ありふれた会話
いつものように定刻の十分前に出社すると、オフィスにはすでに香織の姿があった。
「おはよう、小野寺君」
「おはようございます、係長」
一日の始まりにふさわしい香織の清楚な微笑を楽しんでから、俊雄は中里に視線を向けた。
「中里君、おはよう」
「おはようございます」
少し遅れて、無気力な返事が返ってきた。素っ気ない態度は中里の専売特許だが、それにしても今日はやけに覇気がない。
「コーヒーブレイクはもう終わったのかい」
できるだけ軽い調子で、俊雄は言った。嫌味に聞こえないように気をつけたつもりだったが、中里は俊雄をにらむように見ると、
「今日はそんな気分じゃありませんよ」
と吐き捨てるように言って、手もとの資料に視線を落とした。
一体、どうしたのだろう……腹が立つより先に、戸惑いが俊雄の内心を支配した。
中里は珍しく、定刻より早く出社した。単純に考えれば、これは喜ばしいことだ。しかし、今の中里は明らかに普段と様子が違う。
今日の彼は、どこか他人の介入を避けているような気配すら感じられる。昨日から今までの短時間に彼を変えるような何かがあったのだろうか。あるいは、他人を遠ざけようとする性質がもともと彼の中にあって、それが何らかのきっかけで顕在化したということなのだろうか……。
熱い視線を感じて、俊雄は中里から顔をそらした。
視線を感じた方向に目をやると、香織が何かを訴えかけるような表情で俊雄を見つめていた。
その視線の意味を、俊雄は懸命に探ろうとした。中里のいつになく反抗的な態度についてであろうか。あるいは、昨日の妙に謎めいた相談(告白と言うべきか)について何か付言しておきたいことでもあるのだろうか。
いや、きっとそうだ。あの、過剰なまでに勿体をつけた告白で果たして自分の気持ちが伝えられたのか、香織は不安なのだ。その不安は、上司として、いや、男として、一刻も早く解消してやらなければならない。しかし、さすがに勤務時間中に、他の社員のいる前でこのようなきわめて私的な会話を交わすわけにはいかないだろう。
安心させるように、俊雄はゆっくりと頷いた。(その件はあとでゆっくり聞くよ)という無言のメッセージを、数秒間の視線の中に込めたつもりだった。
俊雄のメッセージが伝わったのか、香織は納得したように軽く頷き、そして微笑んだ。
さあ、決断の時がきた。香織の気持ちにどのようにこたえるにしても、ここは男としてきちんと英断を下さなければならない。成り行き次第では家庭にも大きな波紋が及ぶ可能性もあるのだから……。
パソコンのディスプレイに視線を移すと、真っ黒な画面に俊雄の沈鬱な表情がぼんやりと映っていたのだった。
いつものように、昼休みのテラスは女子たちの明るい喋り声で賑わっていた。ただ一つだけ普段と違うのは、当たり前のように鳴り響いていた携帯電話の着信音がすっかり姿を消してしまったことであった。
「ホント、どうしちゃったのかしらねえ」
携帯電話の画面に何度も目をやりながら、夏海は言った。規則的に弁当のおかずを口に運んでいながらも、一方の手には携帯電話がしっかりと握られている。
「ケータイは夏海のお守りだもんね」
こずえはひやかすように、それでいて同調の意志をこめて、言った。
「お守りっていう意味もあるけど、ケータイが使えないと困るんだもん、すっごく」
「マモル君ともメールできないしねえ」
「ちょっと、からかわないでよ」
「ゴメン、ゴメン」
二人は笑い合った。こずえの切れ長の目が細くなる。
ひとしきり笑いがおさまったあとで、こずえは思い出したように、
「ねえ、知ってる? ケータイの電波がつながる裏ワザ」
「何よ、それ」
勿体ぶるようなこずえの口調に、夏海も思わず身を乗り出す。
「朝のワイドショーで言ってたのに。あっ、夏海はニュースを見ないもんね」
「そんなことはいいから、早く教えてよ」
痛いところをつかれた気がして、夏海はつい唇を尖らせてしまう。
「いろいろ複雑な説明があったんだけど、簡単に言うと、真夜中に満月の下でケータイを開くと、電波が復活するらしいのよ」
「えっ、マジで?」
反射的に夏海は叫んで、ゆっくりと周りを見まわした。幸い、みんな自分たちの会話に夢中で、こちらの話には興味を持っていないようだった。
「科学的な根拠はないらしいんだけど、試してみる価値はあると思うわ」
自信たっぷりに、こずえは頷いた。
「でも……満月っていつ?」
「それが、今夜みたいなのよ」
心霊スポットを紹介するリポーターのように、こずえは声を低めた。
「チャンスは今夜ってことか……でもなあ」
「でも、何なのよ」
「今、おばあちゃんがきてるからなあ」
と言って、夏海は思案げに腕組みをした。
二階の寝室から玄関に出るには、トメの寝ているリビングを通らなければならない。トメを起こさずに玄関を開けられるのか、それが問題だ。
「へえ、夏海の家におばあちゃんがきてるんだ」
「うん、昨日からね」
「大丈夫? 嫁姑問題とか」
「そんなのはないわよ」
夏海は笑って言った。
「だって、もうカンペキにうちに馴染んでるんだもん」
「うらやましいなあ、ホント」
と、こずえは深いため息をついて、
「うちなんかもう、毎日が戦争よ」
「そんなにすごいの?」
「だって、顔を見合わせるたびにイガミ合ってるんだもの。見てるこっちのほうがストレスたまっちゃう」
「そうなんだ……」
適当に相槌をうちながら、いろんな家族がいるんだな、と夏海はめずらしく感じ入っていた。
「ねえ、夏海のお母さんとおばあちゃんは、ホントに仲いいの?」
「うん、もちろん!」
自信を持って、夏海は微笑んだ。