確執
昼食を簡単に済ませて、美代子は午後の休息を楽しんでいた。正確に言えば、楽しもうとしていた。(ケータイ騒動)のことが気がかりで、せっかくの休息時間も心から休めないのである。
ほぼ五分刻みで携帯電話の電波をチェックしてみるものの、依然として圏外のまま。ニュースを見ても、相変わらず専門家たちの根拠のない憶測が飛び交うばかりで、ちっとも参考にならない。
一体、どうなってるのよ。専門家たちも口をそろえて(原因はわからない)と言うだけで、ちっとも頼りにならないじゃないの。
それに、何よ。あの、学校をサボって出てきたような下品な女子高生タレントは。根拠のない迷信を軽々しく発表されても迷惑なのよね。電話を地面に垂直に立ててみたけど、全然効果がないじゃないの。
ニュースの情報はまるで統一性に欠けたいい加減なものであったが、ただ一つはっきりしているのは、今、日本中で携帯電話が使えなくなっているということである。ということは、夏海や俊雄の電話も通信不能の状態にあるのだ。俊雄はめったに携帯電話を使わないからともかく、夏海のほうは今回のことで相当なショックを受けているはずだ。何しろ、自他ともに認める(ケータイ依存症)である。携帯電話はお守りがわりだと公言してはばからないのだ。もしかしたらパニックになっているのではないか、勉強意欲をまったくなくしているのではないか(それはもともとではあるが)などと、心配の種は尽きないのだった。
しかし、誰よりも困っているのは、何と言っても美代子自身である。主婦仲間からのスーパーの安売り情報に関するメールが届かないというのは、家計をあずかる身として死活問題なのだ。
美代子の不安などまるで関知しないように、呑気に電話が鳴った。
「もしもし、塚原ですが」
「私じゃよ、美代子さん」
電話の声はトメのものだった。録画した大河ドラマでも観ているのだろうか。声のうしろで戦国武将が刀を交えるような仰々しい音が聞こえている。
「あら、お義母様。どうなさったのですか」
心なしか背筋を伸ばして、美代子は言った。決して不仲というわけではないのだが、トメとの会話はどうも緊張してしまう。
「今日からそっちでお世話になることは、俊雄から聞いておるじゃろう」
「ええ、伺っております」
「今からこっちを出るから、夕方頃にはそっちに着くじゃろう」
「今回も電車でこられるのですか」
「そのつもりじゃよ。長旅には汽車が一番じゃからな」
と言って、トメはカラカラと笑った。
「でしたら、東京駅に着いたらお電話ください。私たちが駅まで迎えに行きますから」
「それは駄目じゃ!」
「お義母様?」
美代子は困惑した。トメは確かに矍鑠としているが、いきなり声を荒げるような人ではない。何か気に障ることでも言ったのだろうか。
しばらく間があって、
「ああ、すまなかったね。こっちのドラマが盛り上がってきて、私もつい力が入ってしまったのじゃよ」
また始まった、と美代子は思った。まったく関係のない方向に話がそれてしまうのは、トメのいつもの癖だ。
沈黙がおとずれた。きっと、電話中であることを忘れてドラマに夢中になっているのだろう。
「あの、お義母様」
「ああ、そうじゃった。まだ電話中だったね。それで、何の話をしてたのかな」
「私たちが駅までお迎えに行くというお話です」
「そのことなら結構じゃよ、美代子さん。心配してくれるのはありがたいが、私はまだまだ若いんだ。自分一人でも充分歩けますよ」
「そうですか。でも……」
「年寄りを見くびってもらっちゃ困るよ、美代子さん」
と凄んでみせたかと思うと、すぐにトメは楽しそうに笑った。
「今から出発すれば汽車にも間に合うじゃろう。汽車にだけは何があっても乗り遅れたらいかんな。田舎の汽車は一時間に一本しかこないんだから」
自分に言い聞かせるようにトメは言うと、そのあとで(一時十五分、一時十五分)と念仏のように繰り返した。どうやら汽車の発車時刻らしい。
「おいしい茨城土産を持って行くから楽しみにしててちょうだいな。それと、夏海には高校の入学祝いをやらないといかんね」
「そんなにしてくださらなくても……」
遠慮ではなく、美代子は本当に恐縮していた。こっちからはほとんどお返しすらできないのに一方的に厚意を受けても、かえって気を遣うだけなのである。
「とにかく、夕方にはそっちに着くから。その頃には俊雄たちも……」
中途半端な語尾を置き去りにして、トメの言葉が途切れた。ドラマがクライマックスに入ったのだろう。武士たちの刀がぶつかる激しい音が受話器ごしにも伝わってくる。
「あっ、そうじゃった」
というトメの短い呟きの後、あっけなく電話は切れた。
お義母様、大丈夫かしら――美代子は、不安になった。いくら好きなドラマに熱中していたとはいえ、自分からかけた電話を切り忘れるような人が、一人で東京まで出てこられるのだろうか。
これからのトメとの暮らしの窮屈さを暗示しているようで、美代子はちいさくため息をついた。