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東京原人  作者: 夏川龍治
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誘惑

 午前の仕事を片付けて、俊雄は行きつけの定食屋で昼食をとっていた。味はそれなりだが会社の近くなので、昼休みにはこの店で手早く食事を済ませるのが数年前からの日課になっていた。

「開いてますか」

 引き戸が開いて、若い女性の声が聞こえた。こんな古びた店に女性がくるとは珍しい。

「相席、よろしいですか」

 俊雄の座っている席まで近づいて、彼女は言った。

「いや、ちょっと……」

 俊雄は怪訝そうに言った。空席は他にもたくさんあるのになぜ――疑問を胸に顔を上げると、声の主は香織であった。

「小野寺君……」

「こんなところにいらしたんですね、塚原さん」

 香織は微笑むと、俊雄の向かいの席に腰を下ろした。

「毎日ここでお昼を召し上がってるんですか」

「うん、まあね」

「オフィスにはいらっしゃらないみたいだったから、この近くで落ち着いて食事ができるところと言ったらここかなと思って」

「昼休みはだいたいここにいるよ」

 俊雄はそうこたえて、水を一口流し込んだ。

「実は私、係長に相談があるんです」

 定食を注文しておいてから、香織は切り出した。

「相談?」

 にわかに真剣味を帯びる香織の口調に、さんまの身をほぐす俊雄の手がとまる。

「ご迷惑……ですか?」

「いや、そんなことはないよ」

 と、俊雄は即座にこたえた。

「部下から相談を受けるなんて、むしろ上司として喜ばしいくらいだよ」

「良かった、係長が温かい人で」

 香織は安心したように微笑んだ。

「それで、どういう相談なのかな」

「実は、社内に好きな人がいるんです」

 おずおずと、香織は言った。

 俊雄は思わず、啜っていた味噌汁を吹きだしそうになった。仕事上の相談ならともかく、恋愛の悩みというのは俊雄にとって最も無縁な領域であった。

「社内というより、同じオフィスの中なんですけど……」

 香織はそう言って、誘うような視線を俊雄に向けた。いや、少なくとも俊雄にはそう見えた。

 もしや、香織は俺を誘惑しているのではなかろうか。無難な恋愛相談に見せかけて、徐々に相手に自分の気持ちを伝えていくというのが高校生の間で広まっているらしい。

「となると、社内恋愛というわけか」

 つとめて冷静に、俊雄は呟いた。

「やっぱりダメですよね、社内恋愛なんて」

 自嘲気味に呟くと、香織は運ばれてきた定食に箸をつけた。

「そんなことはないさ」

 幾分焦ったように、俊雄は言った。

「今どき社内恋愛を禁止する会社なんて、それこそ時代遅れだよ」

 香織はすっかり感じ入ったように、

「進歩的なお考えなんですね、塚原さんって。ほんと、女性の味方って感じ」

「そんな大げさなものでもないけどね」

 と言いながらも、俊雄は自尊心が刺激されるのをはっきりと感じていた。時折向けられる香織の蠱惑的な視線が、忘れかけていた男としての本能をじわじわと解放していく。

「すぐにでも気持ちを伝えたほうがいいと思いますか」

「それはまだ早いんじゃないかな」

 かすかに声を上ずらせて、俊雄は言った。不自然なまでに喉が渇いているのは、味噌汁の塩分がきついせいだろうか。

「こういうことは、相手の気持ちを確かめたうえでも遅くはないと思うよ。そのほうがお互いに傷つかないと思うし」

「そうですよね」

 俊雄の言葉を内心で咀嚼するように、香織は頷いた。

「やっぱり頼れる上司ですよ、塚原さんは」

 香織の屈託のない笑顔に、俊雄の頬も自然に弛緩してしまう。

「ちなみに、その人は塚原さんもよく知ってる人ですよ」

 悪戯っぽく言う香織に、俊雄はふたたび食事の手をとめた。

 もしかしたら、これは香織からの婉曲的な挑発なのかもしれない。あえて回りくどい言い方をしておきながら、こちらの動きを冷静に見定める。それは、冷酷な小悪魔の企みのようでもあり、清廉な淑女の精一杯の配慮のようでもあった。

「優しくて、頼りがいがあって、ちょっと間抜けなところもあるけど、でもすっごく素敵な人で……」

 うっとりと語る香織を、俊雄は無意識のうちにじっと見つめていた。その純粋な、それでいてどこか挑発的でもある彼女の視線に、自分もいつしか理性を失ってしまうのだろうか。そうなったら、美代子や夏海との絆はたちまちのうちに崩壊してしまうだろう。

 あるいは、それでもいいのかもしれない。たとえほんの一瞬でも、香織との魅惑的な時間が過ごせるのなら、一切の理性を失ってしまっても……。

 いや、駄目だ。そんなことをしたら、家族の絆どころか、人生そのものが破綻してしまう。第一、部下の女性と個人的に親密な関係を結ぶなど、上司として恥ずべき行為である。俺は一体、何を考えているのだ。

「あら、もう昼休みが終わっちゃう。一足お先にオフィスに戻りますね」

 腕時計にちらっと目をやって、香織は言った。いつの間にか、香織の定食の皿はほとんど空になっている。

「ここの支払いは僕がもつから」

 まだ半分以上残っている味噌汁を急いで胃袋に流し込んで、俊雄は言った。香織は軽い微笑とともに頭を振って、

「ここは私がお支払いします。相談に乗っていただいたお礼に」

「それは申し訳ないよ。部下から食事をご馳走になるなんて、上司として情けない」

「いや、それは……」

「小野寺君、本当に……」

 財布から二人分の代金を出そうとする香織を、俊雄は手で制した。

 ほんの一瞬、二人の手が重なり合った。

「あっ、すまない」

 そう呟いて、俊雄は反射的に手を離した。香織の手の温もりが指先から脳の中枢部分へと伝わる。

「じゃあ、今日は割り勘ということで」

 わずかにおとずれた気まずい沈黙を振り払うように、香織は微笑んだ。心なしか、香織の頬が上気しているように見える。

「本当に、ありがとうございました」

 会計を終えて店を出た後、香織は深々と頭を下げた。ただ悩みを聞いただけなのに大げさな……俊雄は内心で苦笑しながらも、香織の一点の打算もない律儀さに、封印したはずの淡い恋情らしきものが込み上げるのを感じていた。


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