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東京原人  作者: 夏川龍治
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第一話

博士は、笑っていた。

 あやしげな実験機器がところせましと並べられた研究室で、博士は一人、不気味にほくそ笑んでいた。

「グフフ。ついに……ついに……!」

 達成感の中にも若干の疲労が入り混じったかすれた呟きを洩らしながら、博士は机の上に置かれた、手足が異常に長い蛇の怪物のようなオブジェを愛おしげに撫でまわした。

「これさえあれば、私の計画は無事に達成される」

 博士の頭脳は、ある種の狂気を感じさせるほど明敏に覚醒していた。数日間も徹夜が続いているというのに、いっこうに睡魔のおとずれる気配がない。睡眠欲求のかわりに博士の神経を支配しているのは、欲望の充足の予兆に支えられた、きわめて幼児的な充実感であった。

「これで、計画は成功だ!」

 と、博士は叫んだ。

「これでようやく、私の苦労が報われる……」

 博士の口から、自然に解放感に満ちた笑みがこぼれる。そして、それは次第に閉鎖的な空間に身を置いた者特有の陰湿さを帯びた高笑いに変わっていくのだった。

 邪悪な興奮にうち震える博士を、研究室の扉の陰から静かに見つめる助手の姿があった。扉の隙間から博士へとまっすぐに注がれたその視線は、どこか冷淡でもあり、それでいてかすかな憐憫を含んでいるようでもあった。

 諦観を帯びた嘆息を洩らすと、助手はかすかに頭を振ってその場を立ち去った。


 ケータイのアラームが室内に鳴り響く。

「もうちょっと寝てたいのに……」

 まだ半分夢の中に浸っているような口調で呟きながら、塚原夏海はゆっくりと目を覚ました。

 ほとんど活動状態に入っていない頭のまま手さぐりで枕もとのケータイを掴み、指の感覚だけでアラーム停止のボタンを押す。瞬間的に、部屋が静かになる。

 ケータイを使いはじめて半年。やっと指の感覚だけでアラームをとめられるようになった。最近では短いメールなら画面を見ずに数秒で打てるようにまで進歩した。ケータイ歴三年の梢なんか、ケータイを操作する相手の指の動きを見ただけでメールの内容がわかってしまうらしい。

 頭が目覚めてきたところで、夏海はケータイを開いた。夜中に届いたメールをチェックするところから、夏海の一日は始まる。

 梢からテスト関連のメールが一通と、その他に最近アドレスを交換したばかりのクラスメイトから何通かあいさつのメールが届いていた。新着メールだけで、メールの受信画面がいっぱいになってしまう。けれど、一番送ってほしい相手――守からのメールが届いていない。寂しいわけではないけれど、心のどこかに穴があいているような気がする。

 メールチェックを終えて、初めて時間を確認する。しまった、もう八時五分前だ。急いで支度をしないと学校に遅れちゃう。

 手際よく制服に着替えて、夏海はリビングに降りた。

 

リビングでは、美代子が朝食の支度をしていた。ダイニングのテーブルに置かれた白い皿には少し焦げ目のきついトーストが乗っている。ちょうどいいや。朝ごはんのかわりにこれをちょっとかじっていこう。

「朝ごはんなら、ちゃんと座って食べなさいよ」

 トーストを片手にせわしなく前髪を撫でつける夏海を、美代子がサラダを盛りつける手を休めることなくたしなめる。

「のんびり食べてると遅刻しちゃうんだもん」

「それはあんたがいつも寝坊するからでしょ」

 反抗期真っ只中の夏海も、美代子の指摘には返す言葉もない。

「せめて果物の一つでも食べていきなさいよ」

「そんなことより、今はトイレが先なの!」

「トイレならお父さんが使ってるわよ」

 わずかに内股加減になりながらトイレへと急ぐ夏海に、美代子が声をかける。

「お父さん、会社に行ったんじゃないの」

「今日は何だか、遅い出社でもいいらしいのよ」

 二人の会話にこたえるように、トイレのドアが開いた。

「民自党もとうとう終わりか」

 と呟いて、朝刊を広げた俊雄が大きなあくびをした。

「何だ、夏海。また遅刻寸前じゃないのか」

 からかうように俊雄は言うと、折り畳んだ朝刊を夏海のほうに投げた。ダイニングテーブルの上に無造作に投げ捨てられた朝刊を見て、夏海は顔をしかめた。

 トイレで朝刊を読まないでほしいって、何度言えばわかるのよ。手で持つ部分が中途半端に湿って気持ち悪いんだから。まあ、朝刊はどうせテレビ欄しか見ないから、まだ我慢できる。でも、お父さんのあとにトイレに入るのは、絶対にカンベン。だって、お父さんのあとにトイレに入ったらオヤジ臭さまでうつっちゃいそうなんだもん。

「トイレ空いたわよ、夏海」

「ううん、もういいの」

「トイレ行きたいんじゃなかったの」

「学校でするからいい」

「トイレを我慢すると体に悪いぞ」

 お父さんのせいでトイレに入れなくなったのに、何をのんきなこと言ってるのよ。

「あんまりのんびりしてると学校に遅れるわよ」

「あっ、そうだった!」

「ひさしぶりに駅までお父さんと一緒に歩こうか」

「ダメだよ。待ってたら本当に遅刻しちゃうもん」

「あとはネクタイを締めるだけだからすぐに支度できるぞ」

「とにかくダメなの!」

 耳たぶまで真っ赤にして抵抗する夏海に、美代子は静かに苦笑して、

「いいじゃないの。親子で歩くのもたまにはいいものよ」

「もう、お母さんまで!」

「ほら、夏海。もうネクタイ締めたぞ」

「勝負あったわね、夏海」

 もう、どうしてこうなるのよ。少しでもお父さんと離れていたいのに。まあ、いいか。駅に着くまでずっとケータイをいじってれば喋らなくてすむし。

 夏海は諦めたように、玄関で靴を履いた。


 丁字路の分岐点で、俊雄は立ちどまった。

 ああ、やっとここまできた。ずっとメールをいじってたから意外にあっという間だったな。早くお父さんとわかれて、学校に急がなきゃ。

「夏海」

 自分とは反対方向に歩いて行く夏海に、俊雄は呼びかけた。

 ケータイを手に持ったまま、夏海は振り返る。

「気をつけて行くんだぞ」

 何よ、それ。そんなありきたりなことを言うために呼びとめないでよ。

「うん」

 夏海の不機嫌な呟きは、ケータイの味気ない電子音にかき消された。

 えっ、本当にたったこれだけ? めずらしくマジメな顔をして呼びとめたから、何か大事なことを言うのかと思ったら、そんなありきたりな会話で終わり? こんな平凡なセリフ、今どきテレビのホームドラマでも出てこないよ。しかも、お父さんのネクタイ、何だかカワイソウなくらいに曲がっちゃってるし。朝着替える時に気付かなかったのかな。あんなネクタイじゃあ、会社の部長さんとかにも印象悪いだろうに。まあ、いいや。お父さんが会社でどう思われようと、私には関係ないし。

「じゃあ、行ってくるよ」

 言外にかすかな寛容さを滲ませて、俊雄は言った。夏海は言葉を返すこともなく、俊雄に背をむけて淡々と歩いていく。

 ああ、もう。ホント、時間がもったいない。こっちはもう、ありえないくらいにピンチなんだからね。学校に着いたらまず梢に昨日のドラマの感想を報告して、それから守に朝のメールを送って、時間が余ったら授業の準備をして……。

その前に、まずトイレ行かなきゃ。


 初めての連載です。

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