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東京原人  作者: 夏川龍治
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暗雲

「係長、ちょっとよろしいですか」

 書類の処理を続ける俊雄に、香織がそっと声をかけた。

「奥のデスクで部長がお呼びなのですが……」

 香織の遠慮がちな口調に、俊雄の内心に鈍い予感が忍び寄る。

「わかった、ありがとう」

 みじかく返事をして、俊雄は立ちあがった。

 いつになく、井上は険しい顔をしていた。虚空の一点を睨みつけて、思案げに腕組みをしている。

「お呼びでしょうか、部長」

 俊雄の言葉に、井上は途方に暮れたようにため息をついて、

「例のプロジェクトだけどねえ」

「はあ……」

 いやな予感がした。井上の険しい表情といい、香織のどこか遠慮がちな口調といい、少なくとも俊雄にとって朗報ではないということは容易に推察できた。

「あれ、中止になったよ」

 予感は、鈍い戦慄に変わった。全身の血液が急速に冷却されていくような虚脱感が、俊雄ににじり寄る。

「正確に言えば一時凍結というかたちなのだが……ほぼ中止になったと考えたほうがいいだろう。ショックだろうが、まあ我慢してくれ」

 と言って、井上は一切の苦渋を吐きだすかのように深く息を吐いた。

 井上がただ事務的に今回の一件を伝えているのではないことは、俊雄にもよくわかっていた。それは井上の浅黒い顔に浮かんだ苦悩の色からも、またこれまでの仕事上の付き合いからも充分に想像可能であった。

 だからこそ、辛いのだ。何の私情も交えることなく事務的に通達されたなら、俊雄もこれほど心痛にとらわれることはなかっただろう。

「この埋め合わせはあとで必ずする。来年度の人事異動で君に有利なポストが用意されるように、僕から上層部に図っておくよ」

「ご配慮、ありがとうございます」

 俊雄は深く頭を下げた。

「仕事中にすまなかったな。もうデスクに戻ってかまわないよ」

「では、失礼します」

 俊雄はもう一度、今度は事務的に一礼して、井上に背をむけて歩きだした。

 あのプロジェクトは、常務の肝いりで案出されたものだ。そのプロジェクトの指導者に抜擢されるということは、会社組織の人間として認められたことを意味する。それに、収入などの面でも少なからず良い影響があるだろう。そんな現実的な算段が、俊雄にはあった。

 しかし、その希望的観測が一気に崩壊しようとしているのだ。あるいは、もうすでに崩れ去っているのかもしれない。

「大丈夫ですか、係長」

 デスクに戻ると、香織が気遣わしげに声をかけてきた。

「プロジェクトのことで、部長に何か言われたんですか」

「うん、ちょっとね」

 俊雄は曖昧な微笑を浮かべた。

「今回のプロジェクトは、一時凍結になったよ」

 報告はもう少し先にのばしたかったのだが、香織もプロジェクトのメンバーなのだ。それに、この種の事柄はいつまでも隠し通せるものでもない。

「そんな……」

 香織の艶やかな目元に、さっと陰鬱な淀みが走る。

「まあ、君はまだ若いんだ。このプロジェクトがなくなったとしても、チャンスはまだまだたくさんあるさ」

 安心させるように、俊雄は言った。

「本当に、大丈夫ですか」

「ああ。こう見えても、仕事にかけては君たちよりもずっとベテランなんだ。この程度のハプニングくらい、何度も経験してるさ」

 俊雄はあえておどけてみせたが、あとに残ったのは苦い虚しさだけだった。

「それを聞いて少し安心しました。でも、あんまり無理しないでくださいね。塚原係長は私たちの頼れる上司なんですから」

「ありがとう、小野寺君」

 無意識のうちに、俊雄は微笑んでいた。

「大丈夫ですよ、係長。プロジェクトが潰れても、クビにはなりませんから」

 いつの間にデスクに戻ったのか、中里が本気とも冗談ともつかない口調で言った。

「ああ、ありがとう」

 と俊雄は言って、そして苦笑した。多すぎるコーヒーブレイクを注意する気には、どうしてもなれなかった。


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