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東京原人  作者: 夏川龍治
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さらなる誘惑

終業時刻を過ぎ、オフィスは俊雄と香織の二人だけになっていた。

「今日も疲れたなあ」

 と呟くと、俊雄は大きく伸びをした。背後にある窓からは柔和な西日が射し込み、手もとの資料を淡いオレンジ色に染めあげている。

「二人だけになっちゃいましたね」

 パソコンのキーボードからふと顔を上げて、香織は悪戯っぽく微笑んだ。

「中里は五時きっかりに帰っちゃったしな」

 と言って、俊雄は中里のデスクに目をやった。

「今日は普段と様子が違いましたね、中里さん」

「確かにな……」

「係長はご存じですか。中里さんが落ち込んでいる理由」

「さっぱりわからないよ。それに、あれで落ち込んでるって言うのかね」

 言外に皮肉を交えつつ、俊雄は肩をすくめた。香織も同調して微笑を返すものだと思ったが、彼女は意外にも、深刻な表情で、

「ああ見えてけっこう落ち込んでるんですよ、中里さん」

「君は何か知っているのかい」

 いつになく意味深な香織の口調に、俊雄は思わず身を乗り出した。

「私から聞いたなんて、中里さんには言わないでくださいね」

 遠慮がちに前置きしたうえで、香織は話しはじめた。

「中里さん、同期の人たちに劣等感を持っているみたいなんですよ」

「劣等感?」

 反射的に、俊雄は眉根を寄せた。中里に劣等感というのは、思春期の娘に従順さと同じくらい不釣り合いな結びつきに思えた。

「同期の仲間が順調に出世しているのに、自分はまだこんな部署に……すみません。こんな部署だなんて」

「いいんだよ」

 俊雄は寛容に微笑んだ。中里のような潜在能力の高い社員にとって、この部署での業務は確かに物足りないのかもしれない。

「中里さんってもともとプライドの高い人だから、そういうことを必要以上に気にしちゃうのかもしれませんね。まあ、本人に直接聞いたわけではないので、それが事実かどうかはわかりませんが」

 香織はそう付け加えたが、その語り口には充分に真実味がこもっていた。ほぼ毎日、同じオフィスで働いている彼女の同僚としての洞察には、全幅の信頼を置いてもいいだろうと俊雄は思っていた。それに、ここ数ヵ月間で中里の同期にあたる社員の昇進が相次いでいることは、俊雄自身もそれとなく耳にしていた。

「中里さんを何とか励ましていただけませんか」

 いささか唐突に、香織は切り出した。

「同じオフィスで働く仲間として、これ以上中里さんの落ち込む姿を見ているのは辛くて……」

「わかった、何とかやってみるよ」

 温和な微笑とともに、俊雄は言った。中里の心のわだかまりを解きほぐす自信などまるでなかったが、今はとにかく香織を安心させることが先決だと、上司としての本能が囁いていた。

「ありがとうございます、塚原さん」

 香織の顔に安堵の色が浮かんだ。

「私では到底力不足だと思っていたのですが、塚原さんならきっとうまくやってくださるだろうと信じていました」

 疑う様子の微塵もない香織の笑顔に、俊雄は次第に気が重くなっていく。

 本当に、できるのだろうか。同じオフィスで仕事をしているとはいえ、中里とは世間話の一つも交わしたことがない。そんな、きわめて希薄な関係でありながら彼の内面の奥底にまで踏み込むというのは、無一文で世界一周旅行を敢行するほどの暴挙ではないのか。

 しかし、すでに約束してしまったのだ。一度約束した以上は、どんな困難があろうとも任務を達成しなければならない。中里を励ますことは、香織を不安から救うことでもあるのだ。

「もう一つだけ、お願いしてもよろしいですか」

「もちろんさ。部下の頼みを聞くのは、上司として当然の責務だからね」

「明日の午後は、お忙しいですか」

「明日の午後……」

「もしよかったら、東京あたりでお食事でもいかがですか」

「食事、か……」

 俊雄はかすかに逡巡し、そして気分がにわかに高揚するのを感じた。

 明日は、土曜日である。土曜日であるということは、すなわち休日である。つまり、香織は休日に、直属の上司を食事に誘っているのだ。この事実が指し示す意味は、ただ一つ。香織は一人の女として、この私を誘惑しているのだ。それ以外に妥当な結論は考えられない。だとすれば、一体どのようにこたえるべきか……。

「お忙しい……ですか?」

「いや、そんなことはないよ」

 俊雄は即座に頭を振った。赤信号を無視して猛スピードで突っ切るような、かすかな後ろめたさが、俊雄の内心に広がった。

「明日は何の予定もないから、喜んで付き合うよ」

「そうですか。ああ、良かった! 実は、昨日の相談の続きをゆっくりさせていただきたいと思っていたんです」

「小野寺君の相談なら、何時間でも聞くよ」

「やっぱり頼りになるなあ、塚原さんって。それで、待ち合わせはどこにします?」

「東京っていったら、やっぱり東京駅だろう」

「じゃあ、東京駅に午後二時ということで」

「了解!」

 これでいいんだ……俊雄はそう、自分に言い聞かせていた。これは決して、不純な交際ではない。部下からの深刻な相談に、上司として真摯にこたえてやるだけだ。そう、これは正当な業務の範疇なのである……。

「では、私はお先に失礼しますね」

 いつの間に帰り支度を整えたのか、香織はバッグを手に立ちあがった。

「明日のお食事、楽しみにしてます」

 おどけたように一礼をしてオフィスを出ていく香織の後ろ姿を、俊雄はいつまでも目で追っていた。香織が残した芳香の余韻が、俊雄の苦い不安をあっけなく吹き飛ばす。

 自分のやろうとしていることは、社会人としての倫理に反する背徳行為であろうか。これから起こるであろう波紋は、これまでの人生やすべての人間関係を崩壊させてしまうほどの破壊力を備えているのだろうか。

 俊雄の思考を遮るように、六時を告げるチャイムが鳴った。

 香織のことを考えるのは、もう終わりにしよう。起こってもいないことについてあれこれと思索をめぐらしても仕方がない。今はとりあえず、目の前に山積した仕事を一つずつ片付けていかなければ。

 初恋の幸福感を味わった思春期の少年のような高揚した気分で、俊雄はふたたびパソコンの画面に向かった。すべての悩みがきれいに消え去ったように、快調に指が動いていく。

 中里のことは、もう頭から消え去っていた。


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