波紋(1)
朝の慌ただしさが漂うリビングに、制服姿の夏海が必死の形相で駆け下りてくる。
キッチンでは、美代子がせわしない様子で朝食の支度をしていた。そのスキをうかがうように、夏海はダイニングテーブルの上に置かれたトーストを素早くかじった。
「何やってるのよ。まったく、はしたないんだから」
どこに目がついているのか、美代子が夏海をたしなめる。
「だって忙しいんだもん!」
「それはあんたが寝坊するから悪いんでしょ。……そんなことより、いま世の中で大変なことが起こってるらしいわよ」
「大変なのはこっちよ! 今、授業に間に合うかどうかの瀬戸際なんだから」
二人の会話に割り込むようにトイレの扉が開いて、中から俊雄が出てきた。携帯電話を片手に、なぜか何度も首をかしげている。
「パン焼けましたよ、お父さん」
「ああ」
美代子の言葉にも生返事で、俊雄は携帯電話の画面を不思議そうに見つめている。
珍しいわね、お父さんがトイレで新聞を読まないなんて。しかも、そのかわりにケータイを熱心にいじってるし。そういえば昨日の夜、メールの送り方をやけにしつこく聞いてきたから、ひょっとしたらよっぽど急ぎのメールだったのかな。まあ、いいや。お父さんの仕事の都合なんて、私には関係ないし。あれっ……メール?
あっ、しまった。梢にメール送るの忘れてた。そのために昨日寝てる間にバッチリ充電しといたっていうのに。ああっ、慌てて起きたから朝のメールチェックも忘れてるじゃないの!
「あっ、もうこんな時間だ」
独り言のように呟くと、夏海はブレザーのシワをのばし、玄関へと歩いていった。
「ニュースの説明がまだ終わってないわよ」
「そのことなら帰ってからゆっくり聞くから」
上体を後ろに反らせるようにして叫ぶと、夏海は玄関を出ていった。
開け放たれたままの扉にむかって、美代子は叫んだ。
「ケイタイが使えなくなったんだってよ!」
教室は、いつになく無秩序にざわめいているようだった。クラスメイトたち(半分以上は女子)のとりとめもない嬌声が扉ごしに聞こえてくる。
夏海が引き戸を開けると、そのざわめきが夏海の耳へと一気に襲いかかってきた。まさに、雑音のサラウンド状態である。
「ねえねえ、夏海!」
ざわめきのすき間から、梢の興奮した声が聞こえてきた。
「朝のニュース、見た?」
「えっ、何のこと?」
「ウッソー! まだ見てないの?」
キョトンとする夏海に、梢は大げさなほどに目を丸くしてみせた。
「昨日の夜からあんなに騒いでるのに」
夏海は、不思議だった。昨日あれほど激しいケンカをしたのに、梢は今、何事もなかったかのように喋っている。本当に昨日のことを忘れているのか、あるいは忘れたふりをしているのか、夏海は不思議だった。
「ねえ夏海、聞いてるの?」
「う、うん」
やはり昨日のことがひっかかり、返事もついぎこちなくなってしまう。
「それで、何があったの?」
「だから、ケータイの電波がつながらなくなっちゃったのよ」
「ああ、そうなの……って、ええっ!」
遅ればせながら、夏海は目を丸くした。電話が使えなくなるというのは、確かに一大事だ。
「アラーム機能とか計算機能とかは平気なんだけど、電話とメールだけが使えないのよ。っていうか、今ごろ気付いたの?」
「……うん」
曖昧に頷きながら、夏海は今朝起きてから今までのことをゆっくりと思い起こしていた。
今日も寝坊しちゃって、学校に遅れないようにってあせってたから、朝からケータイをいじる時間がなかったんだ。そういえば、お母さんが何かしつこく言ってたっけ。もしかしたらそれって、ケータイが使えなくなったっていうニュースだったのかもしれない。
「それって、みんなのケータイが使えなくなったってこと?」
「そうじゃないのかなあ、たぶん」
自信がなさそうにこたえると、梢はポシェットから自分の携帯電話を取り出した。
「ウチのケータイは、昨日の夜からずっとこれだもん」
梢は恨めしそうに、携帯電話の待受画面を夏海に見せた。梢にはいささか不釣り合いかと思われるグロテスクなガイコツのマンガ……はともかくとして、確かに画面隅の電波表示は圏外になっていた。地下にある音楽室や視聴覚室ならともかく、普通の教室で電波が圏外になるのは、ちょっと変だ。
「夏海も、自分のケータイを確かめてみなよ」
「ああ、はい」
梢に促されるままに、夏海は自分のケータイを取り出して、開いてみた。昨日の充電のおかげで電池残量ゲージはマックスになっていたが、やはり電波は圏外であった。わずかな希望を託してケータイを窓の外にかざしてみても、やはり圏外の表示が消えることはなかった。
あらためて周囲を見まわしてみると、電波の復活を願いながら電話を何度も振ってみる生徒、友人と一緒に解決策を懸命に探る生徒、対抗手段が何一つ浮かばず、ただひたすら不満をぶつける生徒……まさに統一感のない惨状が繰り広げられていた。そして今、自分もその混乱の輪の中に巻き込まれているのだ。
その混乱の渦の中で、ただ一人、喧騒には一切加わろうとせず、我関せずといった態度を崩さない生徒がいた。学校一の秀才、湯沢勉である。クラスの中、いや、学校の中で唯一携帯電話を所持していない彼は、周囲の雑音を完璧に遮断しているかのごとき達観した表情で黙々と参考書に目を通しているのだった。まるでそれが、優等生に課せられた当然の義務であるかのように。
教室の引き戸が開いて、荻原が入ってきた。
「おいおい。何の騒ぎなんだ、これは」
普段以上に雑然とした教室を、荻原は呆れたように見まわした。
「出欠をとるから返事しろよ」
ざわめきの収束をはかる努力すら見せずに、荻原は出席簿を開いて出欠をとりはじめた。だが、誰一人として返事をする生徒はいない。
「安倍、安藤、石橋……」
名前を呼ぶ声すらも、教室全体を支配する無秩序な喧騒の中にあっけなくかき消されてしまう。
荻原の怒りは、頂点に達した。
「いい加減にしろ!」
渾身の力で怒鳴り、教卓まで思いきり叩いてみたが、いっこうに雑音が静まる気配はない。
「おい、少しは静かにしろよ!」
「そんなこと言ったって、今、緊急事態なんですよ」
携帯電話を片手でせわしなく操作しながら、梢は言った。
「緊急事態?」
「ケータイの電波が届かないんです」
「そうよ、そうよ!」
梢の言葉に勢いを得たのか、教室にいる女子全員が荻原に詰め寄る。
女子たちの熱気に気圧されそうになりながらも、荻原は叫んだ。
「届かないのは俺の指示だ!」