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東京原人  作者: 夏川龍治
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波紋(2)

 会社に着いたのは、出社時刻の二十分前だった。こうして毎日定刻よりも早めに出社するのは、山積した業務を少しでも片付けておきたいという、会社員としての本能とも言うべき意識がはたらくせいでもあるのだが、もう一つ理由があった。

 俊雄の予想通り、オフィスにはもう、香織の姿があった。仕事への熱意をうかがわせる表情でパソコンに向かい、淡々とキーボードを叩いている。

「おはようございます、係長」

 パソコンのディスプレイから視線を上げて、香織は微笑んだ。すべてを受容するようなこの微笑を目にしただけで、不必要な早起きや駅から会社までの意味もない小走りが一瞬にして報われる。

「今日もお早いんですね」

「君こそ、毎日僕より先に出社しているじゃないか」

「私は仕事が遅いですから。他の人より早く始めないと片付かなくて」

「そんなことないさ。君の仕事ぶりは部長も高く評価してると思うよ」

 さして内容のない、しかし確実に心の栄養補給になる会話を楽しみながら、俊雄は自分のデスクについた。

 壁の時計は、八時十五分を指していた。

 俊雄は空席になっている中里のデスクに目をやって、

「あいつ、今日もぎりぎりにくるつもりだな」

 苛立ったようにそう呟くのが、いつしか朝の習慣になっていた。

「そういうところだけは几帳面なんだから」

 中里の小生意気な顔を思い浮かべると、どうしても仏頂面になってしまう。

「さあ、今日も始めるか」

 パソコンのスイッチに指をのばしかけて、俊雄はあることを思い出した。

 そうだ。昨夜のメールのことを、まだ香織に謝っていないではないか。今朝起きてからオフィスに入るまでずっとそのことを考えていたというのに、なぜ謝るのを忘れるのだ。これは上司として、いや、男として致命的な失態だ。香織はきっと、昨日は一晩中上司からのメールを待って一睡もできなかったに違いない。にもかかわらず、彼女は今、何事もなかったかのように仕事にうちこんでいるのだ。ああ、何と健気で可憐な姿なのだろう!

「あの……私の顔に何かついてますか」

 気がつくと、俊雄の視線は香織に固定されていた。戸惑いがちな香織の表情にふと気恥ずかしくなり、俊雄はわざとらしく咳払いをした。

「実は、小野寺君に謝りたいことがあるんだ」

 不自然なまでにあらたまった俊雄の口調に、香織の顔も緊張する。

「せっかくアドレスを教えてもらったのに、メールを送れなくて、本当にすまなかった」

 オフィスの空気が張り詰めた。しかし、それも一瞬のことだった。

「いいんですよ、そのことなら」

 香織の寛容かつアンニュイな微笑に、俊雄の内心の緊張も一気にほぐれる。

「係長はニュースをご覧になっていらっしゃらないんですか」

「ニュース?」

 鸚鵡返しに問い返す俊雄に、香織はやっぱりな、という風に微笑んで、

「実は今、日本中で携帯電話が使えなくなってるんですよ」

「えっ……日本中で?」

「ええ。その証拠に……」

 香織は立ちあがると、携帯電話を片手に俊雄のデスクへと歩いてきた。

「ほら」

 香織が見せたのは、携帯電話の待受画面だった。

「圏外になってるでしょう」

 と、香織は画面上隅の電波表示を指し示した。

「なるほどね」

 ぽつりと、俊雄は呟いた。確かに、地下室にいるわけでも、鋼鉄製の壁に囲まれた密室にいるわけでもないのに電波が通じないというのは、やはり何かおかしい。

「係長の電話もそうなんですか」

「うん、実はね……」

 曖昧に頷くと、俊雄は上着のポケットから携帯電話を取り出し、開いてみせた。

 香織は俊雄に顔を寄せるようにして、携帯電話の画面をのぞきこんだ。香織の全身からたちのぼるほのかな芳香が俊雄の鼻腔を刺激する。

「やっぱり圏外になってますね」

 軽く頷くと、香織は自分のデスクに戻った。香織の芳香の余韻が俊雄を優しく包み込む。

「ケイタイが使えないといろいろ不便ですよね」

「ああ、そうだな」

 反射的にそう呟いてはみたものの、携帯電話が使えないことによってどのような不便さがあるのか、俊雄にはイメージできなかった。仕事上のやりとりは会社のパソコンのEメールで事足りるし(Eメールという言葉も、俊雄は二年前に初めて知った)、プライベートで携帯電話を使う機会も、ほとんどない。

 しかし一つだけ、不利益が思い浮かんだ。携帯電話の電波がつながらないということは、当然、香織とのメールもできないということだ。それは、俊雄にとって、由々しき問題であった。せっかくつかみかけたはずの部下との交流の糸口が消えてしまうではないか。

「逆に良かったのかもしれませんね、ケイタイが使えなくなって」

「どうして?」

「塚原さんと直接お話しする機会が増えるから」

 と言って、照れたように香織は笑った。

「やっぱり、相談事は面と向かって話すのが一番ですもんね」

 不用意に感情を吐露してしまった自分を恥じるかのように、香織は言った。

 何事もなかったかのようにキータイプを再開する香織を、俊雄は健気だと思った。それは、上司としての事務的な評価などではなく、人間として、いや、男としての、きわめて個人的な感情であった。美代子にもかつて、こんな感情を抱いていたのだろうか……。

 俊雄の内心にわずかによぎった郷愁を、惰性的な靴音があっけなくうち砕いた。

「おはようございます」

 オフィスに入った中里は、いつになく緊張した表情をしていた。

「係長、大変ですよ」

「どうした」

「昨日の夜から、日本全体でケータイの電波が……」

「そのことなら小野寺君から聞いたよ」

 中里の話を遮るように、俊雄は手を振った。

「今、日本中で携帯電話の通話やメール機能が使えないって話だろ」

「そうですが……」

 話を途中で遮られたことが気に障ったのか、中里は不満げに呟いて自分のデスクに着いた。

「ケータイが使えないと不便ですよね。仕事の面でも、プライベートな面でも」

「そんなものかね」

 突き放したように言うと、俊雄はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「みんな、真面目に仕事をしてるじゃないか」

 ベテランらしい落ち着いた靴音を響かせて、井上が入ってきた。

「塚原君、ちょっといいか」

「はい、何でしょうか」

 反射的に、俊雄は立ちあがった。その種の反射神経は、古老社員の域に入った今でも衰えていない。

「朝のニュース、見たか」

「ええ、携帯電話が使えなくなったっていう……」

「困ったことになったな」

 と、井上は眉根を寄せて、苦渋に満ちた嘆息を洩らした。

「……と、言いますと?」

「君に任せた新プロジェクトのことだよ。あれは、ケイタイが使えないことにはどうにもならんだろう」

 ここで初めて、俊雄は自分の置かれた状況に気がついた。新プロジェクトというのは、女子高生やOLたちの商品に対する要望を携帯電話上のホームページ(ケータイサイトと呼ぶらしい)でアンケートによって集計し、その意見を新商品の開発に役立てるというもので、要するに携帯電話が使えなければどうしようもない類のプロジェクトなのである。

「まあ、まずはケイタイ騒動の成り行きを見てからだな。明日になったら電波が復旧するかもしれんし」

 安心させるように、井上は微笑んでみせた。しかし、まだ一抹の不安が残るのか、井上は俊雄にしか聞こえない程度に声をひそめて、

「しかし、どんな状況にももしもというのはつねにあり得る。その時は、君も覚悟してくれよ」

 と言い置いてオフィスを出ていった。

「もしもの時、か……」

 脱力感にとらわれて、俊雄は崩れるように椅子に腰を下ろした。

 井上が何を示唆しているかということは、会社人間として、俊雄にもよくわかっていた。しかし、今の段階において、俊雄はそのことについて深く考えたくはなかった。いったんそのことについて思案をめぐらせてしまうと、思考がとめどなく悲観的な方向に流れていってしまいそうで、俊雄はこわかったのである。

「大丈夫ですよ、係長」

 暗く沈みつつある俊雄の意識に、香織の遠慮がちな慰めがほのかな光をともす。

「きっと明日には元に戻りますって」

「ありがとう、小野寺君」

 ごく自然に、俊雄は微笑んでいた。

香織の言う通りだ。闇雲に悲観的になっても仕方がない。新プロジェクトのことは、しばらく考えないでおこう。

 すぐに、結果は出るのだから。


 朝の炊事や洗濯を終えて、美代子はリビングでのんびりコーヒーを飲んでいた。一連の家事から解放されてたった一人でコーヒーブレイクを楽しむのが、美代子の貴重な日課になっていた。

 しかし、今日は一ヶ所だけ、いつもと違うところがあった。美代子の手に、携帯電話が握られているのである。

「つながらないわねえ」

 と言って、美代子は唇を尖らせた。

「やっぱりダメなのかしら」

 などと呟きながら、携帯電話を左右に振ってみる。しかし、いくら激しく振ってみたところで、いっこうに電波が復活する気配はなく、液晶画面の残像が眼にちらつくだけだった。

 テレビのワイドショーは、携帯騒動のニュースで持ちきりだった。スーツをきっちり着込んだアナウンサーが深刻そうな表情で騒動の概要を伝えている。

「ケータイが使えないと、マジ困りますよねえ」

 最近売りだしたばかりの、女子高生を中心に人気のある女性タレントが、特徴のある間延びした口調で言った。あまりにも周囲を意識していないだらけた物言いに、美代子は眉根を寄せる。

 何なのよ、あの子は。まるで友達に話しかけるような口調で喋ってるじゃない。もしかして、スタジオを学校の教室か何かと勘違いしてるんじゃないかしら。こういう子でも簡単にテレビに出られるんだから、時代は変わったものね。

 しかし、彼女の不躾な態度を一方的に嘆いてばかりもいられないのだった。携帯電話が使えずに困るのは美代子も同じなのだ。わずかな希望を託してもう一度携帯電話を振ってみるが、それでも電波は圏外のまま。

 一体どうなっちゃったのかしら。テレビでも騒動の原因はわからないって言ってるし、もうどうしたらいいの! このままじゃ、近所の奥さんからスーパーの安売り情報が届かないじゃないの……。

 そういえば、夏海はどうしてるのかしら。携帯が使えなくて困ってるんじゃないかしら。あの子、一日中電話を手放さないから、今頃きっとパニックになってるわ。あの子にとって、携帯は(お守り)なのかもしれないわね。

 ため息まじりに、美代子はコーヒーを啜った。

 やけに、苦い味がした。


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