の気分は時間を忘れるほど高揚していた。

 牛のロース肉が一キロ九百円ですって。うちでいつも食べてるお肉の二倍近い値段じゃないの。やっぱり、東京のデパートはランクが違うのね。

 えっ、サーロインが千五百円? 完全に予算オーバーになるけど、お義母さんがきてるんだし、今日の夕飯は奮発してステーキにでもするか。ええと、向こう側にはデザートのコーナーがあるみたいね。デザートを買う余裕なんかないけれど、せっかくここまできたんだから目の保養にちょっと見て行くか。ウインドウショッピングっていう言葉もあるんだし……。

 トメのいない解放感に浸る美代子だが、やはり心の片隅には一片の不安があった。

 お義母さん、大丈夫かしら。こんなに広いデパートを一人でまわるなんて、あの体にはちょっと負担がきつすぎるような気がするけど。それに、待ち合わせの時間と場所も決めずに別れちゃったんだもの。(最悪は迷子センターのお世話になるさ)って冗談めかして笑ってたけど、八十を超えたおばあちゃんが迷子っていうのもねえ。

 いけない、いけない。いつもの癖で、ついお義母さんのことを考えちゃった。大丈夫よね、きっと。お義母さんは、まだまだ元気だもの。せっかく一人の時間をもらったんだから、余計なことは考えずに思いきり楽しまなきゃ。

 そう自分に言い聞かせてみるものの、そのすぐ後にはトメの顔が脳裏にちらつくのであった。

 本当に大丈夫かしら、お義母さん。


 時計の短針が二時をあっけなく行き過ぎるのを見て、香織は悩ましげにため息をついた。綺麗に整えられた流線型の眉が悲壮に歪む。

 やっぱり、こないのだろうか。休日を返上してまで部下の相談に乗ってやる上司が滅多にいないことは、香織もよくわかっていた。俊雄はその数少ない有能な上司だと思っていたのだが、それもただの理想像にすぎなかったということか。

 いや、悲観的な決断を下すのはまだ早すぎる。俊雄はただ、道に迷っているだけかもしれないではないか。

 そうだ。俊雄は道に迷っているだけなのだ。待ち合わせの時間と大雑把な場所を決めただけで安心していたのだが、東京駅がこれだけ広いとは思わなかった。今さらになって、携帯電話の使えない不便さが身にしみる。

「どうかなさいましたか」

 誰かに肩をたたかれて、香織は思わず飛びのいた。

 声の方向に顔を向けると、そこには制服をきっちり着込んだ女性の駅員が立っていた。香織と同年輩であろうか。後ろ髪を地味な色のゴムで結わえて、いかにも仕事熱心な印象の女性である。

「どなたかと待ち合わせですか」

「ええ、まあ……」

 戸惑いがちに頷く香織に、駅員はにっこりと微笑んで、

「あちら側の改札の近くに臨時の連絡板がございますので、よろしければそちらをご利用ください」

「ありがとうございます」

「では、ゆっくりとお楽しみください」

 微笑とともに一礼をして、駅員は雑踏の中に消えていった。

 香織の頬に、にわかに笑みが浮かんだ。さきほどまでの心細さが急速に薄らいでいくようだった。

 駅員の指し示した通りの道順を歩いていくと、確かに連絡板の前にたどり着いた。

 記入欄には、もうすでに守という人物の書き込みがあった。名前の語感や字体から判断して、高校生くらいの若者だろう。書き込みの内容から察するに、恋人とのデートかもしれない。

 チョークを手に持ってから、香織は気付いた。駅員に促されるままにここまできたのはいいが、肝心の待ち合わせ場所を考えていなかった。これだけの広い駅だ。よほど目立つ場所でないとすれ違ってしまうだろう。

「あのヘビのオブジェ、すっごくカッコいいよね」

「そうそう!」

 まだ学生と思われる女子たちの会話が耳に入り、香織はちいさく手をうった。

 東京駅の前に映画のキャラクターのオブジェが置かれていることは、香織もニュースで知っていた。あまり詳しくは見ていないが、ずいぶんグロテスクなオブジェだと思ったことだけは印象に残っている。

 そうだ、あれを待ち合わせ場所にしよう。あのオブジェなら遠目からでもかなり目立つし、人の往来にも巻き込まれずにすむ。よし、そうと決まれば……。

 チョークを持つ香織の手が滑らかに動いていく。

(グロテスクなヘビのオブジェ前で待ってます。香織)


 ふう、そろそろ休憩にするかね。

 デパートのベンチにどっかりと腰を下ろして、トメは疲労感と満足感の入り混じったため息を洩らした。両脇に置かれた買い物袋には、この数十分間で手に入れた(戦利品)がぎっしりと詰め込まれている。

 ひとしきり疲労がやわらいだところで、トメはそばにある壁掛け時計に目をやった。

 おやおや、もう二時を過ぎているじゃないか。さてと、買い物も一通り済んだことだし、そろそろ美代子さんと合流……。

 大儀そうに立ちあがりかけて、トメははたと気がついた。

 そういえば、美代子さんとの待ち合わせ場所を決めておかなかったんだね。何しろ、早く買い物をしたかったものだから、焦って美代子さんと別れてしまったんだ。

 でも、大丈夫さ。こういう時のために、駅にはちゃんと(連絡板)ってものが用意されておるんじゃから。年寄りを見くびったらいかんよ。何せ、携帯電話なんてのができるずっと前からこっちは生きてるんだからね。ええと、東京駅の連絡板は確か……。

 トメはデパートを出ると、東京駅の構内を悠然と歩いていく。重い買い物袋を両手にぶら下げ、行き交う雑踏をものともせずに突き進むその姿は、さながら水面を自由に泳ぎまわる華麗なイルカのようであった。

 やがて、視線の先に連絡板が見え、トメは満足げな微笑を浮かべた。

 ほら、あったじゃないか。やっぱりわしのカンは正しかった。しかし、ここの連絡板はやけに安っぽいな。わしの近所の駅の連絡板は、もっと頑丈に作られておるのに。

 連絡板を懐かしげに見つめてから、トメはチョークを手に持った。

 さて、肝心なのは待ち合わせの場所じゃ。改札の近くは人の往来が激しいし、できればここの周辺で待ち合わせをしたいのじゃが。

 トメは細めた目であたりを見まわして、人の流れの終点がある一点に集中していることに気がついた。

 雑踏が向かう先には、ヘビともトカゲともつかない、何とも珍妙な怪物の銅像があった。

 そうだ、あれがいい。あの置物なら、遠目からでも目立つじゃろう。

 嬉々とした表情で、トメは連絡板に文字を記していく。

(変なヘビの置物の前で待つ)


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