戸惑い
「x+6y=8という一次方程式のグラフは……」
硬質な静寂を背中に受けながら、笹本はいつになく熱心に数式を黒板に記していた。チョークと黒板の触れ合う音が室内に小気味よく響く。
「この等式を一次関数のグラフで表すと……」
淀みなく、笹本は黒板にグラフを書いていく。このあたりで少し解説に入ろうかと思い、笹本は振り向き、そしてかすかに肩を落とした。
教室全体が、無法地帯と化していた。ほとんどの生徒が携帯電話と無言の睨み合いをつづけ、授業に参加しているのはただ一人――学校屈指の秀才、湯沢勉だけであった。黒板とノートの間に視線を往復させ、まさに機械的な勢いで黒板の数式をノートにうつしている。
「みんな、携帯電話に夢中なんだね」
「朝からずっとこの調子ですよ。携帯電話の電波を何とか復活させようと、みんな必死みたいです。他にやるべきことがあるだろうに、まったくいい気なもんだ」
「湯沢君……」
「大丈夫ですよ。僕らの言葉なんか、こいつらの耳には届きません」
人間味の一切感じ取れない湯沢の冷笑に、笹本の背筋に寒気が走った。チョークを持つ手がかすかに震える。
「君は大丈夫なのかい」
「ぼくは携帯電話を持っていませんから」
ここで初めて、湯沢は顔を上げた。よく磨かれた銀縁眼鏡のレンズに、窓からの陽射しが鋭角に反射する。ノートには、すでに黒板の文字が一文字違わず完璧に転記されていた。
「授業を進めませんか、先生」
眼鏡のツルをわずかに持ち上げて、湯沢は言った。いかにも無意味な雑談に関わり合っている余裕はないんだと言いたげに、そして、さらなる獲物を与えろと貪欲に催促するかのように……。
「ああ、そうだね」
一抹の寂寥感を抱きながら、笹本はふたたびチョークを握った。
「西島先生はいらっしゃいますか!」
「西島先生に会わせてください!」
「今、すっごい緊急事態なんです!」
「もう、うるさい!」
職員室前の廊下は、女子生徒たちの甲高い嬌声で埋めつくされていた。校内一のイケメン理科教師である西島圭介に携帯騒動の原因を聞こうと、授業の合間のわずかな時間を利用して職員室に押しかけているのである。
「もうすぐ授業だろ。こんなところで遊んでないで、さっさと教室に戻れ!」
女子生徒の大群に押し潰されそうになりながら、生徒指導の北川は言った。押し寄せる女子生徒たちを是が非でも職員室に入れさせまいと、地肌がかなり露出した頭頂部まで朱色に染めている。
「西島先生にご相談があるんです」
「西島先生は今お忙しいんだ。理科に関して何か相談があるなら俺に言え。俺も一応は理科教師なんだから」
自分で一応とつけてしまうところが、北川のわかりやすいところなのである。
「西島先生じゃなきゃダメなんです!」
威勢よく訴える夏海に、その他の女子生徒も同調する。だが、(西島先生のほうがイケメンだから)とは、さすがの夏海も口に出せないのだった。
「早く西島先生を出してください!」
「だから、先生は今お忙しくて……」
夏海たちの圧力に屈したのか、北川は温泉マークにも似たそのハゲ頭をかきむしった。
女子生徒の怒声のすき間を縫うように、軽快で滑らかな靴音が近づいてきた。
靴音のする方向に、夏海は素早く顔をむけて、
「あっ、西島先生!」
「おやおや、可憐な美少女たちがおそろいで。一体僕に何の用かな」
「西島先生、こいつらにあまり関わり合わないほうが……」
「ご心配は感謝いたします、北川先生。ですが、生徒をこいつらと呼ぶのは感心しませんねえ」
「さすが西島先生!」
女子生徒から歓声があがる。
「知りませんよ、私は」
自分がないがしろにされたことが不満なのか、北川は不機嫌にそう言い残して職員室に入っていった。
「実は私たち、西島先生に相談があるんです」
さきほどの威勢はどこへやら、緊張した表情で夏海は切り出した。
「ほう、相談か。生徒から相談を受けるのは教師として望外の喜びだ」
と、西島は大げさなほどに頷いてみせて、
「それで、どんな相談なんだい」
「ケータイが使えなくなった事件についてなんですが……」
「その件なら、僕も関心を寄せていたよ。何しろ、ある日突然携帯電話の電波がつながらなくなるというのは、科学的にも非常に興味深いことだからね」
「そうですよね、やっぱり」
西島が自分たちの相談に対して否定的ではないとわかって、夏海は安心したように頬を緩めた。その他の女子たちも、西島の一言一句を聞き逃すまいと必死に耳をそばだてている。
「しかし、一連の現象が人為的に起こされたのだと証明されていない以上、事件ではなく事故と言ったほうが適切だろう。いずれにしても、君たちが今、大変な混乱に巻き込まれているということには変わりないだろうがね」
と言って、西島は静かに微笑んだ。時折見せるこのクールな微笑が西島の人気の一因であった。
「携帯騒動の原因は何ですか」
夏海の問いかけに、西島は深く考え込むように切れ長の眉をよせて、
「それは僕にもわからないよ。電話会社の通信システム異常か、あるいは誰かがイタズラで電波の干渉現象を誘発しているか、今のところ考えられるのはこの二つだね。いずれにしても、詳しい原因がわからないうちにむやみに騒ぎたてるのは、かえって混乱を招くだけだよ」
「さすが西島先生。冷静でカッコイイ!」
当たり前のことをごく普通に言っているだけなのだが、世の中にはこういう特殊な運をもった人間も少数ながら存在するのである。
そして、そうした「強運な」人間の陰には、その何倍も不運な人間もいるわけで……。
「用件はもう済んだだろ。ここにいられても迷惑だから、さっさと教室に戻れ!」
「言われなくても戻りますよ!」
「そんなに怒鳴らなくても……」
今にもかみつきそうな夏海たちの勢いに、北川は情けないほどに委縮していた。あたり前のことを言っていても周囲(特に女子生徒)から反発を買う運命を、彼は背負っているのだった。
「西島先生、ありがとうございました」
と、夏海は西島にむかって丁寧に一礼した。それにならうように、他の女子生徒たちも神妙に頭を下げる。
「普段は教えてもちゃんとやらんくせに」
卒業式でも見せたことのないような丁重なお辞儀に、北川はちいさく毒づいてみせた。
「では、失礼します」
敵意のこもった一瞥を北川に浴びせて、夏海たちは教室へと戻っていった。
「どういうつもりなのでしょうね、まったく」
北川は苛立たしげに腕組みをして、憤慨の色を帯びた呟きを洩らした。そして、西島に同意を求めるように視線を投げかけたが、西島のほうはいたって呑気に整った鼻をひくつかせながら、
「ああ、麗しき少女たちの香水よ。何と芳しい香りなのだろう!」
などと言っている。
「俺だって一応理科教師なのになあ」
女子生徒の芳香の余韻に浸っている西島を横目で睨みながら、北川はうらめしそうに呟いた。