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東京原人  作者: 夏川龍治
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母と娘

 夕食の片付けからようやく解放されて、夏海は自室のベッドの上で一人の時間を楽しんでいた。慣れない作業を長く続けたせいか、手首のあたりがジンジンと痛む。

 鈍い痛みが走る夏海の手には、トメからもらった熨斗袋が握られていた。早く中身を確認したいという気持ちがある一方で、きれいに結ばれた帯を開封してしまうのがもったいないという意識もはたらいているのだった。

 一体、いくら入っているのだろう……素直な感情で、夏海は考えていた。手に持った感触といい、蛍光灯ごしに透かしてみた時のシルエットといい、小銭だけというのはまずなさそうだ。

 不意に、扉が遠慮がちにノックされた。自分の不純な内心を見抜かれたような気がして、夏海はびくっとした。

「入っていい?」

 美代子の声だった。

「べつにいいけど」

 片付けを手伝わされた不機嫌さが、返事に残っていた。無意識のうちに、熨斗袋を後ろ手に隠す。

「片付けもだいたい終わったから、ちょっと息抜きにね」

 扉を丁寧に閉めて、美代子は悪戯っぽく微笑んだ。

 こっちが本当のお母さんだ――妙なところで、夏海は安心感を覚えていた。

「いま何してたのよ」

「べつに。ぼうっとしてただけだよ」

「おばあちゃんからの入学祝いを見てたんでしょう」

「違うわよ」

 できるだけ素っ気なく夏海はこたえたが、右の眉がほんのわずかに動いてしまった。

「ほら、右の眉が動いた。それ、嘘をついた時の昔からの癖よ」

 夏海は黙ってしまった。本当のことなのだから、反論のしようがない。

「入学祝い、お母さんにも見せなさいよ」

「嫌よ」

「いいじゃないの。べつに悪いことでもらったお金じゃないんだから」

 しつこく粘られて、夏海は渋々熨斗袋を美代子に渡した。

「上等な袋じゃない」

 そう言って、美代子は熨斗袋を丁寧に眺めながら、

「こういう袋を何ていうかわかる?」

「えっ、この袋?」

 予想もしない問いかけに、夏海は戸惑った。

 こういう袋にも名前があるの? ただの袋でいいじゃん、もう。こんなこと、学校の授業でも習ってないよ。

「お祝い……袋」

 いかにも自信なさげな夏海のこたえに、美代子はふっと笑って、

「これはねえ、熨斗袋っていうのよ」

「ノシブクロ……初めて聞いた」

「こういうのは社会の常識よ」

 責めるわけでもなく、美代子は言った。

「じゃあ、この文字は読める?」

 熨斗袋の表書きに記された文字を指さして、美代子は聞いた。見たこともない崩れた字体に、夏海は思わず目を細める。

 うわっ、何? この、字のヘタな人が酔っ払って書いたようなグジャグジャな字は。今どき小学生でもこんな字は書かないよ。これ、ホントにおばあちゃんが書いたの?

「……全然読めない」

「このくらい読めなくてどうするのよ」

 美代子はあきれたように笑うと、

「これはねえ、(夏海ちゃんへ)って読むのよ」

「夏海ちゃん……」

 と呟くと、夏海はもう一度トメの字をゆっくりと眺めてみた。あらためて見直してみると、確かに(夏海ちゃんへ)と読めないこともない。しかし、やっぱりこれは読みにくい字だ。

「おばあちゃんって、字がヘタなんだね」

「バカね。こういうのを達筆っていうのよ」

「タッピツ……」

 その言葉なら、書道の授業で聞いたことがある。確か、字がものすごくきれいな人のことだ。ってことは、こういうグジャグジャなのもきれいな字に入るってこと?

「こういう常識を一つずつ身につけていくのが、教養のある女性になるってことなのよ」

 押しつける風でもなく、美代子は言った。しかし、そのすぐあとで照れたように微笑むと、

「まあ、これもおばあちゃんの請け売りなんだけどね」

「何だ、請け売りか」

 美代子につられるように、夏海も微笑んだ。

「マジメに聞いて損した」

「これから、いろんなものに触れて育つのよ。夏海はまだ若いんだから」

 不意に真顔になって、美代子は言った。

「決して、自分の知ってる世界がすべてだと思わないようにね」

「それもおばあちゃんの請け売り?」

「これはお母さんのオリジナルよ」

 美代子は穏やかな微笑を浮かべた。

「美代子さーん!」

 リビングのほうからトメの声が聞こえ、美代子は立ちあがった。

「おばあちゃんが呼んでるみたい。もう少しだけ、良妻賢母を演じなきゃ」

「頑張って、お母さん」

「夏海もしばらくは孝行娘になりきってよね」

「私はいつも親孝行だよ」

「ホントかしらねえ」

 からかいをこめた視線を、美代子は夏海に向けた。

「ほら、早くしないとおばあちゃんが待ってるよ」

「はいはい。まったく、生意気な孝行娘だこと」

 おどけた微笑を残して、美代子は扉を開けた。

「そのお金、大切にするのよ」

 扉を半分ほど閉めかけて、美代子は真剣な表情で言った。

「わかってるよ、お母さん」

 夏海の頷きに、美代子は安心したように微笑んで、ゆっくりと扉を閉めた。

 教養を持つって、どういうことなんだろう。ただ知識だけを深めることとも違うような気もするし、マナーだけにやたらと詳しくなることもちょっと意味が違うだろうし……。

 大人になるのって、ホント難しい。


 携帯電話のアラームが室内に鳴り響く。窓から射し込む真夏の刺々しい陽射しを瞼のあたりに感じながら、夏海はゆっくりと目を開いた。

 もうちょっと寝てたかったのに……心地良い眠りへと誘う睡魔と闘いながら、手さぐりで携帯電話を開く。いつものように新着メールのチェック画面を呼び出そうとするが、依然として電波状態は圏外のまま。

 やっぱりまだ直ってないんだ、ケータイの電波。


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