テレフォンノイローゼ
「この煮物、すっごくおいしいねえ」
里芋を満足げに頬張って、トメが微笑んだ。
「煮物を食べるのなんて、本当にひさしぶりだなあ」
「今日はおばあちゃんのご指導のもと、腕によりをかけて作ったのよ。さあ、夏海もたくさん食べなさい」
と、美代子は言った。
食卓には、里芋の煮物、さばの塩焼き、豆腐とワカメの味噌汁と、いかにも(家庭料理)然とした料理が並べられていた。いつものレトルトばかりの夕食とは大違い――皮肉まじりの正論を、夏海はいつもより濃いめの緑茶とともに呑みこんだ。そんなことを美代子に言ったら、あとで何をされるかわからない。
「明日にでも、東京見物に行きたいねえ」
はしゃいだ様子で、トメは言った。
「東京見物ですか。それはいいですね」
と、美代子は一点の曇りもない笑みを浮かべた。
「東京にはデパートがたくさんあるから、美代子さんもゆっくり買い物ができるじゃろう」
「私も……ですか」
美代子の笑みがにわかに曇った。しかし、すぐにもとの表情に戻って、
「そうですよね。お義母さんお一人で東京見物というのは、ちょっと危ないですよね」
「そうかい。わしはべつに一人でも大丈夫なんじゃが、美代子さんもたまには気晴らしがしたいじゃろうと思ってな。じゃが、もし他に用事があるなら無理せんでもいいんじゃよ」
「いえいえ、そんな……。ホッホッホ」
美代子のわずかな表情の変化に、夏海は思わず苦笑した。
ああ、もう。お母さんったら、無理しちゃって。きっと、おばあちゃんがいない間に思いっきり羽を伸ばすつもりだったんだろうな。ホントにわかりやすいんだから、お母さんって。
「夏海も一緒に東京に行くかい」
「私は友達と遊ぶ約束があるから、明日は行けないや」
夏海は即座にこたえた。まるで、あらかじめ何度も練習した劇のセリフのように。
「友達って、男か」
思いもよらぬ方向から、横槍が入った。俊雄の険しい視線が、夏海に突き刺さる。
「女の子に決まってるでしょ」
突っ慳貪にこたえてから、夏海は、自分の眉がかすかに動くのを感じた。マズい、ウソを見破られるかもしれない。
「そうか。それなら安心だな」
俊雄は頷くと、何事もなかったように味噌汁を啜った。
ああ、よかった――夏海は安心しながらも、心のどこかではわけもなく腹が立っていた。
お父さんって、どこまで鈍感なんだろう。娘のウソも見抜けないなんて、父親失格ね。
「友達ねえ。てっきり彼氏かと思った」
一難去ってまた一難。さらなる強敵が、夏海の前に立ちはだかる。
「そんなわけないでしょ。もう、お母さんまで」
自分ではうまくごまかせたつもりだったが、やはり眉が動いてしまった。微妙な動揺を隠すために、つとめてさりげなく味噌汁を啜る。
「彼氏って、何じゃ」
「恋人のことですよ、お義母さん」
「夏海にはもう恋人がいるのかい」
からかうように、トメは言った。夏海は困ったように顔をしかめて、
「だから、そんなんじゃないって」
「いいんじゃ、いいんじゃ。若い頃はたくさん恋をせにゃあならん」
と、トメは愉快そうに笑った。
「命短し恋せよ乙女、なんてな」
何よ、それ。命短しなんて、いかにも不吉じゃない。
「あっ、そうだ」
何かをひらめいたように、美代子はぽつりと呟いた。
「明日は会社休みよね、お父さん」
「ああ、そうだけど」
「じゃあ、私たちを東京駅まで送っていってよ」
「だけど……」
わずかに逡巡しかけて、俊雄は思いついた。
香織との待ち合わせも、東京駅なのだ。ということは、美代子たちを車で送っていけば効率が良い。もっとも、美代子が香織と鉢合わせにならないように細心の注意を払わなければならないのだが……。
「べつに構わないよ。俺もちょうど、明日は東京で部下と会うことになってるし」
「へえ、そうなの。じゃあ、ちょうどよかったわね」
「こういう時に頼りになるのは、一家の大黒柱じゃなあ」
大黒柱などと言われて、俊雄はひとり悦に入っている。
「その部下って、女の人?」
「男に決まってるだろう」
俊雄はあっさりと否定したが、その顔には動揺の色が浮かんでいた。
「夫婦そろっての外出なんて、何年ぶりかしら」
言外に妙な色気を滲ませて、美代子は言った。
「東京駅に着いたら別行動だからな」
釘を刺すように俊雄は言うと、すっかり冷めてしまった緑茶を飲みほした。
「夏海にもお土産を買ってきてやらんといかんね。さて、何がいいかな」
「私は何でもいいよ」
ぎこちなく、夏海はこたえた。まるで見えない糸に導かれるように、視線がひとりでに壁の時計のほうに引きずられていく。
時計の針は、もう七時半をまわっている。それなのに、いっこうに電話のかかってくる気配がない。夕食が終わる前に電話がこないと、お母さんかお父さんが電話に出ちゃう。
「何やってるの、夏海。ぼうっとしてないで、早く食べちゃいなさい」
「わかってるよ」
そう返事をしながらも、夏海の視線は時計の秒針に固定されたままだった。
守ったら、一体何やってるんだろう。もしかして、私のこと忘れられてる? いや、そんなことはないよね。きっと、たぶん、おそらくは……。
時計の針は、九時ちょうどを指していた。依然として、守からの電話はない。
「夏海、早くお風呂に入っちゃいなさい」
「ちょっと待ってよ。勉強があとちょっとで終わるんだから」
数学の教科書と壁の時計を交互に見やりながら、夏海はこたえた。美代子はため息をついて、
「勉強なら自分の部屋でやればいいじゃないの」
「ここでやったほうが集中できるの!」
自分でも見え透いたウソだとは思ったが、今はそうこたえるしかないのである。
「試験勉強もロクにやらないような人が、それも一番苦手な数学を熱心に復習してるだなんて、どういう風の吹きまわしかしら」
どんなにイヤミを言われようと、今は必死に我慢しなければならない。最後の部分だけは意味がよくわからないが、きっと皮肉を言っているのだろう。
「こんな時間まで熱心に勉強するなんて感心だねえ」
と、トメが呑気に笑う。
「今日はおばあちゃんがいるから、いい子を演じてるだけだよな」
からかうように微笑む俊雄に、夏海は手もとの消しゴムを思いきり投げつけたくなった。本当のことを何も知らないくせに、的はずれなこと言わないでよ。
「お義母さんからも言ってやってくださいよ。一人がのんびりしてると全体のリズムが崩れるんだって」
「まあまあ、美代子さん。そんなにきつく言わんでも」
と、トメは穏やかに笑いながら、
「勉強熱心なのはいいが、あんまり頑張りすぎるのも体に毒じゃよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
さすがの夏海もトメには逆らえない。それは、威圧感や威厳とはまた別の、もっと温かい結びつきによるものかもしれなかった。
「さてと、この続きは明日にするか」
わざとらしく呟くと、夏海は立ちあがった。
リビングを出る前に、もう一度時計を確認する。
九時十分。もう、大丈夫。規則正しい生活をしてる守のことだから、今頃はきっと寝てるはずだ。電話は明日の朝かけるつもりなのかもしれない。そういえば、守はバス停で、(明日は午後二時に東京駅で……)ってところまでは聞こえたから、待ち合わせは大丈夫だと思う。けれど、やっぱり電話が待ち遠しい!
夏海の内心の焦燥感を愉しむかのように、電話機はリビングの片隅で素知らぬ顔を決めこんでいた。
いつもの倍以上のスピードで体を洗って、夏海は浴室を出た。本当はリンスもじっくり流したいところだが、今は緊急事態だ。
急いでパジャマを着て、鏡の前に立つ。どんなに急いでいても、日課の髪型チェックは欠かせない。よし、今日も合格。
それにしても、どうしたんだろう。守が約束を破るなんて、今まで一度もなかったのに。もしかして、守も親の目を盗んで電話をするのに苦労してたりして……。
いくらなんでも、こんな遅くになって電話をかけるほど、守は非常識じゃないよね。電話がこないとわかってたら、数学の復習なんかしなかったのに。ああ、熱心に勉強して損した。
リリリ、リリリ……。
ん? 今、リビングのほうで何か音がしたような……。もしかしてこれ、電話の音?
雷鳴にはじかれたネズミのように、夏海はリビングへと走りだした。受話器を片手に困惑する守の姿が脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、そういうことで」
夏海がリビングに入った瞬間に、俊雄が受話器を置いた。
「何よ。家の中でドタバタ走るなんて、みっともない」
美代子のたしなめる声も無視して、夏海は俊雄をまっすぐに見据えたまま、口を開いた。
「今の電話、誰から」
「守っていう男の子だったよ。夏海の先輩らしいな」
「それで、何てこたえたの」
「『夏海さんはいらっしゃいますか』って聞くから、『娘はいま、高熱を出して寝込んでいます』ってこたえたよ」
「何でそんなことするのよ!」
頭の先から湯気がたちのぼるほど、夏海は興奮して言った。
「何かまずいことでも言ったか?」
「大事な用事だったかもしれないでしょ! 明日会いたいとか」
「だって、明日は友達の女の子と遊ぶんだろ」
「ああ、もう!」
夏海は苛立ち紛れに床を足で強く踏みならすと、俊雄を押しのけるようにして電話の前に立った。
受話器を取り上げて、夏海はふと気がついた。
そういえば私、守の家デンを知らないんだった。連絡はケータイで充分だと思ってたから、わざわざ聞こうとしなかったんだっけ。私ってホントついてない。こんな時にかぎってケータイが使えなくなるなんて!
「もう、サイテー!」
やり場のない怒りを視線にこめて、夏海は俊雄をにらみつけた。受話器をたたきつける音が刺々しく室内に響く。
「なにカッカしてるんだ、あいつ」
呆れたように、俊雄は首をかしげる。
「何だか懐かしい光景だねえ」
緊迫した雰囲気の中で、トメはひとり呑気に遠い目つきで呟いたのだった。