その11・私、少し優しくなるのこと
元大神官が食中毒でお亡くなりになって早数カ月、私の日常はとても平穏だった。話しかけてくる者なんていないから静かでゆったりとした時間が過ぎている。
「――ああ、静かって素晴らしい。元大神官は残念だったけど」
「勝手に殺さないでくれませんかねェ……。私はもうピンシャンしております」
「うん、君が不死鳥のように蘇ってくれたおかげで私の前は大盛況だよ」
(元)大神官の奇跡的な快復のおかげで、聖霊岩の前に行けば病気が治るなんて話が広まってしまった。間違いじゃないんだが、こうも連日押し掛けられるととても迷惑だ。主に私の精神安定上に於いて。今日は私が休館日だとこの男に煩く主張したおかげで静かだが、昨日までの私は何かしらの病に悩んでいるらしい貴族の大行列の目的地と化していた。
「良いではないですか、神様なのでしょう? 民の平穏を配り歩くのは望みどおりでしょうに」
「神だと自称した覚えは全くないのだけどね。ついでに私を神だと言いだしたのはあの大神官だよ」
何故か茶飲み友達――私は飲めないからただひたすら元大神官が飲んでいる姿を見るだけなんだが――となった元大神官の視線を無視してあらぬ方向を見つめる。なんと言えば良いのだろう……リヒト以外に話し相手が出来たことを喜ぶべきなのかもしれない。でもこんな腹の中にどす黒いものを持った老人と楽しい会話をしたいとは全く望んでいなかったのだけれど。
「神殿の権威を上げたかったのでしょうねェ。聖霊様と呼ぶより神様と呼ぶ方が偉そうですから」
「中身は一ミリたりとも変わってないんだけどなぁ」
お情けというか、『一応』私の前に置かれているカップには冷え切った紅茶もどきが静かな水面を見せている。クッキーは元大神官が減らすばかりで私の口には一枚も入ってない。
「人間は形や名前を大事にするんですよ」
「そうだね」
良いじゃないか、名前がフーミンでもゲロシャブでも。名前なんてただの記号さ、私の名前何だったかな。
「そう言えば聖霊様のお名前はなんとおっしゃるんです?」
「何だったかな……」
呼ばれることなんてないし、名乗ることもなかったし。覚えてる方が難しいと思うんだよ。
「おや。お忘れになられた、ということですか」
元大神官は目を丸くした。そりゃそうかも知れない。普通、自分の名前を忘れるなんてこと記憶喪失でもない限りないだろうし。
「うん、この姿になってもうウン百年だからな……呼ばれることがなかったもんだからいつの間にか忘れてしまったよ」
百年くらいならまだ覚えていた――かもしれない。自信がないからどうとも言えないけれど、数十年で自分の名前を忘れるほどじゃない。と思いたい。
「そうですか。……ではセイ様とお呼びしましょうかねェ」
「話題の飛翔が激しいのは老化かね? 今まで通り聖霊様と呼んでれば良いじゃない」
「いえ、聖霊様とわざわざ言うのが面倒で」
「このジジイ……」
元大神官はいけしゃあしゃあとそう言って笑んだ。元大神官の皺だらけの顔に老人らしい愛嬌があると思っていたのは私の一方通行な愛情だったらしい。
「まあ良いよ。聖霊様とでもセイ様とでも、好きに呼べば良いさ」
「そう致しますよ」
外の明るさとは違い微妙に薄暗い廟の中、宙に浮いた私と椅子に座った元大神官は長年の友人のように話した。まあ私からすれば元大神官は六十年以上見守ってきた相手であり、元大神官からすれば私は三十年ほど見つめてきた相手だ。会話などその数十年の間に一言たりともなかったが。
よくよく考えてみれば私も元大神官も互いの名前を知らない。私は名前を忘れたし元大神官は名乗ってない。だがそれで良いように思える。知らなくても問題ない。
「そう言えば。元大神官が食中毒で倒れた時に大神官が手の皮をすり減らす様にして祈っていたな」
残り少ない髪の気が更に切なくなるんじゃないかと思うくらい熱心に祈っていた。傍目に見て物凄く哀れだった。前代に大神官の地位を横から掻っ攫われたことを恨んで月夜ばかりと思うなよアタックをしかけたあの男だが、考え直してみれば欲望に忠実で分りやすいことこの上ないと言えなくもない。実はあの男はあの男で神経性胃炎を持病に持ってて頻繁に赤い液体吐いてることも知ってるし、ストレスのせいで肥満気味なのも知っている。ちょっと闇討ちしたことを除けば可愛げのある奴なのだ。まあアレを可愛がろうと言う気は起きないが。
「まあ、巣立ったとはいえ師弟でしたし、今私に死なれると一番困るのが彼ですからねェ」
元大神官は首を傾げながらそう言いだした。
「王宮も一部の者達が好き勝手しているせいで乱れていますし、国王陛下もまだ幼くそれを纏められるだけの力がありません。外祖父である右大臣が必死に王位を守ろうと奔走していますがいつまで体力がもつやら」
私の中での外祖父ってのは藤原家の傀儡政権だったんだが、ここでは微妙に違うようだ。――と言うより前提が異なっている。王位が盤石じゃないものだから、外祖父として権威を振うことが難しいのだ。先代が側室を五人も十人も取ったせいで熾烈な政争が起きており、隙を狙う王位継承権保持者達(と言うよりその母親たち)が虎視眈々と王位簒奪をもくろんでいるという。滅多な政策を打ち出してみろ、すぐに国王の外祖父として得た地位を失くすというバッドエンドが口を開いて待っている。それも、今代は側室の子供なのだとか……知らなかった。正室にも息子がいるらしいんだけどその息子はまだ四歳、三年前に王位についた今代国王は今八歳。巻き返したい正室、このまま地位を守りたい側室――国王に冠被せるのは大神官の役目で、大神官はあっちからチクチク、こっちからもチクチクという針の筵にいるのだとか。ストレスで生え際が後退するくらいならさっさと引退するという手もあるのだが、自分でその地位を強奪したものだから引くに引けないという悲しい状況。ついでに言えば次の大神官になれるような器もいない。
「自業自得か」
「ですねェ」
前代ならどうにか出来たかもしれん。少なくとも現大神官よりは人徳に溢れた人だったから。彼なら心優しく野望を持たない人たちの手助けを得られただろうし、お貴族様たちを黙らせるのも楽だったのじゃないかね。今代は――その腹の中に抱える物が灰色なくせに見え見えすぎる。今代よりもこの隣で茶を啜っている男の方が腹黒でいやらしい絡め手を使うと言うのに、今代は可哀想なくらい悪徳神官に見えるというのだから哀れとしか言いようがない。性根が正直なんだろう、生来の気質はそう変えられるものじゃないからなぁ。それがどうしてああなったのやら……環境か?
「助けてやってくれと言わないのか」
あれでもこの男の弟子の一人ではある。先代の方が才能に溢れ性格も良かったことは確かだけれど、二番弟子と言っても良い相手のはずなのだ。
「私の手から離れた大人をどうしてこちらからわざわざ助けてやる必要があるのです? もう部下でもないのに、そう甘えられましてもねェ」
「なるほど」
冷たいと言うと聞こえは悪いが、割り切っているんだろう。大変ならば助けを求めれば良い――必要なら頭を下げろと言うことか。
「ああ、君。お茶のお代わりをお願いしても良いかな?」
急須を傾けても一滴しか出ず、元大神官は子供と一緒に遊んでいた下級神官に手を振って命じた。可哀想に、真っ青な顔して走って行ったじゃないか。
「可哀想なことしてやるなよ」
「暇そうでしたからねェ。立っているものは親でも使えと言いますし」
優しそうな顔してその実こんな性格なんだから、今代の大神官は哀れとしか言いようがない。男色も幼児性愛も神殿では良くあることだ。少しばかり奴を毛嫌いしすぎたかも知れないな。
「ちょっとあれのところに顕現してあげようかね」
「おや、どう言った心境の変化ですか?」
「いや……あれはあれで苦労していると考えると不憫に思えて」
変態なんてこの神殿には腐るほどいるじゃないか。無邪気な子供に性的な悪戯を仕掛ける奴なんて両手じゃ足りない。――魔力保持者の教育を名目にして男児女児を集めてみたらロリコンショタコンに目覚める者が続出したとか、今さっき子供と遊んでいた下級神官も実はロリコンで顔つきがあらぬ世界へ逝っていたとかどうでも良いじゃないか。ちょっと同性愛者かつショタコンで腹に一物隠しきれないうっかり八兵衛なだけのあいつだけをどうして嫌えよう。
「私が降臨したとか言えば箔が付くだろうしね」
「セイ様はお優しいですねェ」
「いや、そう優しくもないよ」
「いや、優しいですよ」
ちょっと視野が広くなっただけなんだが。
「おおお、お茶をお持ちしましたァ!!」
ロリコ――じゃなかった、下級神官がよほど慌てたんだろう、真っ赤な顔をして駆けてきた。凄いことにお湯が零れてない。自慢にならないだろうけどお茶くみのプロになれるな……。
「ああ、有難う」
「いえいえいえいえ!」
ブルンバルンと首を振る下級神官を余所目にその場を離れる。さて――大神官の部屋ってどこだったっけ。