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東京原人  作者: 夏川龍治
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満月の夜に

 完璧なまでの静寂の中で、夏海は目をさました。窓からわずかに射し込む月明かりだけが、部屋の天井を淡い乳白色に照らしている。

 まだ、夜か……ふたたび深い眠りへと引きずりこまれかける夏海の脳裏に、ふと昼間の梢の言葉が浮かんだ。

(真夜中に満月の下でケータイを開くと、電波が復活するらしいのよ)

 この言葉が、夏海の頭の中で何度も繰り返される。

 チャンスは、今日だ。今日を逃したら、もう一生ケータイを使えないかもしれない。

 よし、やろう――夏海は決意を固めた。もうすでに睡魔は消え去り、意識は普段の授業中以上に明敏に覚醒している。

 制服の内ポケットに入れてある鍵を取り出し、夏海はゆっくりと扉を開けた。


 玄関を出るためには、どうしても美代子たちの寝室を通らなければならない。夏海は息を殺して、慎重に階段を一段ずつ下りていく。

 不意に背後で物音がして、夏海はあやうく悲鳴をあげそうになった。寝室の扉が開けられたのかと思ったが、どうやら錯覚のようだ。ホラー映画のヒロインになったような気分で、夏海はそっと安堵のため息をつく。

 ついに、玄関までたどり着いた。乱れる息をいったん整えてから、夏海はドアノブに鍵を射し込む。できるだけ音をたてないように、ゆっくりと鍵を右にひねっていく。

 玄関を開けると、そこには、どこまでも果てしなく続いていそうな暗闇が広がっていた。夏海の前方数メートルだけが、常夜灯によってかろうじてほの白く照らされている。

 玄関を慎重に閉めて、夏海は空を見上げた。紺色のインクを全体にこれでもかと塗りたくったような夜空には、満月が暗闇にとり残されたようにひとり寂しげに輝いていた。

 よし、やるぞ……深呼吸を一つすると、夏海は携帯電話を開いた。そして、紺碧の夜空で孤独に微笑んでいる満月に向けて、ゆっくりと携帯電話を掲げていく……。

「何をやっとるんじゃ」

 突然、頭の上のほうから鋭い声が聞こえた。声の方向に視線を向けると、トメがベランダから夏海を見下ろしているところだった。

「さては、寝付かれないんじゃろ」

 何もかもを見透かしているように、トメは言った。

「ちょっときてごらん。わしも眠れんから、ちょっとばかし話し相手になっておくれ」

 と言うと、トメは手招きするような仕草を見せた。

 悔しさと安堵感が入り混じった複雑な思いに、夏海はとらわれていた。夜中に家を抜け出したことをトメに咎められなかったのは嬉しいが、このままでは携帯電話が使えなくなってしまう。

 けれど、仕方ない。どうせ、トメはすぐに眠くなるだろう。梢のアドバイスを実行するのは、それからでも遅くはない。あせらずに、ゆっくりとやろうではないか。

 夜は、まだまだ長いのだから。


 風通しが良いようにつくられているのか、ベランダは思いのほか涼しかった。

 トメは二人分の椅子を用意して、夏海に座るように勧めた。

「カイワレの具合が気になったもんだからねえ」

 言い訳をするようにトメは言うと、テーブルの中央に置かれたカイワレのプランターを目を細めて見つめた。

「こんな時間にどうしたんだい」

 咎める風でもなく、トメは訊いた。

「ちょっと、夜風にあたりたくなったから……」

 慎重に言葉を選んで、夏海はこたえた。無意識のうちに、手がポケットの携帯電話へと動いてしまう。

「今日は満月じゃなあ」

 遠い目をして、トメは夜空を見上げた。それにつられるように、夏海も顔を上げる。

「おじいちゃんとの馴れ初めは、話しておらんかったかな」

 幾分照れたように、それでいてどこか楽しそうに微笑を浮かべて、トメは言った。

「おじいちゃんのことは、あんまり聞いたことないかも」

 そうこたえながら、夏海はトメの夫、つまり自分の祖父にあたる人物について思いをめぐらせていた。

 おじいちゃんって、どんな人だったんだろう。名前が徳造っていうこと以外は、ほとんど何も聞いていない。私が生まれてすぐに亡くなっちゃったから、話をした記憶も、遊んでもらった記憶も全然ないんだよね。若い頃に小学校の先生をしてたっていうことはお母さんから聞いたことがあるけど、そのほかはほとんど知らないや。

「おじいちゃんとは、茨城で出会ってねえ」

 どこまでも懐かしげに、トメは目を細めた。

「うちの近所には大きな小学校があったんじゃが、そこに一人特に熱心に生徒たちを教えている若い先生がおってね。それがおじいちゃんだったんじゃよ」

 はにかんだように語るトメの横顔を見ているうちに、夏海は自分まで心が温まるような気分になっていた。

 自分からこんなによく喋るおばあちゃんのを見るのは、初めてかもしれない。何だか、この数分の間でおばあちゃんが一気に若返ったような気がする。だって、おじいちゃんの話をするおばあちゃん、すっごくうれしそうだもん。

「その頃おばあちゃんはまだ女学生でねえ。男の人と話したことなんてほとんどなかったから、おじいちゃんに直接気持ちを伝えようにも、どういうふうに伝えればいいのかわからなかったんじゃよ。何せ、学校のほうからおじいちゃんらしき声が聞こえただけでも耳まで真っ赤になるくらいじゃったからねえ」

 トメは豪快に笑った。どんなことにも驚かないトメがこんなにシャイだったとは、何十年前のこととはいえ、夏海は信じられなかった。

「おじいちゃんに出会うまで、男の子と話したことなかったの?」

「まあ、すれ違えば挨拶くらいはしたじゃろうが、今のように恋人同士で手をつないで堂々と歩いたり、ましてや人前で口づけをしたりするなんてできなかったんじゃよ」

「それは……恥ずかしかったから?」

「恥ずかしいよりも何よりも、まずはこわかったんじゃな」

「こわかった?」

「ああ、こわかったさ」

 大げさなほどに、トメは唇をすぼめてみせた。

「その頃の学生は、いろいろなものに縛られておった。学校には当然校則があったし、家庭には一家の主が定めた厳しい家訓があった。それらを一つでも破ろうものなら、先生やお父さんからこっぴどく叱られたものじゃよ」

 夏海は少しずつ、トメに親近感を抱きはじめていた。時代の差こそあれ、トメも自分も結局は同じ世界に生きているという当たり前の事実が、夏海に新鮮な驚きを与えていた。

 何だ、おばあちゃんも私と同じじゃないの。私だって、今までお母さんや先生にたくさん叱られてきたわよ。叱られるって言っても、ちょっと長いお小言を聞かされるくらいだけど。

「叱られるって、どんなふうに?」

「それはそれは厳しかったさ。家訓を守らなければ有無を言わさず座敷で一日正座をさせられたし、校則を破れば、真冬であろうと廊下に容赦なく立たされたものじゃ。学校で一番こわかった鬼束先生なんか、持っている竹刀で私たちのお尻を思いきりたたくんじゃから」

 竹刀でお尻をたたく? それって、立派な体罰じゃない。それでよく、おばあちゃんは先生に文句を言わなかったわね。

「そんなにひどいことをされて、どうして我慢してたの?」

「その頃は、親や先生の教えは絶対じゃったからねえ」

 と言って、トメは懐かしそうに目を細めた。

「それで、おじいちゃんにはどうやって気持ちを伝えたの?」

「気持ちを伝えるなんてとんでもない。顔を合わせる機会といえば地域の運動会や学校行事しかなかったから、想いをうち明けるどころか、おじいちゃんに会うことすらままならなかった」

 なかなか進展しないトメの恋を、夏海はもどかしく感じた。会うチャンスは少なくてもメールで気持ちを……って、その頃はケータイなんてないのか。

「会えない日々が続いたものじゃから、おじいちゃんとはもう、一生結ばれないんじゃろうなあと、わしも諦めておったんじゃよ。そんな時じゃったな。叔父さんからわしに、縁談が持ち込まれたのは」

「エンダン?」

「ああ、わからないのも無理はないね。縁談っていうのは、お見合いのことじゃよ」

「お見合い……」

 お見合いなら、テレビの古いドラマとかで聞いたことがある。お見合いなんて古くさい……そう思ってたけど、おばあちゃんの時代には、それが当たり前だったんだ。

「わしも年頃になっておったし、あまりいつまでも嫁がないでいるのも家の恥じゃったから、おじいちゃんへの想いはきっぱり忘れて、その縁談を受けることにしたんじゃよ。乙女の甘酸っぱい恋心は胸にしまってな」

 トメは悪戯っぽく微笑んだが、夏海はつられて笑う気にもなれなかった。

 好きな人と結ばれない世の中なんて、絶対におかしい。それに、(嫁にいかないと家の恥)なんて、どう考えてもひどすぎる。どんな時代でも、好きな人と結婚するのが幸せに決まってるのに。

「でも、仏様はやっぱりどこかで見ていてくださったんじゃなあ」

「どういう意味?」

「その縁談の相手が、おじいちゃんだったんじゃよ」

「ええっ、ウソ!」

 反射的にそう叫んだあとで、夏海はリビングのほうに目をやった。しばらく待っても美代子たちが起きだしてくる気配がないので、夏海はホッと胸をなで下ろした。

 何よ、このドラマみたいな展開。いや、ドラマよりもずっと面白いかもしれない。いけない、いけない。本当の人生を面白いなんて言ったら、おばあちゃんに失礼だよね。

「おじいちゃんは、何て言ってプロポーズしたの?」

「プロポーズなんて洒落たものじゃなかったさ。ただ平凡に、『結婚してください』って言われただけだよ」

 結婚してください、か……確かに平凡なプロポーズだけど、そのほうが逆にロマンチックなような気がする。

「それで、おばあちゃんは何てこたえたの」

「そりゃあ、結婚を申し込まれてるんじゃから、『末永くよろしくお願いします』って言うしかないじゃろう」

 そう言って、トメははにかんだように微笑んだ。

「おじいちゃんと初めて口づけを交わしたのが、満月の晩だったんじゃよ」

 満月を見上げるトメの横顔に、麗しき少女の面影が重なった。深く刻まれていたはずの幾筋もの皺は消え、色白できめの細かい繊細な肌を持つ、一切の苦労を知らないうら若き乙女が、ただ純粋に夜空を見上げているのだった。

「おばあちゃんって、幸せな人生を過ごしたんだね。一番好きな人と結ばれてさ」

「幸せな人生ねえ……。あの戦争さえなければ、確かにそうだったのかもしれないね」

 トメの顔に、ふと翳りがさした。そして、徐々に雲に覆われつつある満月に目をやると、

「おっと、今日は少しばかり話しすぎたみたいだね。夏海ももう部屋に戻って、ゆっくりお休み。明日はデートなんじゃろ」

「でも、待ち合わせの時間と場所がわからないし……」

「明日、おばあちゃんと一緒に東京駅まで乗っていけば、こたえはきっと見つかるはずじゃよ」

 意味ありげなトメの視線に、夏海はすべてを察した。

「うん、わかった。ありがとう、おばあちゃん」

「命短し恋せよ乙女、じゃよ」

「その言葉、なんかロマンチックだね」

 ベランダの窓を開けて、夏海は微笑んだ。

「じゃあ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 夏海が自分の部屋へと歩いていくのを、トメは穏やかな眼差しで見届けていた。夏海の姿が見えなくなると、トメは優しく語りかけるように夜空に浮かぶ満月を見上げた。

 あなたの孫はちゃんと素直に育っていますよ、徳造さん。だから、心配しないでのんびりと暮らしていてくださいな。それと、そっちにも私の居場所を作っておいてくださいね。もしかしたら私もそろそろそっちに……。

「お義母さん」

 窓ごしに美代子の声が聞こえ、トメは振り返った。

 美代子は窓を半分ほど開けて、

「こんな時間に、何をなさっているのですか」

「ちょっと、カイワレの具合が気になってね」

「そういうことは明日にして、早くおやすみになってくださいね。夜更かしは体に毒ですよ」

「わかってますよ。わしももうすぐ寝るから、美代子さんも安心しておやすみくださいな」

「あんまりご無理をなさらないでくださいね。……それはそうと、さっきまでここに夏海がいませんでしたか?」

「いや、きてないよ」

「そうですか。でも、確かに夏海の声が聞こえたような……」

「それはきっと、美代子さんの空耳じゃろう」

「そうですね、きっと。じゃあ、お義母さん、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 首をかしげながら歩いていく美代子を見て、トメは深く息を吐いた。

 夏海の声が寝室まで聞こえておったか。夜ふかしはあまり褒められたものではないが、まあ、今日のところはわしの胸にしまっておいたほうがいいじゃろう。あのくらいの年頃には、眠れぬ夜の一つや二つはあるはずじゃ。

 嘘をつくのは、案外疲れるわい。


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