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東京原人  作者: 夏川龍治
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嫁と姑

ああ、疲れた――海老のように折り曲げた腰を負担から解放するように、美代子は大きく背伸びをした。

 ここで休むわけにはいかない……休息を欲する神経を何とかなだめて、美代子はふたたび腰を折り曲げ、浴槽をスポンジでこすりはじめた。昼食の片付けも終わり、いつもなら一時間ほどコーヒーを飲みながらワイドショーを見るという、いわゆる(午後のひととき)を満喫している時間なのだが、今日はトメがいるのでそれも許されない。いや、トメはべつに(休むな)と言ったわけではないのだが、リビングのテレビはトメに占領されているし、ほぼ十分間隔で何かしら用事を言いつけられるので、片時も心の安まる暇がないのだ。

「美代子さーん!」

 リビングのほうでトメの声がした。

「はい、何でしょう」

 ゴム手袋をはずしながら美代子がリビングに行くと、トメが湯呑みを片手に困ったように眉根を寄せていた。

「お茶のおかわりをいただきたいんじゃけど、注ぎ方がわからなくてねえ」

「わかりました、おかわりですね」

 笑顔で返事をすると、美代子は湯呑みに緑茶を注いだ。

「急須、ここに置いておきますね」

 急須をトメの取りやすい位置に置いて、美代子は言った。トメはすまなそうに、

「すまないねえ。何から何までお世話になって」

「いいんですよ、お義母さん」

 美代子は微笑とともに首を横に振って、

「私を自分の娘だと思って、遠慮せずにどんどん用事を言いつけてくださいね」

「そうかい。本当に、美代子さんはよくできた人だねえ」

「いえいえ、そんな……」

 謙遜するように、美代子は顔の前で手を振った。いつの間にか、本心とは裏腹のことを平然と口にできる才能が身についたらしい。

「では、また何か用事がありましたらお呼びください」

 そう言い置いて、美代子は浴室に戻った。浴室とリビングの往復だけで、すでに軽く汗をかいている。

 ゴム手袋をはめ、スポンジを手に持つ。

 浴室用洗剤が、残り少なくなってきた。早いうちに近所の薬局で買っておかないと。スーパーの安売り情報が届かないのは、やっぱり不便だわ。

「美代子さーん!」

 ふたたび、リビングのほうからトメの声がした。鉛のようになった腰を、美代子はゆっくりと上げる。

「はい、何でしょう」

「テレビのチャンネルを変えたいんじゃが、うまくいかなくてねえ。リモコンが壊れてるのかしら」

 などと呟きながら、トメはしきりにリモコンのボタンを押している。

「お義母さん、それは……」

 まるで幼児のようにテレビの画面とにらめっこを続けているトメの姿に、美代子の口もとに自然と苦い微笑が浮かぶ。

「リモコンが逆ですよ、お義母さん」

「ああ、そうじゃった!」

 トメは自分のほうにむいたリモコンのビーム発射部分をのぞきこんで、しまったというように額をたたいた。

「ありがとう、美代子さん」

「どういたしまして」

 幾分疲労の混じった微笑を残して、美代子は浴室に戻った。

 ゴム手袋をはめて腰を折り曲げると、ひとりでに嘆息が口からこぼれてくる。

 さて、あと少しだ……浴槽の内側にクレンザーをかけてしまえば、風呂掃除も終わりだ。そうすればやっと休憩に……。

「美代子さーん!」

 幻聴だと思った。いや、そう思いたかった。

「美代子さん、いないの?」

 美代子の疲労感においうちをかけるように、もう一度トメの呼ぶ声が聞こえた。ゴム手袋をはずすこともなく、美代子は浴室を出る。

「何でしょうか」

 自分では穏やかな微笑のつもりでも、無意識のうちに疲労が滲んでしまう。

「どうしたんじゃね、その恰好は」

 風呂掃除中にしか見えない美代子の恰好を見るなり、トメは目を丸くした。

「こんな昼間からゴム手袋なんかはめて」

「今、ちょっとお風呂のお掃除をしていたものですから」

「風呂掃除なんかあとにして、ゆっくりお茶でも飲みなさいよ、ほれ」

 トメの呑気な言葉に、美代子は自分の顔に張りついた笑みが次第にひきつっていくのを感じた。

 あなたが(風呂掃除は昼間にしろ)って言うから、お昼の休憩を我慢してせっせと風呂掃除をしてるんじゃないの。もしかして、これは私へのイヤミかしら。

「じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと休憩しちゃおうかな」

 固まりかけた微笑を何とかほぐして、美代子は言った。

「ゴム手袋だけお風呂に置いてきちゃいますね」

「あせらなくていいからね」

 のんびりとしたトメの声が美代子の背中を追いかける。

 ゴム手袋をはずして美代子がリビングに戻ると、トメは相変わらずの呑気な口調で、

「おや、ゴム手袋をはずしてるね。風呂掃除は終わったのかい」

「お義母さん……」

 美代子の微笑が瞬時に固まり、そして、凍りついた。

「まだ終わっていませんけど……」

 凍りついた微笑はそのままに、美代子は言った。

 もしかして、これは私に対するイヤミかしら? それとも、自分の言ったことをすぐに忘れるくらい、老化が進んでるってことなのかしら……。

 良妻賢母って、本当に難しい。


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