その9・私、懐かしい顔と会うのこと
うざいばかりだったリヒトだが、やはりいるのといないのでは違うというものだ。この一年半で私はリヒトに引きずられてしまったのか、慣れたと思っていたはずの『会話相手のいない生活』に物足りなさを感じていた。確かこれを人は寂しいというのだったか。頭のどこかでリヒトが来ないかと期待してしまっていることに顔をしかめる。リヒトはもうここに来ないだろうか。もし来たら……
「リヒト兄ちゃん、ニホンゴ教えて――!!」
「よし、僕が教えてあげよう!!」
――いや、やっぱりリヒトなどいらんな。
ちびっこたちの求めに応じ、私の収容された廟の前にある広場でリヒトによる日本語講座が行われる。なんと言えば良いのだろう、リヒトの言葉が押し付けがましく偉そうだ。私の教えを受けたという贔屓の結果だと考えると後悔するばかりだが、ああ育ったのは本人の元々の性根もあるからそこまで私が気に病むこともないだろう。それにリヒトはまだ十二歳なのだ、有頂天になってしまうのはしかたない。
リヒトは嬉々として年下の子供たちに教え始め、年上の子供たちは自分より年少のリヒトに訊きに行くのは自尊心が許さないのか遠巻きに見るばかりだ。さっさと聞け、聞くは一時の恥聞かぬは一緒の恥というだろうが。だがまあ、気持ちが分らんでもない。あのむかつく餓鬼に頭を下げるのはかなり嫌だ。
「あの餓鬼がもうちょっと頭良ければ良かったんだが……」
「子供とは総じてそういうものですよ」
「いや、昔はもっとましだった――ん?」
今代の大神官は前代の大神官を謀殺した、あんまり私の気に入らない奴だからあいつの前では私は絶対に出ない。リヒトが大神官に手を引かれてやってきた時だって岩の中に隠れてさっさと帰れと念じていたくらい嫌いだ。前代と前々代は良かった。良かったんだ。
「大神官……?」
そして、私の背後に立っていたのはその前々代の大神官、無類の果物好きだった面白い奴だった。――死んだとばっかり思っていたんだが。生きていたのか。
「お久しぶりですねェ、十年ぶりでしょうか」
この男、魔獣クンたちが現れ始めた時の王、なんたらくんたら王とかいう奴の幼馴染だ。目の奥底には達観に似た諦めが宿り、口元はどうにでもなれと言わんばかりの苦笑が浮かんでいるのがこの男の大きな特徴で、昔はピチピチの青年だったが、当然ながら今はしわくちゃの老人。さっさと死ねとは言わないがとっくに死んだものだとばかり思っていた。この時代には珍しい――というよりはありえない、八十路(くらい)の怪物だ。
「何で私が見えるの」
「いつの間にか、そうですねェ、ざっと三十年ほど前からでしょうか? どうしてでしょうねェ」
聖霊様のお力が宿ったものを食べ続けたからでしょうかねェ、とか言いながら禿頭を掻く怪物――名前忘れた――はそういえば、私へのお供え物だった果物を毎日食っていた。
「またあの味が食べたくなりましてねェ、いえ、ただの果物の酸っぱさに嫌になりまして」
これからまたよろしくお願いしますねと微笑む怪物、否、元大神官は、ギラギラとした目で私の前に供えられている果物を見ている。捕食者の目とはこういうのを言うんだろう。
「……持ってく?」
「ええ、もちろん」
と、元大神官の後ろから若い青年の呼ぶ声がし、そっちを見やれば見慣れない顔に首を傾げる。神官服を着ているが、私の前で神官の誓いを行っていないはずだからまだ神官服を着ては駄目なのではなかっただろうか。足音がしっかりしているし、軍人かもしれない。
「ハウル」
どうやら若い神官もどきの名前はハウルというらしい。脳内検索にしゃべる火の玉が出てきたけど、ホラーものでハウルなんてキャラがいたんだろうか。よく思い出せない。
「ここにいらっしゃったんですね、探しましたよ。ご老体なのですから付き人を撒かないで下さいと何度も申し上げますのに……」
「まだ私は若いですよ、君と同じくらい若いんですから」
「まさか! 長老様はもう八十六歳でいらっしゃるでしょう!?」
日本人の平均寿命もそれくらいじゃなかったか? 現代日本人と同じくらい生きるとは――この時代では本当に怪物でしかないぞ。この爺さんが大神官をしているうちに三回国王が変わったし、そしてついこないだも傀儡政権だろうとしか思えない五歳児の国王が立ったばかりだ。まああの餓鬼も、私が見る限り今までの王族と同じく人の話を聞かない天才ならぬ天災なんだが。
「ふふふ、聖霊様のご加護のおかげですよ」
「え、え……」
「それにしても、私が旅に出ている間に神殿は変わりましたねェ」
周囲をグルリと見回し『全国津々浦々果物を巡る旅なんて出ない方が良かったかもしれません』とかうそぶく元大神官に、こいつはそんなことのために大神官の仕事を止めたのかと頭が痛くなった。私のせいなのか?
「ところでハウル、その格好は一体何ですか? 君は私の護衛役であって神官見習いではないはずですが」
神官服を着ることのできる条件として、私の前でお決まりの誓い文句を唱えそれを守ることを宣誓する必要がある。私としては勝手にやってろとしか言いようがないが、神殿関係者からすれば見逃せないことらしい。
「あ、これは大神官殿が神殿にいる間はこれを着用せよと仰られたので。軍服はやはり神殿内では異質なんでしょうか」
「そんなことはありません。例えとしては不適当ですが、かの王はご存命の時、魔獣退治から着替えぬまま聖霊岩に会いによく来られていましたから」
血のにおいをぷんぷんさせながら『何故顕現して下さらぬのか、聖霊様!!』とか睨みつけながら言われたからなぁ……あれと会話するのは嫌だったし、それに血の匂いが濃くて近寄りたくなかった。岩の中に引っ込んで、そう言えばこれリアル天の岩戸だなとか考えていた覚えがある。流石に五十年近く前のことだからもうあんまり覚えてないが。
「神官の誓いをしておらぬ者に着せるほど神官服は安いものではないのですがねェ……あの馬鹿、おっと口がすべりました――大神官殿は何をしていらっしゃるのやら」
「これってそんなに金かかってるんですか?」
「ここにも種類の違う馬鹿がいたのでした……さて、ハウル。大神官殿の元へ案内してください。いえ、先に行って私が向かっていることを伝えてくれますか?」
元大神官は前から思っていたが口が悪い。王族のほとんど全員は人の話を聞かない嫌なスルースキル保持者だから、この男がさらりと毒を吐いてもそのまま流していた。耳聡いというか王族の中ではマシな奴等(人の話を聞かないのが王としての資質だとでも思われているのか、そういう人間は王になれず臣下に下っていく。物凄く残念)はこの元大神官の言葉に目を剥いたり肩を震わせたりしていたが、ほとんどは自分に良いように解釈してスルーしていた。こんな王族で良かったねと言うべきなのか彼を王族がこんな人間にしたと同情するべきなのか分らない。
「はいっ!」
元大神官の言葉を聞き流したのか聞き逃したのか、ハウルはビシリと敬礼した。長い袖が勢い良く振られて顔に当たり、彼の頭の残念さをとても悲しく思わせる。軍人らしくガツガツと歩く様子はなんだか微笑ましいが、脳みそまで筋肉に侵されていることを考えるとハンカチ一枚では足りない。
「では頂いて行きますね」
「あー、うん。面倒事は起こさないように」
元大神官は返事を待たずに果物の入った籠を取り上げ、私の言葉に意味深にニヤリと笑むと怪しい笑い声を上げながら去って行った。
「なんか、何か起こりそうな予感がする……」
そして、その予感は当たるのだ。