普通の恋愛
蓮は、二十三歳だった。
子どもの頃、家に帰っても誰もいなかった。
母親は眠っているか、どこかへ消えていた。
父親は、いるのかいないのかもわからなかった。
腹が減れば、自分で何かを探して食べた。
熱が出ても、布団の中で朝を待った。
泣いても、誰も来なかった。
だから蓮は、早いうちに覚えた。
人は、自分のことを自分で守るもの。
期待しなければ、失望もしない。
それが蓮の普通だった。
紬は、二十二歳だった。
彼女の家にも、怒鳴り声があった。
誰かが帰ってこない夜もあった。
抱きしめられるより、置いていかれることのほうが多かった。
それでも紬は、誰かを好きになることを諦めなかった。
好きと言うこと。
好きと言われること。
帰る場所があること。
そういうものが、どんなものなのか知りたかった。
蓮を好きになったときも、迷わなかった。
ある夜。
紬の部屋で、二人はコンビニの弁当を食べていた。
テレビでは恋愛ドラマが流れている。
画面の中の男女が喧嘩をして、泣いて、最後には抱きしめ合っていた。
紬が画面を見ながら言った。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「私のこと、好き?」
蓮の箸が止まった。
少し考えてから、
「……わからない」
と答えた。
紬が眉を寄せる。
「じゃあ、嫌い?」
「それも、わからない」
「何それ」
「本当にわからないんだ」
紬は蓮をじっと見た。
「じゃあ、私は何?」
「……」
「恋人?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
紬が笑った。
でも、少し泣きそうな顔だった。
「私、蓮のこと好きだよ」
「……うん」
「好きって言われたら、どうする?」
「わからない」
「またそれ?」
紬が蓮の肩を叩いた。
「もう、わからないばっかり!」
蓮は困ったように笑った。
「だって、知らないんだ」
「何を?」
「好きって、どういうものなのか」
紬は黙った。
「じゃあ、教えてあげる」
「どうやって?」
「知らないよ」
「……」
「私だって知らないもん」
紬は笑った。
それから、涙が一粒落ちた。
「でも、私、蓮が好き」
蓮は何も言わなかった。
「蓮がわからなくても好き」
「……」
「困っても好き。逃げたくなっても好き」
少し間を置いて、
「私のこと嫌いになっても……たぶん好き」
「どうして?」
「好きだから」
「それだけ?」
「それだけでいいじゃん」
蓮には、それがわからなかった。
蓮にとって、人生は理由のあるものだった。
金が必要で。
仕事が必要で。
食べるために働いて。
傷つかないために、誰にも期待しない。
なのに紬は、何の役にも立たない「好き」という気持ちだけで、蓮のそばにいる。
それが怖かった。
「俺、君を幸せにできないよ」
蓮が言った。
紬はすぐに答えた。
「私だって、蓮を幸せにできるかわからない」
「だったら……」
「でも好き」
「……」
「蓮ってさ、なんでも責任とか正解とか考えるよね」
紬が少し怒ったように言った。
「好きになることにまで、正解がいるの?」
蓮は答えられなかった。
しばらくして、紬が言った。
「じゃあさ」
「ん?」
「恋人って、何するの?」
蓮は黙った。
「……知らない」
「私も」
二人でテレビを見る。
画面の中では、恋人同士が手をつないでいた。
紬が蓮の手を見る。
蓮も紬を見る。
「……つなぐ?」
「何を?」
「手」
「うん」
二人は手をつないだ。
五秒ほどして、蓮が言った。
「これで合ってる?」
「知らない」
「……」
「でも、たぶん合ってる」
蓮は少し笑った。
それから二人は、恋人が何をするものなのか、見よう見まねで覚えていった。
朝になったら、紬からメッセージが来る。
『おはよう』
蓮は画面を見た。
何と返せばいいのかわからなかった。
三十分考えて、
『おはよう』
と送った。
すぐに返事が来る。
『遅い』
『ごめん』
『なんで謝るの』
『わからない』
『また(笑)もういい!』
蓮はスマホを見ながら、少し笑った。
仕事が終わったら、
『帰った』
と送る。
紬から、
『おかえり』
と返ってくる。
それだけだった。
初めて二人で出かけることになった日。
「どこ行く?」
紬が聞いた。
「どこでもいい」
「それ困る」
「じゃあ、紬が決めて」
「蓮は?」
「俺はどこでもいい」
紬がため息をついた。
「恋人って、こういうときどうするの?」
「知らない」
「私も知らない」
二人でスマホを覗き込んだ。
『カップル 初デート おすすめ』
検索結果を眺める。
「水族館」
「……行く?」
「うん」
二人は水族館へ行った。
魚を見て、
「きれいだね」
「うん」
それからしばらく黙った。
紬が言った。
「……次、何するの?」
「知らない」
「もう!」
紬が笑った。
蓮も笑った。
誕生日には、ケーキを買った。
紬が蓮の好きな味を聞くと、
「何でもいい」
と答えた。
「何でもいいは禁止」
「じゃあ、チョコ」
「なんで?」
「今、思いついた」
「じゃあチョコね」
それだけで嬉しそうにする紬を見て、蓮は少し不思議だった。
クリスマスには、プレゼントを交換した。
紬からもらった箱を開ける。
マフラーだった。
「ありがとう」
「それだけ?」
「……すごく嬉しい」
「最初からそれ言ってよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
蓮は頷いた。
翌日から、毎日そのマフラーを使った。
喧嘩した翌日。
二人とも意地を張っていた。
夜になっても、どちらからも連絡がない。
午後十一時。
紬のスマホが鳴った。
「もしもし」
「……俺」
「知ってる」
「昨日は、ごめん」
「うん」
「紬も謝って」
「なんで私も?」
「……俺だけだと不公平だから」
電話の向こうで紬が笑った。
「昨日はごめん」
「うん」
「蓮」
「ん?」
「好き?」
少し沈黙があった。
「……たぶん」
「お」
「何?」
「進歩した」
「何の?」
「好きが、わからないから、たぶんになった」
蓮は少し考えた。
「……そうかも」
「じゃあ、合格」
「何点?」
「七十点」
「低い」
「次は八十点ね」
「どうしたらいい?」
「知らない」
二人で笑った。
ある夜。
紬の部屋で、蓮が帰る支度をしていた。
「今日は帰らないで」
「明日、仕事だろ」
「知ってる」
「じゃあ寝ろよ」
「蓮も寝て」
「なんで?」
「隣にいてほしいから」
蓮が少し考える。
「それ、何の意味があるの?」
紬の顔が曇った。
「意味なんかないよ」
「じゃあ、なんで?」
「帰ってほしくないから!」
紬の声が震えた。
「意味がないと、一緒にいちゃいけないの?」
蓮は黙った。
紬は俯いた。
「私ね……一人になると、怖くなるの」
蓮は何も言わなかった。
「明日になったら、蓮がいなくなってる気がする」
「俺はいるよ」
「そういうことじゃない」
紬の目から涙が落ちた。
「私、昔からそうだったから」
蓮は、しばらく黙っていた。
それから上着を脱いだ。
「……わかった」
紬が顔を上げる。
「今日はいる」
紬は泣きながら笑った。
「うん」
二人は布団に入った。
少し距離を空けて横になる。
しばらくして、紬が言った。
「蓮」
「ん?」
「手、貸して」
蓮は黙って手を伸ばした。
紬が握る。
それだけだった。
翌朝。
紬が目を覚ますと、蓮はまだ寝ていた。
紬はスマホを手に取った。
目覚ましを止める。
しばらく蓮の寝顔を見る。
それから、
「おはよう」
と言った。
蓮が目を開ける。
「……おはよう」
「寝癖すごい」
「そう?」
「うん」
「どこ?」
「右」
蓮が髪を触る。
「ここ?」
「違う」
「どこ?」
「もういい」
紬が笑う。
蓮も笑った。
それからも、二人は何度も間違えた。
喧嘩もした。
言ってはいけないことも言った。
紬は泣いた。
蓮は黙った。
それで、また紬が先に電話をかけた。
「昨日はごめん」
「俺も」
「今度からちゃんと言ってよ」
「何を?」
「……そういうところ!」
「ごめん」
「だから、何に?」
「……わからない」
「もう!」
また喧嘩になる。
でも、次の日には、
『おはよう』
と届く。
『おはよう』
と返す。
それだけは、やめなかった。
ある朝。
紬が訊いた。
「蓮」
「ん?」
「私たち、ちゃんと普通になれるかな」
蓮は少し考えた。
「たぶん、無理」
「ふふっ」
紬が笑った。
「私もそう思う」
「普通って、よくわからないし」
「うん」
少し沈黙があった。
「でも」
蓮が紬の手を握った。
「これでいいんじゃない?」
「何が?」
「……わからない」
紬が声を上げて笑った。
「もう、それ蓮の口癖じゃん」
「そう?」
「そう」
蓮も笑った。
それから何年経っても、二人は普通の恋人にはなれなかった。
恋愛の正解も知らない。
結婚の仕方もよくわからない。
家族の作り方なんて、もっとわからない。
それでも朝になれば、
「おはよう」
と言う。
仕事に出れば、
「行ってきます」
と送る。
帰ってくれば、
「おかえり」
と返ってくる。
喧嘩をすれば、少し時間を置いてから謝る。
寂しくなれば、
「そばにいて」
と言う。
言われたほうは、どうすればいいかわからなくても、とりあえず隣に座る。
ある夜。
蓮が玄関で靴を履いていた。
「明日、早いから帰る」
紬が玄関まで来た。
「うん」
蓮がドアを開ける。
「蓮」
「ん?」
「明日、帰ってくる?」
蓮は少しだけ考えた。
昔なら、「わからない」と答えていた。
今は違った。
「帰ってくる」
「何時?」
「……わからない」
「そこはわからないんだ」
「仕事次第だから」
「そっか」
紬が笑う。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉まる。
蓮は廊下を歩きながら、スマホを取り出した。
紬にメッセージを送る。
『着いたら連絡する』
送ってから、少し考えた。
もう一行、打ち込む。
『明日も帰る』
送信した。
紬から、すぐに返事が来た。
『うん』
そのあとに、
『おやすみ、好き』
と続いた。
蓮は画面を見た。
少しだけ迷ってから、
『おやすみ』
と打つ。
そして、もう一度考える。
『俺も、たぶん好き』
送信した。
普通の恋愛なんて、二人には最後までよくわからなかった。
だから今日も、
わからないまま、
二人で覚えていく。




