父と娘
淡いオレンジ色に染めあげられたアスファルトの上に、二つの人影が並んでいた。影は微妙な距離を保ちながら、夕陽に背をむけるように淡々と歩いていく。
「夕陽がきれいだなあ、夏海」
遠慮がちに、俊雄は言った。しばらく間があって、夏海は読んでいた少女マンガからわずかに視線を上げると、
「何か言った?」
と突っ慳貪に返した。
「いや、何でもない」
内心に一抹の寂しさがよぎるのを感じながら、俊雄は呟いた。夏海は何も言わずに、マンガに視線を戻す。
いつまで続くのよ、この退屈な時間は。今さらお父さんとしゃべる気分にもなれないし、かといってケータイをいじるわけにもいかないし。仕方なくたまたまカバンに入ってたマンガを読むふりをしてごまかしたけど、それでもすっごくタイクツ。まあ、それもそうか。このマンガは私の一番のお気に入りで、ページのあちこちに手アカがつくくらいに何度も読んで、ラストもわかってるんだから。
ああ、もう。今すぐ全力ダッシュで家まで帰りたい。でも、体育の時間に持久走でちょっと頑張っちゃったせいで、太ももが筋肉痛なのよね。これじゃあ全力ダッシュどころか、スキップもできないよ。こんなことなら、体育の時間サボればよかったな。
アスファルトに落ちていた小石に、俊雄はつまずいた。そのはずみで、目を通していた書類の束が路上に散らばる。
「あっ!」
いささか大げさなまでに俊雄は叫んで、書類を一枚ずつ拾いはじめた。
「夏海も手伝ってくれないか」
わずかな期待とともに俊雄は夏海に視線をむけたが、夏海は無表情のまま、淡々と歩き去った。やっぱり駄目か……諦観まじりの嘆息を洩らして、俊雄は書類を集めていく。
一体いつまで続くのだろう。この妙にギクシャクした親子関係は。十年前の夏海なら、今だって喜んで書類を拾ってくれたはずだ。本当に、あの頃の夏海は可愛くて、素直だった。それなのに、今は……。
嫌われているというわけでは、決してない。話しかければ一応返事らしきものは返ってくるわけだし、何よりも同じ家に住んでいるということが親子の証ではないか。
しかし、何かが足りないのだ。同じ家に住み、同じものを食べていてもなお、どこか物足りないものが残るのだ。子供はいつか育つ。そんなことは、わかっている。だが、頭ではわかっていても心が理解できないことが人生にはあるのだ……。
よし、書類を全部集めたぞ。これで夏海とゆっくり話を……。
あれ、夏海がいない。ちょっとくらい待っててくれてもいいだろうに。
これが、親子というものだろうか。
「ただいま」
夏海がドアを開けると、美代子がキッチンで何やらせわしなく夕食の準備をしていた。
「お帰りなさい。あら、お父さんは?」
「知らない。あとからくるんじゃないの」
と、夏海は素っ気なくこたえると、通学鞄をリビングのソファに放り投げた。
ダイニングテーブルには、スーパーの袋に入った牛肉と白菜、それにしらたきが置かれていた。きっと今さっき買ってきたのだろう。
「今日はすき焼き? やけに豪華じゃん」
「お昼に、おばあちゃんから電話があったのよ」
冷蔵庫に材料を詰め込みながら、美代子は言った。
「夕方にはこっちに着くそうだから、早くご飯の準備をしないと」
「っていうか、もう夕方だよ」
「だから急いでるんじゃないの」
苛立たしげに眉間に皺を寄せて、美代子はキッチンに立っている夏海を押しのけた。
「ぼうっと突っ立ってないで、あんたも少しは手伝いなさいよ」
「でも……」
「デモもストライキもないの!」
美代子のあまりの剣幕に、夏海は半ば強引に詰め込み作業を手伝うことになった。
玄関のドアが開いて、俊雄が帰ってきた。額には大粒の汗をかいて、肩で荒い呼吸をしている。
「どうしたの、お父さん」
材料を詰め込む手を休めることなく、美代子は言った。
「いや、何でもない」
乱れる呼吸を整えながら、俊雄は首を振って、
「今日はすき焼きか。妙に豪勢だな」
「お義母さん、夕方にはこっちに着くって」
「そうか、夕方か」
と頷くと、俊雄は壁の時計に目をやって、
「もう夕方じゃないか」
「だから、もうすぐ着くはずなんだけど」
「おふくろのことだから、どこかで寄り道でもしてるんじゃないのか」
俊雄は呑気に笑った。
「じゃあ、俺はしばらく書斎で休んでるから」
と言い置くと、俊雄は二階に上がった。
「私も自分の部屋に行こうかな」
「ちょっと待ちなさいよ」
リビングを出ようとする夏海の背中に、美代子は不機嫌な声を投げかけた。
「まだ全部入れてないじゃないの」
「半分くらい手伝ったんだからいいじゃん」
「そういう問題じゃないでしょ。手伝うなら最後まで……」
「私は忙しいの!」
苛立たしげにそう叫ぶと、夏海は刺々しい気配を残して階段を駆け上がっていった。
「まったく、ちっとも言うことを聞かないんだから」
材料を詰め込む作業を続けながら、美代子はため息をついた。そして、思い出したように壁の時計に目をやると、ちいさく不安げに呟いたのだった。
「それにしても遅いわね、お義母さん」