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東京原人  作者: 夏川龍治
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平穏な暮らし

「相馬、高田、高橋……ああ、高橋は病欠か」

 いっこうにおさまる気配のない騒々しさの中、担任の荻原が淡々と出欠をとっていく。

「田代、田所、玉置……おい、玉置いるか」

「いるよ、先生!」

 手鏡から視線を動かすことなく、玉置はこたえた。手をあげておきながら、もう片方の手では器用にファンデーションを塗りたくっている。

「いるならちゃんと返事しろよ」

 悲嘆にも似た荻原の呟きも、蜂の巣を突いてさらに木槌で叩きつぶしたような喧騒の中にあっけなく紛れてしまう。もっとも、荻原のほうにしても自分の注意が素直に聞き入れられることなどつゆほども期待していないのだが。

 無秩序という言葉が秩序に縛られた存在であるように思えるほど、教室は雑然としていた。化粧をする生徒、朝食のサンドウィッチを堂々と頬張る生徒、騒がしさを一切関知せずにマンガ本に没頭する生徒……まさに「四十人四十色」といった有様なのである。

「千葉、塚田、塚原……塚原、いないのか」

 荻原は儀礼的に教室を見まわし、そして呆れたように、

「あいつは今日も遅刻か」

 と溜息を吐いた。

「ええと、塚本は遅刻で……」

「塚本はここにいます!」

 という必死の叫び声とほぼ同時に、教室の引き戸が開いた。

「次の人の名前を呼んでないから、まだセーフですよね」

 自信たっぷりに言うと、夏海は子犬のように舌の先をちらりとのぞかせた。意外なほどに可愛らしい夏海のその表情に荻原はわずかに相好を崩しかけたが、すぐに教師の顔に戻って、

「あのなあ、塚本。今月に入ってからもう八日間連続で遅刻してるんだぞ。今日を遅刻にカウントすれば九日目だ。少しは自分をコントロールして、一日でも遅刻を減らすように努力したらどうなんだ。そんな子供だましの屁理屈を考えるヒマがあったら……」

「先生のおっしゃることはよくわかります。私も、先生のお叱りやご注意をもっとゆっくりお聞きしたい。でも、その前に……」

「その前に、なんだ」

 得意の講釈が遮られたことに戸惑ったのか、虚を突かれたように荻原は問いかけた。クラス中の視線が夏海に集中する。

 大げさなほど苦しげに顔をしかめて、夏海は言った。

「その前に、トイレ行かせてください」


 時計の秒針が動く音だけが、教室に響いていた。

「……従って、このxとyは反比例の関係にあり……」

 数学教師の笹本が黒板に数式を黙々と記していく。

 室内は、沈黙すらも居心地を悪くするほどの静寂に包まれていた。といって、生徒たちが笹本の説明を真剣に傾聴しているわけではない。ほとんどの生徒が、携帯電話をいじることに全神経を集中しているのである。その結果生じた静寂であるから、当然疎外感を受けるのは笹本のほうであった。

「この関数をグラフにすると……」

 無関心という最大の凶器を背後に感じながら、それでも笹本は淡々と授業を続けていた。教師生活三ヶ月とあって、生徒との距離のとり方が今ひとつつかめずにいるのだった。

 まだガチガチに緊張してるじゃん、笹本先生。

 机に頬づえをついて笹本の背中を眺めながら、夏海は微笑んでいた。それは、母親が足元の覚束ない幼児の歩く姿を優しく見守っているかのような、余裕に満ちた微笑だった。

 教師になってもう三ヶ月目なんだから、いい加減授業に慣れなきゃ。何だかわからないけどいつもオドオドしてるんだよね、あの人。ああ、また声が裏返っちゃった。あれじゃあ生徒たちにナメられるわ。学年一の優等生で通ってる湯沢君だって、心の中ではあの人のことバカにしてるよ、きっと。そういえば、湯沢君っていまだにケータイ持ってないんだっけ。まあ、どうでもいいけど。

 夏海の意識を現実に引き戻すかのように、夏海の携帯電話が震えた。笹本の視線を気にすることもなく、夏海は携帯電話を開く。

 あっ、梢からメールがきた。っていうか、梢、今私の斜め後ろの席にいるじゃん。わかるなあ。授業中に、しかもこんな近い距離でメールを送りたくなる感覚。

(今日、一緒にお昼を食べない?)

 やっぱりお昼の誘いだったか。そんなことだったら、わざわざメールしないで口で伝えろなんて思うのはアタマがカタイ証拠。どんな細かいことでもメールで伝え合うのが親友の証なんだから。

(もちろん! いつものテラスで一緒に食べよう)

 よし、これでOK。やっぱり便利だよね、メールって。でもホントは、いちいちメールで確認しなくても毎日同じ場所で一緒にお昼を食べてるんだけど。

 送信ボタンを押して、夏海は梢の席を振り返った。梢はしばらく携帯電話の画面に視線を落としていたが、やがて電話の着信ランプが点灯すると、安心したように夏海に微笑みかけた。

 何とも言えないのよねえ、この快感。秘密を共有してるって言うとちょっとオーバーだけど、それに近い感覚ではある。

 満足感を覚えて、夏海は教壇に視線を戻した。しかし、そこに笹本の姿はない。

 あれ? いつの間にか授業が終わってる。しかも、黒板もきれいに消してあるし。まあ、いいや。あの人の話を聞いてなくても、ノートさえあればテストはちゃんと……。あら、ノートに何も書いてない。まあいいか。あとで梢に借りればいいんだし。


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