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東京原人  作者: 夏川龍治
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第四の老婆

 黒革張りの長椅子に深く腰を落ち着けながら、俊雄は唯一とも言うべき平穏なリラックスタイムを楽しんでいた。書斎と言っても、長椅子と木製の机、それに三段づくりの本棚(これがなければ書斎とは呼べない)が窮屈そうにひしめいているだけの部屋なのだが、それでも一家の主としてはこの書斎に並々ならぬこだわりがあるのだった。

(社内に好きな人がいるんです)

 思慮深い哲学者よろしく思案げに瞑目しつつ、俊雄は昼間の香織の言葉をゆっくりと反芻していた。

 前兆はあった。どんなに些細な相談であっても、彼女は必ず私にうち明けるのだ。これは、私との接触をできるだけ増やそうという気持ちの表れではないのか。何気ない相談を持ちかけるうちにいつしか不倫の関係へ……というのもよく聞く話だ。

 それに、彼女は職場以外では私のことを(塚原さん)と呼ぶ。これこそ、私への恋情を言外に託そうというせめてものアピールではないのか。たんなる上司と部下という関係なら、職場以外でも(塚原係長)と呼ぶはずだ。

 以上の考察から導き出される結論は一つである。問題は、結論への対処方法だ。もしも私が独身ならば、何の問題もなく香織の気持ちを受けとめてやれるだろう。しかし、私には家族がいる。そして――ここが一番重要なところだが――私は家族を愛しているのだ。

 しかしながら、香織の気持ちにはきちんとしたかたちで対処する必要がある。ここで一歩間違えば、香織の心は傷つき、これまで円滑に進んでいた仕事上の関係にも影響しかねない。私は一体、どうすればいいのだ。

 まさに、五十にして大いに惑う、である。


 ベッドに仰向けになって、夏海は携帯電話のディスプレイをぼんやりと眺めていた。

 やっぱり、電波はつながらない。電話を小刻みに振ったり、電源ボタンを力強く押してみたり、携帯電話を地面と垂直に立ててみたり……とにかく(ケータイ裏ワザ百科)に載ってるテクニックをいろいろ試してみたけど、それでも電波はつながらなかった。やっぱり、西島先生の言うように、原因が発見されるのを待つしかないのかな。

 電話が使えないと、とにかく不便だ。こずえたちともメールで連絡が取れなくなるし、それに何より授業がタイクツでしょうがない。ケータイがあればこずえとメールで会話をして時間をつぶせるけど、電波がつながらない今はそれもできない。

 それと、もう一つ――たぶんこれが一番不便なことだと思うけど――ケータイが使えないと、守からのメールもこない。当たり前のことだけど、やっぱり寂しい。そういえば、今日は校庭にサッカー部の姿がなかった。放課後はだいたい毎日校庭で練習してるのに。顧問の先生が休みだったかな。ケータイが使えないから練習は休み……なんてことはないよね、まさか。

 守、覚えててくれてるのかしら。私たちが付き合いはじめてもうすぐ一年になるってこと。サッカー部の練習で精一杯で、そっちのほうにまで気がまわらないかもしれない。記念日を忘れられるのはカナシイけど、守に直接聞くのも恥ずかしいし。ううん、どうしたらいいんだろう。ケータイが使えれば、メールでそれとなく探りを入れられるんだけど。

「お父さん、夏海、ちょっと降りてきて」

 リビングから美代子の声が聞こえた。

 おばあちゃんが着いたのかな。チャイムの音はしなかったみたいだけど。

 携帯電話を無意識のうちに手に持って、夏海はベッドから起き上がった。


リビングでは、美代子が不安げな表情で玄関のほうを見つめていた。

「おふくろ、まだこないのか」

 美代子の不安がうつったように、俊雄は眉を寄せた。

 美代子は壁の時計に目をやって、

「やっぱり駅まで迎えに行けばよかったかしら」

「携帯を持ってないからなあ、おふくろは」

「持ってたとしても、今は使えないわよ」

「おばあちゃん……」

 不安になって、夏海は腕組みをした。

 真夏とはいえ、あたりはもう徐々に暗くなりはじめている。あと一時間もすれば、外灯を頼りに歩かなければならなくなるだろう。

「私、そこまで迎えに行くよ」

「待ちなさい、夏海」

 玄関へ行きかける夏海を、美代子が呼びとめた。

「むやみに歩きまわっても、すれ違うだけよ」

「でも……」

 でも、何かしなきゃ――美代子の視線を振り切って、夏海は玄関へと歩いていく。

「事故にでも遭ってなきゃいいけどな」

 俊雄の呟きが、夏海の不安を増幅させる。

 夏海が玄関のドアノブに鍵を差し込もうとしたその瞬間、妙にはずんだ調子でチャイムが鳴った。

「美代子さーん!」

 しわがれた声がドアごしに聞こえる。

 おばあちゃんだ――夏海の全身に張り詰めていた緊張感が一気に緩む。

夏海は玄関を開けた。

「あら、夏海!」

 嬉しそうに目を丸くして、トメは叫んだ。

「待ってたよ、おばあちゃん」

「ようこそ、お義母さん」

「おふくろ、よくきたな」

 三人がそれぞれに歓迎の言葉を口にする。

「うれしいねえ、三人そろってお出迎えなんて」

「長旅でお疲れになったでしょう。奥に入ってゆっくりお休みください」

「先にこれを渡しておこうかな。忘れないうちにね」

 自分に言い聞かせるように言うと、トメは巾着袋から熨斗袋を取り出した。

「これ、夏海の高校の入学祝いだからね」

「おばあちゃん、ありがとう!」

 熨斗袋を両手で抱きしめるように持って、夏海は笑顔を浮かべた。

「そういうお気遣いは結構ですのに」

「こうして構ってやれるのも生きてるうちじゃからね」

 トメは快活に笑って、

「それから、これは三人へのお土産じゃ」

「本当に何から何まで……」

「これは……プチトマト?」

 小首をかしげる夏海に、美代子の冷たい視線が突き刺さる。

「茨城名物のさくらんぼじゃよ」

 愉快そうに笑って、トメは言った。

「どうしてこれがプチトマトなのよ」

「だって似てたんだもん」

 夏海の膨れっ面に、ふたたび温かい笑いが起こる。

「さあ、そろそろ夕飯にしよう。おふくろも腹が減ってるだろう」

 俊雄の号令で、夕食の準備が進められた。普段は食べるほう専門の夏海も、この日ばかりは自分から準備を手伝う。

 テーブルに鍋や野菜が並べられていくのを見て、トメは、

「今日のご飯はすき焼きかい」

「そうだよ、おばあちゃん」

「今日は奮発して高級牛肉を買ってみました」

 おどけたように微笑むと、美代子は冷蔵庫から特売品のシールが貼られていない牛肉のパックを取り出した。

「珍しいじゃん。お母さんが高い肉を買うなんて」

「だって、今日はおばあちゃんの歓迎会ですもの」

「そんなに豪勢にしなくてもよかったんじゃけどねえ」

「何言ってるんだよ、おふくろ」

 手際よくテーブルに食器を並べながら、俊雄は言った。

「遠慮することないって。今日はおふくろが主役なんだから」

 準備が整った。四人が食卓について、夕食が始まる。

「このお肉おいしいね、お母さん」

「当たり前でしょ。いつもの倍くらいの値段だったんだから」

 美代子は誇らしげに、それでいてどこか悔しさを滲ませて、言った。

「こういう豪華な食事もたまにはいいかなと思って買ってきたのよ。今日はおばあちゃんもいらっしゃるしね」

「突然押しかけて悪かったね。何せ、こっちにこようと急に思いたったもんだから」

 美代子はどこかひきつった笑みを浮かべた。

「それはそうと、やけに遅かったじゃないか」

「汽車を一本乗り過ごしてしまったんだよ」

 と言って、トメは呑気に笑った。

「汽車の時間だけはしっかり覚えたつもりなんだけどねえ」

 三人のやりとりを聞きながら、夏海は不思議に思った。

 おばあちゃんは確か、記憶力が自慢だったはずだ。何年か前に茨城の家に泊まった時なんか、デビューしたばかりのアイドルの名前をどんどん覚えて、私やお母さんを驚かせたくらいだもの。それなのに汽車の時間を間違えるなんて、やっぱりおばあちゃんもトシをとったのかな。

「このお肉、すごくおいしいねえ」

 肉を次々に口へと運びながら、トメは言った。

「こんな上等なお肉を食べるのはひさしぶりじゃよ」

「そうですか。奮発した甲斐がありました」

 和やかな雰囲気の中で、食事は進んでいった。トメを中心に、穏やかな笑いの輪が広がっていくようだった。

「そうだ。忘れるところだった」

「何でしょう、お義母さん」

「美代子さん。あんた、家庭菜園が趣味だと言ってたじゃろう。茨城からカイワレ大根の種を持ってきたから、庭で育てておくれ」

「お義母さん、よろしいんですか」

 反射的に笑顔を作りながらも、美代子は素直に喜べない自分に気付いていた。確かに、家庭菜園が趣味だと言ったことはあるが、それはナスやキュウリといった、とにかく主菜になりそうなものを育てたいからで、カイワレ大根のような(食卓の脇役)には意欲が向かないのである。

「カイワレは育てるのが簡単じゃから、家庭菜園には向いているじゃろう」

「よかったじゃないか。おふくろと共通の趣味ができて」

「……そうね」

「カイワレの生長が楽しみじゃ。ハッハッハ」

 美代子の内心にくすぶりかけたささやかな不満も、トメの鷹揚な笑いにかき消されてしまった。

「学校は楽しいかい、夏海」

「うん、楽しいよ!」

 力強く頷いて、夏海はとびきりの笑顔をトメに向けた。

「勉強は頑張ってるかな」

「それは……」

 口ごもると、夏海はうつむいた。

「特に数学が苦手なのよね。何たってこの前のテストで……」

「それは言わない約束でしょ!」

 不満げに唇を尖らせて、夏海は美代子をにらみつけた。

「勉強も大事じゃが、元気なのが一番じゃ」

 トメはうれしそうに目を細めた。

「どのお部屋でお休みになられますか、お義母さん」

 思い出したように、美代子は切り出した。

「私はどこでも構わないんだけどねえ」

 と言ってから、トメは遠慮がちに美代子を見て、

「できれば畳のある部屋に寝かせてもらいたいんじゃが……」

「そりゃあそうだよな」

 美代子が口を開くより先に、俊雄は頷いた。

「やっぱり畳の上で寝たほうが落ち着くよな。よし、だったらおふくろはそこの部屋で寝ればいいよ。他の部屋はみんなフローリングだし、その部屋なら階段を使わなくていいから」

「美代子さんはそれでいいのかい」

「ええ、もちろん」

美代子は笑顔でこたえた。

 夕食も終わりに近づき、鍋もかなり閑散としつつあった。

 トメはすっかり膨れた腹を満足げにさすって、

「ああ、今日はずいぶんなご馳走でした」

「そう言っていただけると、こちらとしても光栄です」

「明日は高級しゃぶしゃぶにしようか。ねえ、お母さん」

「毎日豪華なものばかり食べてると体に毒なのよ、夏海」

 表面では優しく言っておきながら、美代子はテーブルの下で夏海の足を踏みつけた。

「イタッ!」

 ちいさく呻いて、夏海は顔をしかめる。

「そろそろ休んだら、おふくろ」

 壁の時計に目をやって、俊雄は言った。

「おや、もう八時を過ぎてるんだねえ。お言葉に甘えて、そろそろ休ませてもらうとするかね」

 と頷くと、トメはゆっくりと立ちあがった。

「カイワレをちゃんと植えてくださいね、美代子さん」

「もちろんですよ」

 と美代子は微笑んだが、やはりその笑顔もひきつっている。

「さて、そろそろ片付けに入りましょうか」

 はずみをつけるようにパン、と手をたたいて、美代子は言った。

「片付けなら私も手伝おうかね」

 と言って立ちあがりかけるトメに、美代子は首を横に振って、

「お義母さんは畳の部屋でゆっくりお休みください。片付けは夏海たちに手伝わせますから」

「ちょっと、お母さん」

「のんびりしてないで、さっさと手を動かしなさい。片付けは夏海の仕事でしょ」

「まったく……」

 込み上げる不満を呑み込んで、夏海は皿を流し台に運んだ。さりげなく美代子の顔を見ると、いかにも(少しの間の辛抱だから)とでも言いたげにそっと片目をつむってみせた。

 何よ、もう。片付けなんて、一度も手伝ったことないのに。今日のお母さん、何となくよそよそしい。昨日からちょっと神経質になっているのは感じてたけど。そんなにおばあちゃんに対して気をつかうようなことがあるのかしら。お父さんはいつの間にか腕まくりまでして食器を洗ってるし。今さらこっそり自分の部屋に逃げ込むわけにもいかないじゃないの。まあ、いいや。おばあちゃんからお土産をたくさんもらっちゃったし、その分だけはちゃんと働かないと。そうすればまたお小遣いをもらえるかもしれないし。

 大人に付き合うのって、ホント疲れる。


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