第一話
薄暗い木賃宿の天井を見つめながら、俺――相良海斗は、異世界にきてから何度目になるかもわからない溜め息をひとつ吐き出した。
キシキシと不穏な音を立てる安ベッド。藁が詰まっているだけのマットレスは湿気を吸って重く、背中にゴツゴツとした不快な感触を伝えてくる。隙間風が吹き込む土壁からは微かにカビの匂いが漂い、階下の酒場からは、昨晩泥酔した冒険者たちのいびきや、下卑た笑い声の残滓のようなものが染み上がってきていた。
「……もう、百日か」
独り言のように呟いて、身体を起こす。 ぼさぼさに伸びた黒髪を掻き上げ、安物の麻のシャツに袖を通した。窓の外を見やれば、石造りの街並みの向こうから、白み始めた空が広がっている。城塞都市ヴェスタ。それが、俺が今暮らしている異世界の街の名前だった。
百日前、俺は日本のブラック企業でデスマーチの真っ只中にいた。連日連夜の残業、上司からの理不尽な怒号、コンビニ弁当の味すら感じなくなった舌。深夜、朦朧とした意識のままスマートフォンのソシャゲ画面を開き、歩道橋の階段を踏み外した――そこまではっきりと覚えている。 次に目を覚ました時、俺は見知らぬ石造りの神殿にいた。周囲には豪奢なローブを着た神官たちが並び、俺の隣には、いかにも『選ばれし者』といった面構えの金髪碧眼の美男子や、聖女のような美少女が数人立っていた。いわゆる勇者召喚というやつに、運悪く巻き込まれたのだ。
神官長らしき老人が仰々しく水晶玉をかざし、召喚された者たちの能力を鑑定していった。 『剣聖』『大魔導士』『聖女』――並み居るチート職業が告げられ、神殿が歓喜に揺れる中、最後に水晶玉に手を触れた俺の結果は、あまりにも残酷で、そして清々しいほどに平凡だった。
『相良海斗。魔力値……微弱。適性職業……無職(平民)』
その瞬間、神官たちの視線から熱がサーッと引いていくのが分かった。 「巻き込まれのゴミか」「王城の食い扶持を減らすわけにはいかん」「手切れ金をやって追い出せ」。そんなひそひそ声が聞こえ、俺は銀貨五枚だけを握らされて、その日のうちに王都の城門から放り出されたのである。
テンプレといえばテンプレだが、当事者にとってみればたまったものではない。 生き延びるために、俺は王都から離れたこの辺境の城塞都市ヴェスタまで馬車を乗り継いで辿り着き、冒険者ギルドの門を叩いた。だが、特別なスキルもなければ剣術の心得もない元社畜プログラマーにできることなど、たかが知れている。ギルドで受けられるのは、街の裏路地のドブさらいや、危険の少ない近郊の草原での薬草採取くらい。冒険者ランクは最低のFランク。稼ぎは宿代と日々の粗末な食事で綺麗に消え、貯金など夢のまた夢だった。
――だが。 そんな底辺生活を送りながらも、俺が絶望して首を吊ることもなく、むしろどこか心に余裕を持って毎日を過ごせていたのには、ちゃんとした理由があった。
「そろそろ時間だな」
俺はベッドの上に端座し、壁にかかった旧式の振り子時計に目を凝らした。 チク、タク、と重々しい針の音が部屋に響く。 やがて、街の中央にある時計塔から、朝の始まりを告げる『第一の鐘』がゴォンと鳴り響いた。
その瞬間。
ピロリロリロリロ――ン!
頭の中に、どこか懐かしい、聞き覚えのある電子音のようなファンファーレが鳴り響いた。 同時に、俺の視界の中央に、半透明の鮮やかな青い光の板――いわゆるシステムウィンドウが展開された。
『おはようございます、海斗様! 本日も異世界生活を元気に始めましょう!』
フォントサイズまで完璧に整えられた、美麗なホログラムウィンドウ。 もちろん、同室に誰かがいたとしても、この画面は彼らには一切見えない。この世界のいかなる鑑定スキルをもってしても感知されない、俺だけの絶対不可侵領域。 これこそが、俺が異世界に転移したその瞬間から発現していた、唯一にして最大の固有能力――『デイリーログインボーナス』だった。
「ふふっ……来た来た」
俺は思わず口元を緩めた。 この能力のルールは至ってシンプルだ。 一日一回、朝の第一の鐘が鳴る午前六時以降に目を覚まし、意識を集中させるとログイン画面が現れる。そして画面に表示されたスタンプ帳にチェックを入れるだけで、どこからともなく『ボーナスアイテム』が支給されるのだ。
最初のうちは、本当にささやかなものだった。 一日目:【普通の水筒(革製)×1】 二日目:【日持ちする干し肉×2】 三日目:【銅貨×10枚】 そんな調子で、まるで安物のソシャゲの序盤のようなラインナップだった。周囲の冒険者たちが魔物を狩ってドヤ顔で武勇伝を語る中、俺は毎朝もらえる干し肉をもぎもぎと齧りながら、「まあ、飢え死にしないだけマシか」と自分を慰めていたものだ。
だが、ログインボーナスというシステムの本質は『継続』にある。 ソシャゲをやったことがある人間なら誰でも知っているはずだ。七日目、十四日目、三十日目といった節目には、決まって豪華なアイテムが配られるということを。 実際、七日目には【切れ味の落ちない青銅の短剣】が手に入り、三十日目のマンスリーボーナスでは、この世界では一握りの大貴族や高ランク冒険者しか持っていないとされる【空間収納(容量:一立方メートル)】という超希少スキルが手に入った。これのおかげで、採取した薬草を傷めずに運べるようになり、俺の生活水準は劇的に改善されたのだ。
そして――今日。 ウィンドウの中央には、金色の豪華な装飾で縁取られた特別なスタンプ帳が表示されていた。 マス目は九十九個まで埋まっており、今日押されるべき百個目のマスには、虹色に輝く宝箱のアイコンが描かれている。
『祝・通算ログイン100日達成!』 『継続は力なり! あなたのひたむきな生存努力を称え、記念ログインボーナスを支給します!』
脳内に鳴り響く、やけに壮大でオーケストラ調のファンファーレ。空想の花吹雪が視界の端で舞い散る。 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。 三十日目でスキルの獲得だったのだ。百日目ともなれば、一体どんな規格外のものが飛び出してくるのか。 震える指先を伸ばし、空中に浮かぶ『受取』のボタンをタップした。
ポチッ。
心地よい決定音とともに、宝箱がパカッと開き、目も眩むような眩い光が溢れ出した。
『以下のアイテムを獲得しました!』 『【神話級エリクサー(完全蘇生・完全治癒)×3】』 『【パッシブスキル:神の理(森羅万象の完全鑑定・全言語完全理解)】』 『【機能拡張:空間収納の容量を「無限」に拡張(時間停止機能付与)】』 『【SSR確定・異世界召喚ログインガチャチケット×1】』
「……は?」
あまりの文字列の暴力に、俺の思考は完全に停止した。 ちょっと待て。情報量が多すぎる。 ベッドからずり落ちそうになりながら、俺は必死に画面のテキストを二度見、三度見した。
神話級エリクサー? 神話級ってなんだ。この世界のポーションの等級は、下級、中級、上級、そして特級の四段階だったはずだ。特級ポーションですら、王族の病を治すために国家予算レベルの金が動くとギルドの親父が言っていたぞ。完全蘇生って、死者すら生き返るのか? おまけに『神の理』? 森羅万象の完全鑑定……? さらに、空間収納が無限になって時間停止まで付いた? 今までリュック一個分しか入らなかったのに、これで熱々のシチューを入れたら、一年後でも熱々のまま取り出せるってことか?
「いやいやいや……極めつけは最後のやつだろ……」
俺の視界の右下に、虹色に明滅する豪奢なチケットのアイコンがぷかぷかと浮いている。 『SSR確定・異世界召喚ログインガチャチケット』。 ソシャゲ中毒者なら誰もが血眼になって追い求める、あの忌まわしくも抗いがたい魅惑のチケット。それが、異世界の、俺の目の前にある。
「引くしかないだろ、こんなの……!」
男のロマンに理屈はいらない。俺は息を荒げながら、チケットのアイコンを指先で強く押し込んだ。
瞬間、部屋の明かりが消え去ったかのように視界が暗転し、夜空のような空間が広がった。 天空から、黄金と虹色の混ざり合った巨大な流星が轟音を立てて降下してくる。演出が豪華すぎる。完全に最高レア確定の激アツ演出だ。 流星が地面に激突し、光の柱が天を突いた。眩い光の奔流の中から、ひとつの物体がゆっくりと回転しながら浮上してくる。
パリーンッ! と空間が割れるような乾いた音が響き、文字が浮かび上がった。
『SSR:【概念武装・天叢雲】を獲得しました!』
光が収まると、俺の手の平の上に、一振りの刀が落ちてきた。 いや、刀と呼ぶにはあまりに幻想的だった。刃渡りは八十センチほど。黒漆のような深みのある刀身には、まるで銀河を閉じ込めたかのように星々が瞬いており、刃先は触れるものすべてを切り裂くような鋭利な気迫を放っている。しかし、俺が握る柄は手吸い付くように馴染み、驚くほど軽い。羽毛を持っているかのようだ。
俺は即座に、先ほど手に入れたスキル『神の理』を発動させて刀を見つめた。
【概念武装・天叢雲】 【品質:神話級】 【効果:装備者のステータスを全方位に極大補正(×10)。刃に触れたあらゆる魔法・障壁・概念を「切断」する。所有者の魔力または生命力に応じて切れ味が無限に上昇。破壊不可。所有者以外が触れた場合、超重力により持ち上げることすら叶わない。】
「……おいおいおいおい」
乾いた笑いが喉から漏れ出た。 切断の概念武装。魔法も障壁も切り裂く。ステータス十倍補正。 こんなもの、王国の国宝はおろか、伝説の勇者が持っている聖剣すら裸足で逃げ出すレベルの代物じゃないか。 試しに、部屋の隅に転がっていた、ドブさらいの時に拾った錆びた鉄くずのインゴットに天叢雲の刃をそっと乗せてみた。 力を込めるまでもなく、まるで温めたナイフでバターを撫でるかのように、スッと吸い込まれるように鉄の塊が両断された。断面は鏡のように滑らかで、一切の抵抗がなかった。
「冗談だろ……」
これが、ログインボーナス。 毎日コツコツとアプリを起動……じゃなくて、毎日欠かさず異世界で生き延びて、ただ朝を迎えるだけで貰えるご褒美。 百日間の地道な継続が、一瞬にして俺を世界のパワーバランスを破壊しかねないバケモノへと押し上げてしまったのだ。
「とりあえず……しまっておこう」
心臓のバクバクとした高鳴りを抑えながら、俺は新しく容量無限・時間停止となった空間収納へ天叢雲を放り込んだ。刀は吸い込まれるように虚空へと消え、俺の意識の中のサブウィンドウにきちんとアイコンとして格納された。神話級エリクサー三本も同様に収納する。
ふう、と深く息を吐き出す。 突然のインフレに頭が追いつかないが、腹は減る。 俺は粗末な麻の服を整え、いつものように腰に七日目ログボの青銅の短剣を差すと、ギルドへ向かうために宿の部屋を出た。
朝の冒険者ギルド『銀の風亭』は、すでに多くの冒険者たちでごった返していた。 埃っぽい空気の中に、安酒と汗、そして獣の脂の匂いが混ざり合っている。屈強な戦士たちが大声で昨日の獲物の自慢話をし、魔法使いが羊皮紙の魔導書をめくりながら仲間と討伐ルートの打ち合わせをしていた。
ギルドの自動扉をくぐると、数人の冒険者が俺を一瞥し、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。 中には、あからさまに小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべる者もいる。
「おいおい、見ろよ。また『お掃除屋のカイト』が来たぜ」 「今日もせっせと草むしりか? 冒険者証を返上して農家にでも転職すりゃいいのにな」
下卑た笑い声が耳に届くが、俺は気にも留めずにスルーした。 彼らの言うことも一理ある。これまでの俺は、スライム一匹を倒すのにも青銅の短剣を振り回して息を切らし、もっぱら安全な草原での薬草採取や、下水の清掃といった雑用ばかりを請け負ってきたのだ。Fランクの万年最底辺。それがこのギルドにおける俺の評価だった。
俺は受付カウンターへと歩み寄る。 そこには、亜麻色の髪を後ろで綺麗にまとめた、小柄で愛らしい少女が座っていた。ギルドの受付嬢、エレナだ。彼女は俺の姿を認めると、パッと顔を明るくして手を振ってくれた。
「おはようございます、カイトさん! 今日も早いですね!」 「おはよう、エレナさん。今日も薬草採取の依頼を受けに来たんだ」
エレナはギルドの中で数少ない、俺のような底辺冒険者にも偏見を持たずに優しく接してくれるオアシスのような存在だった。 彼女は掲示板から一枚の依頼票を手際よく剥がし、カウンターの上に置いた。
「はい、街道沿いのモルグ草の採取依頼ですね。五束で銅貨三十枚になります。あ、でもカイトさん、最近街の東側の森で不穏な噂があるんです。凶暴な魔物の目撃情報が増えているみたいで……気をつけてくださいね?」 「ありがとう、忠告助かるよ。無理そうならすぐ引き返すさ」
俺が苦笑いしながら依頼票を受け取ろうとした、その時だった。
「おいおい、エレナちゃん。そんなドブネズミ相手に愛想振りまくことねえだろ」
背後から、押しつぶしたような下品な野太い声が響いた。 振り返ると、そこには全身を豪奢な鉄の甲冑で包み、背中に大剣を背負った大男が立っていた。その後ろには、同じような装備を固めた三人組の男女が、下品な笑みを浮かべて控えている。 Cランクパーティ『紅蓮の牙』のリーダー、重戦士のガルドだ。
ガルドはこの街の中堅冒険者で、腕は確かに立つが、性格は極めて傲慢で粗暴。自分より格下の冒険者を見下し、嫌がらせをすることで鬱憤を晴らす悪癖があった。
「ガルドさん……業務の邪魔をしないでください」
エレナが眉をひそめ、毅然とした声で遮ろうとするが、ガルドは分厚い胸当てをドスンと叩いてせせら笑った。
「邪魔だあ? 俺たちはこれから、東の森に出没したっていう『オーガ』の討伐依頼を受けに来たんだぜ? 街を守る立派な仕事だ。なあカイト、お前みたいな役立たずがコソコソ集めた草で稼ぐ銅貨なんざ、俺たちが一匹魔物の首を落とせば一瞬で稼げるはした金なんだよ。冒険者名乗るのもおこがましいとは思わねえのか?」
ガルドは俺の肩を、見せつけるようにドンと乱暴に突いてきた。 以前の俺なら、体格差でたたらを踏み、床に手をついていたところだろう。 だが――。
(……ん?)
ドシッ、と鈍い衝撃が走ったはずなのに、俺の身体はミリ単位すら揺るがなかった。 それどころか、突いてきたガルドの方が「うおっ!?」と小さく声を上げ、反動で一歩後ずさったのだ。
「あ……?」
ガルドが信じられないといった目で自分の手を見つめ、それから俺を睨みつける。 当然だ。今の俺は『神の理』をパッシブとして宿している。意識せずとも身体能力や防御本能が最適化され、無自覚のうちにガルドの力を完全にいなして相殺してしまったのだ。
俺はガルドのステータスを『神の理』で何気なく覗き見てみた。
【ガルド・バッカス】 【職業:重戦士(Cランク)】 【レベル:24】 【筋力:185 敏捷:62 耐久:210 魔力:15】 【総合評価:ただ筋肉を鎧で固めただけの雑兵。剣の太刀筋に無駄が多く、右膝の古傷を庇う癖がある。】
……辛辣すぎる。 神の理の鑑定眼は、相手の弱点や無駄な動きまで完璧に暴き出していた。これなら、武器を持たずに素手で戦ったとしても、ガルドの攻撃をすべて紙一重で見切り、右膝を軽く蹴るだけで完勝できてしまう。
「て、てめえ……今、何をしやがった?」 「別に何も? 筋肉自慢のガルドさんが、勝手に足をもつれさせ掛けただけだろ」 「んだとコラァッ!?」
ガルドが顔を真っ赤にして大剣の柄に手をかけようとした、まさにその瞬間だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――ン!!!
街中に、空気を激しく切り裂くような、聞いたこともない不協和音の警鐘が鳴り響いた。 第一の鐘のような穏やかな鐘の音ではない。甲高く、激しく、絶え間なく連打される半鐘。 『緊急事態』の合図だ。
「な、なんだ!?」 「警鐘!? 街の非常招集か!?」
ギルド内の冒険者たちが一斉にざわめき立ち、武器を手に取って色めき立つ。 その時、ギルドの重い扉がバンッ! と激しい勢いで蹴り開けられた。 飛び込んできたのは、息を乱し、肩を血で赤く染めた門番の兵士だった。
「た、大変だぁっ! 全冒険者、直ちに武器を取れ! 東門だ! 東門に魔物の群れ(スタンピード)が押し寄せてきた!!」
「な、何だと!?」 「スタンピードだと!? 東の森で一体何が起きてやがる!?」
兵士の絶叫に、ギルド内は一瞬でパニックへと叩き落とされた。 だが、兵士の報告はそれだけでは終わらなかった。彼は恐怖に瞳を極限まで見開き、喉を引き裂くような声で叫び続けた。
「群れを率いているのは……通常の魔物じゃない! 『変異種・黒滅竜』だ!! 推定危険度――災厄級!! 迎撃に向かった衛兵隊長殿が一撃で焼き殺された! も、もう門が破られるぞッ!!」
「――ッ!?」
その言葉が出た瞬間、酒場を支配していた喧騒が、嘘のように完全に凍りついた。 災厄級。 それは、一国の正規軍が出動してようやく討伐できるかどうかの、天災と同義の怪物に付けられるランクだ。上位のAランク、あるいは国に数人しかいないSランク冒険者がいて初めて太刀打ちできる化け物。 こんな辺境の、せいぜいBランクやCランク止まりの冒険者しかいない城塞都市に現れていい存在ではない。
「う、嘘だろ……黒滅竜だと……?」 「逃げろ! 逃げるんだ! こんな街、ひとたまりもねえぞ!」 「西門から逃げ出せ! 早く家族を連れて――」
先ほどまで勇ましい口を利いていた冒険者たちが、蜘蛛の子を散らすように青ざめ、我先にと出口へ殺到し始めた。 ガルドもまた、腰を抜かしかけながらカタカタと歯を鳴らしている。 「じょ、冗談じゃねえ……なんでそんなバケモノが……! 逃げるぞ、おい!」 仲間を引き連れ、背中を丸めて逃げ出していくガルドの姿には、先ほどの傲慢さは欠片も残っていなかった。
「そんな……衛兵隊長様が……」
エレナがカウンターの中でへたり込み、絶望に瞳を潤ませて震えていた。 街が蹂躙される。 巨大な竜が空から降り注ぎ、この街のすべてを焼き尽くし、逃げ惑う人々を貪り食う地獄絵図が、あと数分もしないうちに現実のものとなるのだ。
ドォォォォォンッ!!
遠く、東の空から凄まじい爆心地のような重低音と地響きが伝わってきた。黒煙がもうもうと立ち上り、窓ガラスがビリビリと激しく震える。人々の悲鳴と絶叫が、風に乗ってギルドの中まで届いてきた。
逃げるべきだ。 常識的に考えれば、元社畜で平民の俺が首を突っ込む義理などどこにもない。手持ちのアイテムを空間収納に詰め込み、混乱に紛れて西門から馬でも奪って逃げ出せば、俺一人くらいなら生き延びられるかもしれない。
だが。
(……逃げて、どうする?)
俺は自分の手の平を見つめた。 薄汚れた、豆だらけの手。百日間、この異世界の冷たい現実に抗い、毎日泥臭く生きてきた証だ。 そして、今朝手に入れた圧倒的な力。 神話級の武器。無限の回復薬。神の鑑定眼。 もし、この力を持っていながら、震える女の子を見捨てて背中を向けたら――俺は一生、自分を軽蔑し続けることになる。ブラック企業で理不尽に耐え、ただ流されるだけの操り人形だったあの頃の自分と、何一つ変わらないじゃないか。
それに。
「毎朝ログインボーナス貰うためには、この街のベッドで平穏に朝を迎えなきゃいけないんだよ。俺のログイン生活を邪魔するなっつーの」
俺は小さく自嘲気味に呟いた。 顔を上げると、震えるエレナの頭に、ポンと優しく手を置いた。
「カ、カイトさん……?」 「エレナさん、カウンターの下に隠れてて。すぐに戻るから」 「えっ……? だ、駄目です! カイトさん、外には竜が……!」
引き止めるエレナの声を背中に残し、俺はギルドの扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び出した。
外の光景は、まさに地獄そのものだった。
石畳のメインストリートは逃げ惑う群衆で埋め尽くされ、怒号と赤ん坊の泣き声が響き渡っている。 東の空を見上げれば、城壁の向こうに、圧倒的な質量を持った巨影が滞空していた。
漆黒の鱗に覆われた、全長三十メートルはあろうかという巨大な飛竜。 頭部には禍々しい二本の角が生え、その口輪からはドス黒い紫色の燐光――圧縮された暗黒ブレスの余波が漏れ出している。 城壁の一部はすでに無残に吹き飛ばされ、瓦礫の下には何人もの衛兵が倒れていた。 防衛部隊の放つ矢や魔法は、黒滅竜の展開する分厚い魔力障壁に触れた瞬間、パチパチと火花を散らして霧散している。まるで子供の投石を相手にしていないかのように、竜は嘲笑うように咆哮を上げた。
グルオォォォォォォォォォンッ!!!
大気が震え、衝撃波だけで民家の屋根瓦が吹き飛ぶ。 竜が大きく息を吸い込んだ。喉元が禍々しく発光する。二撃目のブレス。あれが直撃すれば、この大通りごと、逃げ遅れた何百人もの住民が一瞬で蒸発する!
「させるかよッ!」
俺は石畳を強く蹴りつけた。 足元が爆発したかのような加速。景色が一瞬で後ろへ流れる。 『神の理』による肉体補正が、俺の運動能力を人間離れした領域へと引き上げていた。風を切り裂き、倒壊した建物の屋根へと飛び移り、そこからさらに空中へと跳躍する。
そして、空中で空間収納から『それ』を取り出した。
「出ろ、【天叢雲】ッ!」
漆黒の刀身が陽光を浴びて煌めく。 刀を握った瞬間、俺の全身を暴虐なまでの力が駆け巡った。ステータス十倍補正。全身の毛穴から青白い闘気が吹き荒れ、視界が異常なほどクリアになる。
竜のブレスの発射シークエンス。喉から口腔へ、魔力が圧縮され、臨界点に達するまでのコンマ数秒のタイムラグ。 すべてがスローモーションに見える。
俺は空中で天叢雲を上段に構え、重力に身を任せて竜の頭上へと一直線に急降下した。
「喰らい――やがれぇぇぇぇッ!!」
竜が頭上の異変に気づき、巨大な爬虫類の瞳をギョロリと見上げた。 だが、もう遅い。 竜の全身を覆っていた、物理も魔法も一切通さない絶対の魔力障壁。 天叢雲の刃がそれに触れた瞬間――。
パリンッッッ!!
まるでガラス細工のように、障壁が木っ端微塵に砕け散った。 『触れたあらゆる魔法・障壁・概念を切断する』。 神話級の武装にとって、災厄級の防御など紙切れ同然だった。
「グガッ!?」
竜が驚愕に目を剥く。その剥き出しになった黒鱗の脳天へ向けて、俺は全体重と十倍のステータス補正を乗せた天叢雲を、一気に振り下ろした。
ズパァァァァァァァァァンッッッ!!!
抵抗など、一切なかった。 豆腐に熱した鉄針を通すよりも容易く、神話級の刀身は竜の強固な頭蓋骨を両断し、首の根元まで深々と切り裂いた。 暗黒のブレスのエネルギーが体内で暴走し、竜の口から紫色の爆炎が逆流して噴き出す。
「ギャオォォォォォォォォッッッ!?」
断末魔の絶叫。 三十メートルを超える巨躯がバランスを崩し、轟音とともに城壁の外の荒野へと墜落していく。 俺は空中で身を翻し、瓦礫の山の上へと軽やかに着地した。
ドオオオオオオオオオンッ!!
凄まじい砂煙が舞い上がり、大地が激しく揺れる。 やがて、土煙が風に流されて晴れていくと――そこには、頭部を真っ二つに裂かれ、大量の黒い血を流してピクピクと痙攣する黒滅竜の死骸が横たわっていた。 すでに、その瞳から生気は失われている。完全なる、一撃討伐だった。
「……ふう」
俺は天叢雲を軽く一振りし、付着した黒血を払い落とした。刀身には傷一つなく、星々の瞬きが相変わらず静かに輝いている。 俺は刀を素早く空間収納へと送り返した。
静寂が、辺りを支配していた。
避難しようとしていた住民たち。 武器を取り落とし、呆然と口を開けて空を見上げていた衛兵たち。 遠巻きに見ていた冒険者たち。 誰一人として、何が起きたのか理解できていないようだった。 突然現れた黒髪の青年が、空を飛び、天災と恐れられた黒滅竜を、ただの一刀で叩き落としたのだから。
「な……なんだ、あいつは……?」 「一撃で……黒滅竜を……?」 「おい、嘘だろ……あいつ、ギルドのお掃除屋……カイトじゃないか!?」
ざわざわと、波紋のように驚愕の声が広がり始める。 俺は顔を顰めた。 目立ちすぎるのはソシャゲでも現実でも悪手だ。面倒な貴族や王室に目をつけられて徴兵でもされたら、平穏なログインボーナス生活が台無しになってしまう。
「……退散だな」
俺は衛兵たちが我に返って駆け寄ってくる前に、裏路地へと素早く身を滑り込ませた。身体強化のおかげで、その場から気配を消すように離脱するのは朝飯前だった。
それから三日後。
城塞都市ヴェスタは、未だにあの『黒滅竜襲来事件』の熱狂と興奮の渦中にあった。 街を救った謎の黒髪の英雄。一撃で災厄級を屠った伝説の剣士。 ギルドには王都から特使が派遣され、調査団が街中を駆け回っているらしいが、肝心の当事者である俺は、素知らぬ顔でいつもの安宿に潜伏していた。
あの日、裏路地に逃げ込んだ俺は、服を着替えて何食わぬ顔でギルドに戻り、「机の下に隠れてました」とエレナに報告して胸を撫で下ろさせたのだ。現場に居合わせた者たちの証言も「速すぎてよく見えなかった」「黒い光が走った」などと要領を得ず、俺が容疑者(?)として特定されるには至っていない。まあ、万年Fランクの雑用係が竜を倒したなんて、誰も本気では信じないだろうしな。
キシキシと軋むベッドの上で、俺は満足げに伸びをした。
「さて……平和が戻って何よりだ」
壁の振り子時計が午前六時を指し、時計塔から第一の鐘が鳴り響く。 ゴォン、ゴォン、と重厚な鐘の音が街に染み渡る。
ピロリロリロリロ――ン!
心地よい電子音とともに、青いシステムウィンドウが視界に展開された。
『おはようございます、海斗様! 本日も異世界生活を元気に始めましょう!』 『通算ログイン103日目!』
スタンプ帳の百三マス目に、ポンッと軽快な音を立てて赤いスタンプが押される。 現れた宝箱がパカッと開き、今日のボーナスが表示された。
『本日のデイリーログインボーナス:【古代魔導文明の自動掃除ロボット(魔導ルンバ)×1】』 『【おまけ:高級炊きたてコシヒカリのおにぎり(鮭)×2】』
「ぶっ……!」
思わず吹き出してしまった。 魔導ルンバってなんだよ。この埃っぽい木賃宿を掃除しろってか? だが、おまけのおにぎりは最高だ。空間収納から取り出すと、海苔の香ばしい匂いと、ホカホカとした湯気が立ち上る。一口かじれば、絶妙な塩加減と脂の乗った鮭の旨味が口いっぱいに広がった。異世界に来てからずっと硬いパンと干し肉ばかりだったから、米の味が涙が出るほど美味い。
もぐもぐとおにぎりを頬張りながら、俺は空中に浮かぶログボの画面を眺めた。
次のビッグボーナスは通算ログイン百十日目、あるいは半年記念の百八十日目だろうか。 どんなトンデモアイテムが飛び出してくるのか、今から楽しみで仕方がない。 世界を救う気なんてサラサラないし、勇者様のように魔王討伐の旅に出るつもりもない。 俺はただ、この街の片隅で、エレナの笑顔を見ながら、毎朝美味しいご飯と便利でとんでもないアイテムを貰い、気ままに生きていくだけだ。
もしまた街が魔物に襲われたり、俺の平穏な朝を脅かすヤツが現れたなら――その時は、ログインボーナスで溜まりに溜まった規格外のチートアイテムたちを、湯水のように使って叩き潰してやればいい。エリクサーだって、伝説の武器だって、明日の朝になればまた新しい何かが手に入るんだから。
「ごちそうさまでした」
最後の一粒までおにぎりを平らげ、お茶を一杯飲み干す。 俺は腰の青銅の短剣を確かめ、軽やかな足取りで部屋のドアノブに手をかけた。
「よし、今日も元気に、ログイン完了だ」
晴れ渡る異世界の青空の下へ、俺はいつものように、一歩を踏み出した。
あの『黒滅竜襲来事件』から、一週間が経過した。
城塞都市ヴェスタの東門は、急ピッチで進められた復旧作業によって、どうにか以前の外観を取り戻しつつあった。しかし、街を覆う熱狂と緊張の余波は、いまだ冷める気配を見せていない。 それも当然だろう。天災とも称される災厄級の巨竜が、どこの誰とも知れぬ謎の黒髪の剣士によって、ただの一撃で脳天から両断されて墜落したのだ。
酒場に行けば誰もがその正体を巡って激論を交わし、吟遊詩人は早くも『黒髪の神速剣士のバラッド』なる即興の英雄詩を歌い散らかし、衛兵たちは「自分こそがその剣筋を最も近くで目撃した」と吹聴して安酒を奢らせていた。 渦中の当事者である俺――相良海斗はといえば、相も変わらず一泊銅貨十枚の安宿『木漏れ日亭』の軋むベッドの上で、平和そのものの朝を迎えていた。
「ふあぁ……よく寝た」
大きく伸びをして、凝り固まった肩を回す。 カビ臭かった部屋の空気は、前々回のログインボーナスで手に入れた【空間浄化の芳香石】のおかげで、今や高級ホテルのスイートルームのように爽やかなラベンダーの香りに満たされていた。 床の上では、昨日のログボで手に入れた円盤状の魔導具――通称『魔導ルンバ』が、シュルシュルと小さな魔導音を立てながら、床板の埃やゴミを熱心に吸い取って走り回っている。
「よしよし、いい子だ。隅っこのクモの巣も頼むぞ」
俺が声をかけると、魔導ルンバはピピッと電子音のような可愛らしい音を立てて向きを変え、壁際へと突進していった。異世界の魔導技術なのか現代日本の家電のパクリなのかは定かではないが、生活の質が爆発的に向上していることだけは間違いない。
壁に掛けられた振り子時計を見つめる。 針が重なり、午前六時を指した。 ドォン、ドォン、と街の中央にそびえる時計塔から、朝の始まりを告げる『第一の鐘』が厳かに鳴り響く。
その瞬間。
ピロリロリロリロ――ン!
心地よい、耳に馴染んだファンファーレが頭蓋の奥で反響した。 視界の中央に、朝露を弾くように鮮やかなエメラルドグリーンの半透明ウィンドウが立ち上がる。
『おはようございます、海斗様! 本日も異世界生活を健やかに継続中ですね!』 『祝・通算ログイン110日達成! 節目記念ボーナスが解禁されます!』
「おおっ、来たか!」
思わず前のめりになる。 百日目の『神話級エリクサー』や『概念武装・天叢雲』の衝撃は記憶に新しいが、ソシャゲの常として、節目ごとのログインボーナスは常に豪華と相場が決まっている。百十日目という刻みでも、何かしら特別なプレゼントが用意されているはずだ。
黄金に輝くスタンプ帳の、百十個目のマスに深紅の肉球スタンプが勢いよく捺印される。 直後、まばゆい光の粒子とともに、紫色の豪奢な宝箱が画面いっぱいに開いた。
『以下の特別なボーナスを獲得しました!』 『【パッシブスキル:神気隠蔽(神の領域すら欺く気配・ステータス完全偽装)】』 『【SSRアイテム:縛鎖の神具「ウロボロスの戒め」(自動追尾・絶対拘束・魔力封殺)×1】』 『【消費アイテム:常温保存・極上うな重(特盛・肝吸い付き)×3】』
「うおっ……! これはまた、実用的かつピンポイントな……!」
俺は思わず唸り声を上げた。 まず目を引いたのは、パッシブスキルの『神気隠蔽』だ。 先日の黒滅竜の一件以来、俺は自分の身の振り方に少なからず不安を抱いていた。いくら雑用係のFランク冒険者として息を潜めていようと、王都から腕利きの鑑定士や高位魔導士が派遣されてくれば、俺が宿している『神の理』や常人離れしたステータスを看破されてしまうのではないか、とヒヤヒヤしていたのだ。
だが、このスキルがあれば話は別だ。 説明文をタップして詳細を確認してみる。
【神気隠蔽】 【効果:自身の魔力、筋力、敏捷などのステータス値を、外部からのいかなる鑑定・探知スキルに対しても完全に偽装する。偽装する数値は本人が自由に設定可能。また、発動中の武具の気配、神気、殺気、魔力の残滓を完全に無臭化・不可視化する。神格を有する存在の看破すら無効化。】
「完璧すぎるだろ……」
これで俺のステータスは、誰がどう水晶玉を覗き込もうが「筋力8、魔力微弱、職業:無職(平民)」のまま固定されるわけだ。竜を倒した英雄を探して街中を血眼で調査している連中の目の前を素通りしても、絶対にバレることはない。
さらに、二つ目の『ウロボロスの戒め』。 空間収納から取り出してみると、それは掌に収まるほどの小さな、銀色に輝く知恵の輪のような鎖だった。 しかし、神の鑑定眼『神の理』で見通すと、その恐るべき性能がずらりと並ぶ。
【縛鎖の神具「ウロボロスの戒め」】 【品質:神話級】 【効果:使用者が目標を指定して投擲、または念じることで、自律思考を持って敵を追尾し、四肢と胴体を完全に拘束する。拘束された対象は、神話級以下のあらゆる魔力行使、肉体強化、スキル発動を完全に遮断(魔力枯渇状態へ移行)される。所有者の許可なく脱出することは不可能。破壊不能属性。】
「生け捕り用のチートアイテムか。天叢雲は切れ味が良すぎて、下手に振ると相手を微粒子レベルで消し飛ばしちまうからな……手加減したい時には最適だな」
そして最後の一つ。 【極上うな重(特盛・肝吸い付き)】。 漆塗りの重箱を空間収納から取り出した瞬間、甘辛い醤油とみりん、そして炭火で香ばしく焼き上げられた蒲焼きの暴力的なまでに食欲をそそる匂いが、部屋いっぱいに充満した。 じゅわりと滲み出る脂、ツヤツヤと輝くタレ、錦糸卵の上に鎮座する丸々一匹分の肉厚な鰻。
「たまらん……! いただきます!」
俺は付属の割り箸を割り、夢中で鰻と米を口へ運んだ。 外はパリッと香ばしく、中は驚くほどフワフワでジューシー。甘辛い秘伝のタレが染み込んだホカホカの白米が、舌の上で至福のハーモニーを奏でる。肝吸いの澄んだ出汁が、胃袋を優しく温めてくれた。
「美味い……美味すぎる。これだけで異世界に来てよかったと思えるレベルだ……」
あっという間に特盛うな重を平らげ、幸せなため息をつく。 腹も満たされ、ステータス偽装の保険も手に入った。 俺はいつも通りのボロい麻のシャツに革のベストを羽織り、腰に七日目ログボの【青銅の短剣】をぶら下げると、意気揚々とギルドへ向けて部屋を出た。
だが、一歩外へ出ると、街の空気はいつもと明らかに違っていた。
大通りを行き交う住民たちの表情がどこか強張り、視線が落ち着かない。 普段なら威勢のいい声を張り上げている屋台の親父たちも、声を潜めて何事かを囁き合っている。 城塞都市の入り口である大門の警備は普段の三倍に増員されており、銀色に輝く豪奢な鎧を着た、明らかに地方都市の衛兵ではない『王都の正規騎士団』の姿がそこかしこに見受けられた。
「……何事だ?」
俺は眉をひそめながら、冒険者ギルド『銀の風亭』の扉を押した。 ギルドの中もまた、異様な静けさに包まれていた。 いつもなら朝から安酒を呷ってくだを巻いている荒くれ者たちが、誰一人として大声を出さず、所在なげに隅の席で固まっている。
受付カウンターへ向かうと、そこにはいつもの愛らしい受付嬢、エレナがいた。 しかし、彼女の表情もまた、いつになく蒼白で緊張に強張っていた。
「あ……カイトさん、おはようございます」 「おはよう、エレナさん。なんだか街もギルドもピリピリしてるみたいだけど、何かあったの?」
俺が尋ねると、エレナは周囲を恐る恐る見回してから、カウンター越しに身を乗り出し、小声で囁いてきた。
「カイトさん、知らないんですか? 今朝早く、王都から『特使』の方々が到着されたんです。黒滅竜の調査のために……」 「特使? 騎士団のお偉いさんでも来たのか?」 「それだけならまだ良かったんです! 来られたのは……王都の騎士団だけじゃありません。『王立異端審問局』から、あの『特務執行官』が派遣されてきたんですよ……!」
エレナの声は微かに震えていた。 異端審問局。 その単語が出た瞬間、近くにいた歴戦の冒険者たちがビクッと肩を揺らし、恐れをなしたように酒杯を握り直すのが見えた。
「異端審問局って、あの宗教裁判とか魔女狩りをやってるっていう、王国の裏組織か?」 「はい……表向きは、黒滅竜を討伐した謎の英雄の素元調査と、竜が突如として辺境に現れた原因の究明です。でも、率いてきた隊長が最悪なんです。『鮮血の解剖姫』……イリア・フォン・アルシュタット特務執行官です」
エレナが語るには、そのイリアという女性執行官は、王都の名門貴族アルシュタット侯爵家の息女でありながら、類稀なる魔術の才能と、それ以上に『異常な性癖』を買われて審問局の若き幹部に抜擢された狂人なのだという。
「彼女の手にかかって口を割らなかった異端者やスパイは一人もいないと言われています。何より恐ろしいのは……彼女、人間相手の尋問も冷酷無比なんですが、本領は『魔物』なんです」
「魔物?」
「はい。知性を持つ魔物や亜人を生け捕りにしては、秘密の地下室に何日も閉じ込め、声帯を切り裂かないように細心の注意を払いながら、解剖と拷問を繰り返して生態を暴くのが無上の喜びなんだとか……ギルドの上層部でも『絶対にあの女の機嫌を損ねるな』ってお触れが出ているくらいなんです」
エレナはブルッと身震いした。 魔物を拷問するのが趣味の女執行官。 属性過多にもほどがある。関わりたくない度ナンバーワンの人種だ。
「わ、わかりました。俺みたいなFランクの雑用係には、天地がひっくり返っても縁のない雲の上の人ですよ。今日も大人しく、街道沿いで薬草でも毟ってきます」 「そうしてください! 今は下手に目立つ行動を取ると、どんな言いがかりをつけられて審問官の部屋に連行されるかわかりませんから……! はい、これ、今日のキノコと薬草の採取依頼票です。本当に気をつけてくださいね?」
エレナから依頼票を受け取り、俺は足早にギルドを後にした。 触らぬ神に祟りなし、狂人には近寄らぬが吉。 俺は新しく手に入れた『神気隠蔽』を常時発動させ、自分の存在感を徹底的に希薄にしながら、街の外へと向かった。
城塞都市ヴェスタの北東に広がる『迷いの森』。 ここは深い霧と生い茂る原生林に覆われた広大な森林地帯で、普段からオークやゴブリン、大蜘蛛といった低〜中級の魔物が跋扈する危険地帯だ。 しかし、街道沿いの浅い層には良質な薬用キノコやモルグ草が群生しているため、俺のような採取系冒険者にとっては格好の稼ぎ場でもあった。
「ふう……このあたりなら、王都の騎士様たちも入ってこないだろ」
生い茂る木々の合間を縫いながら、俺は手際よく木の根元に生えた青白いキノコをナイフで刈り取っていく。 採取したキノコは、背負い袋に入れるふりをして、そのまま時間停止の空間収納へポイポイと放り込む。これなら傷むこともなく、胞子が服に付着して痒くなることもない。
作業を始めてから一時間ほどが経った頃だろうか。 風に乗って、何やら奇妙な音が耳朶を打った。
ギチ……ギチギチ……。 ブモォォォ……ッ! ヒィィィィィン……ッ!
「……ん?」
俺は手を止め、耳を澄ませた。 それは、猛獣の威嚇するような咆哮ではなかった。 どちらかといえば、何か抗いがたい恐怖と苦痛に打ちのめされ、情けなく命乞いをしているような、哀れな獣の鳴き声――いや、悲鳴だった。
「なんだ? 冒険者のパーティが魔物を追い詰めてるのか……?」
放っておくべきだとは思った。だが、その悲鳴があまりにも必死で、どこか異様だったのだ。 『神気隠蔽』で気配を極限まで消したまま、俺は音の発生源である森の深部へと、音もなく木立を飛び移りながら近づいていった。
やがて、巨木がぽっかりと円形に途切れた、薄暗い開けた空間が見下ろせる位置に到達した。 太い木の枝の上に身を伏せ、そっと茂みの隙間から下の様子を覗き込んだ俺は――我が目を疑った。
「ヒッ……ブモォォォ……ッ!!」
そこにいたのは、身長三メートルを優に超える巨大な魔物――『剛腕鬼』だった。 全身を硬質な緑色の皮膚で覆い、丸太のような太い腕で冒険者を一撃で叩き潰す森の暴君。Cランクの冒険者パーティが三組がかりでようやく討伐できるほどの凶暴な巨獣だ。
その怪物が。 今、何十本もの極細の鋼鉄ワイヤーによって大木に磔にされ、指一本動かせない状態にされていた。 ワイヤーは皮膚に深く食い込み、緑色の体液が滴り落ちている。 そして、その巨漢の足元に、信じられないほど優雅に、まるで紅茶の香りを愉しむかのように佇んでいる人影があった。
プラチナブロンドの艶やかな長髪を、後頭部で豪奢な銀のバレッタで留めた女性。 抜けるような白磁の肌に、怜悧で整いすぎた美貌。紫水晶のように妖しく輝く冷酷な瞳。 身に纏っているのは、純白の修道服のような清廉な意匠を取り入れつつも、身体の起伏をくっきりと浮き彫りにするタイトな黒の軍服コート。スリットから伸びるスラリとした太ももは、光沢のある黒革のニーハイブーツに包まれている。
絶世の美女。 だが、その手に握られていたのは、神への祈りを捧げる十字架ではなく――先端から怪しい燐光を放つ、細長い魔導注射器と、三叉に分かれた銀色のメスだった。
「ダメよ、トロールさん。そんなに暴れたら、せっかく露出させた第三副神経束が千切れてしまうじゃないの」
鈴を転がすような、あまりにも甘く、美しく、そして底知れぬ冷たさを孕んだ美声。 彼女――イリア・フォン・アルシュタットは、トロールの極太の右腕に開けられた切開創を、メスの先端でツーッと愛撫するように撫でた。
「ブモォォォッ! ブモォォォォッ!!」
トロールが巨体を痙攣させ、白目を剥いて泡を吹く。 その瞳には、かつて森の頂点捕食者だった誇りなど欠片もなく、ただ純粋な、底なしの絶望と恐怖だけが張り付いていた。
「うふふ、素晴らしい反応。痛覚の伝達速度が、通常のオークの三・二倍……やっぱり、この森のトロールは独自の変異を遂げているわね。ねえ、教えてくださらない? あなたたちを狂暴化させ、東門へと誘導した『黒幕』の居場所を。あの大トカゲ――黒滅竜に術式を刻み込んで暴走させた術者のアジトは、この森のどのあたりかしら?」
イリアは微笑みながら、トロールの耳元で甘く囁いた。 しかし、知能の低いトロールに、人間の複雑な言葉が完全に理解できるはずもない。怪物はただ恐怖に怯え、首をちぎれんばかりに横に振るだけだ。
「あら、聞こえなかったのかしら? それとも、お口に何か詰まっているの? ……困った子ね」
イリアは優雅な手つきで、小瓶から抽出したドス黒い粘液を注射器へと吸い上げた。
「これはね、私の特製ブレンドよ。『痛覚過敏抽出液・改』。これを筋肉繊維にほんの一滴注入するだけで、そよ風が撫でただけでも熱した鉄パイプで殴られたような錯覚を脳に与えることができるの。あ、安心して? あなたがショック死してしまわないように、王室御用達の高純度中級ポーションもたっぷり混ぜてあるわ。細胞が再生しながら、同時に極限の苦痛が永遠にループする……ふふっ、なんてロマンチックなのかしら」
「ヒィィィィィィッ!? ギチッ、ブモォォォォッ!!」
トロールが涙と鼻水を垂れ流しながら、人間のように悲鳴を上げて首を縦に激しく振った。地面を足の指先で必死に指し示し、何かを訴えようとしている。
「あら、もう白状する気になったの? つまらないわね……。私の実験、まだ準備運動の段階なのに」
イリアは心底残念そうに長いため息をつき、トロールの額をコツンとメスの柄で叩いた。
(ヒ、ヒエェェェェ……ッ!!)
木の上で息を潜めていた俺は、背筋に氷柱を叩き込まれたような悪寒に襲われていた。 な、なんだあの女は!? 美しすぎる外見と、やっていることの狂気のギャップが凄まじすぎる! 魔物が可哀想に見えてくるってどういう状況だよ!? あのトロール、完全に魂が抜けかけてるじゃないか!
関わっちゃダメだ。絶対にダメだ。 あんなヤバい女の視界に入ったら最後、何をされるかわかったもんじゃない! 俺は音を立てないよう、慎重に体重を移動させ、木の上から静かに後退しようとした。
――パキッ。
どれほど気をつけていても、百パーセントの完璧はあり得ない。 足元の古い小枝が、微かに、本当に微かに乾いた音を立てて折れた。 普通の人間なら、風の音や鳥の羽ばたきと聞き分けがつかないレベルの微細な摩擦音。
しかし。
ピクッ、とプラチナブロンドの長い髪が揺れた。 イリアの紫水晶の瞳が、恐ろしいほどの速度で正確に、俺が潜んでいた枝の隙間へと向けられた。
「――そこにいるのは、誰かしら?」
ゾッとするほど甘い声。 次の瞬間、イリアの指先から、目に見えない銀の閃光が放たれた。 空気を切り裂く不可視のワイヤー!
「ちっ……!」
俺は咄嗟に枝を蹴って跳躍した。 直後、俺が先ほどまでいた巨木の太い枝が、まるで豆腐のようにスパスパと賽の目にスライスされ、ドサドサと音を立てて地面に崩れ落ちた。 切断能力を持った魔導鋼糸。手加減なしの必殺の一撃だ。
俺は空中で身を翻し、トロールから二十メートルほど離れた草地へと軽やかに着地した。 フードを目深に被り、腰の青銅の短剣に手をかけながら、身構える。
「あら……?」
イリアは切り裂かれた巨木と、無傷で着地した俺の姿を交互に見つめ、薄桃色の唇を弧の形に吊り上げた。 その瞳に、獲物を見定めた捕食者のような、粘つくような興味の色が灯る。
「私の『蜘蛛の糸』を空中で見切り、無傷で回避するなんて……。ヴェスタの衛兵隊にも、そんな芸当ができる人間はいなかったはずだけれど? ……どちらのネズミさんかしら?」
「……ただの、しがない薬草採取のFランク冒険者ですよ、特使様」
俺は『神気隠蔽』をフル稼働させながら、できる限り怯えた小市民を装って両手を挙げた。 「キノコを毟っていたら、何やらものすごい悲鳴が聞こえたもので……様子を見に来ただけです。お邪魔して申し訳ありませんでした。すぐに立ち去りますので」
イリアは優雅な足取りで、カツン、カツンとニーハイブーツの踵を鳴らしながら俺へと近づいてきた。 その間にも、背後のトロールは「助かった……のか……?」と言わんばかりに虚ろな目で天を仰いでいる。
イリアは俺の目の前、三歩ほどの距離で立ち止まると、じっと俺の顔を覗き込んできた。 間近で見ると、人形のように整った恐ろしいほどの美貌だ。甘い香水と、微かに混ざり合う薬品の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ふうん……?」
彼女は懐から、手の平サイズの透明な水晶玉を取り出した。 高位の魔導鑑定具だ。彼女はそれを俺の胸元にかざし、魔力を流し込む。 水晶玉がぼんやりと濁った灰色に光った。
「職業:無職(平民)。魔力値……3。筋力……8。スキル……なし。……確かに、書類の上ではどこにでもいる最底辺の雑兵、いえ、それ以下の木偶の坊ね」
イリアは冷淡に数値を読み上げた。 『神気隠蔽』が完璧に機能している証拠だ。 よし、これで「ただの臆病な平民が迷い込んだだけ」として解放されるはず――そう思った矢先だった。
「でも……おかしいわね?」
イリアの紫の瞳が、妖しく細められた。 彼女の細く白い指先が、スッと伸びてきて、俺の胸板の真ん中をトンと突いた。
「魔力も筋力もないはずのあなたの心拍数が……私のメスを向けられていながら、一分間に六十回前後で完全に安定しているのは何故? 恐怖で瞳孔が開くこともなく、筋肉の強張りも一切ない。何より……私の視線から、ミリ単位の無駄もなく急所を隠すように重心を落としているその立ち姿……」
彼女の舌先が、ペロリと濡れた唇を舐めた。
「あなた……中身を綺麗に隠しているわね? なんだか、とっても分厚くて頑丈な皮を被った、未知の魔物の解体に取り掛かる時のような……そんなゾクゾクする匂いがするわ♡」
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 勘が良すぎる!! なんだこの女、ステータスの偽装は通じてるのに、肉体の微細な反応と本能だけで見抜いてきやがった!!
「め、滅相もございません! 私はただ、あまりの恐怖に腰が抜けて硬直しているだけで――」 「嘘をおっしゃい。……まあいいわ。ちょうどいい獲物(実験台)が増えたと思ってあげる」
イリアはクスリと残酷に微笑むと、縛り上げられたトロールを一瞥した。
「この木偶の坊が最後に漏らした情報によると、この森のさらに奥深く、古代遺跡の地下回廊に、魔族の残党が潜んでいるらしいの。あの大トカゲ――黒滅竜を街にけしかけた張本人よ。彼らは竜の肉体から飛び散った『瘴気の魔核』を回収し、古代の魔神の復活を目論んでいるとか」
「へ、へえ……それは大変ですね。すぐに騎士団に通報して、大部隊で包囲した方がよろしいかと」 「そんな退屈なこと、するわけないでしょう?」
イリアは即答した。瞳に狂気的な光が宿っている。
「魔族よ? 人間を遥かに超越した魔力と肉体、そして高度な知性を持つ上位種族……! ああ、素晴らしいわ。人間の言葉で命乞いをさせながら、どの魔力器官を切り落とせば一番美しい悲鳴を奏でてくれるのか……想像しただけで背筋が疼いてしまうもの。騎士団なんかに渡してたまるもんですか」
完全にヤバい奴の思考回路だ。 国家の治安維持のためじゃなくて、自分のサディスティックな解剖欲を満たすために動いている。
「というわけで、カイトさん? あなたには私の『荷物持ち』兼『魔除けの生贄』として、同行していただきます」 「はい? いやいや、俺はただのFランクで――」 「断ったら……今ここで、あなたのその偽装された皮を、頭のてっぺんから一枚ずつ丁寧に剥がして中身を確認することになるけれど……どちらがいいかしら?」
イリアの指先から、シュルリと銀色のワイヤーが伸び、俺の首筋すれすれでトグロを巻いた。 冷たい鉄の感触。 コイツ、本気だ。断ったら間違いなくその場で解剖ショーが始まってしまう。
「……喜んでお供させていただきます、特使様」 「うふふ、物分かりのいい殿方は好きよ♡ さあ、行きましょうか」
イリアはパチンと指を鳴らした。 すると、トロールを縛り付けていたワイヤーが一瞬で彼女の袖口へと回収された。 解放されたトロールは、反撃する気力すら完全にへし折られており、イリアと目が合った瞬間に「ヒィィッ!」と悲鳴を上げて、森の奥へと全速力で逃げ去っていった。巨体を揺らして逃げる後ろ姿が、あまりにも哀愁に満ちていた。
南無阿弥陀仏。生き延びられてよかったな、トロール。 心の中で合掌しながら、俺は最悪の拷問狂美女に連行される形で、森の最深部へと足を踏み入れる羽目になったのだった。
木々の密度が増し、頭上を覆う枝葉によって昼間だというのに夜のように薄暗い。 足元には腐葉土と骨のような白い石が転がり、空気中には鼻を突く硫黄と腐敗の匂い――魔族の放つ濃厚な瘴気が漂い始めていた。
「あら、結界ね」
立ち止まったイリアが、前方の空間を指差した。 何もない空間に、紫色の幾何学模様がうっすらと浮かび上がっている。侵入者を感知し、内部の毒気を濃縮して侵入者の肺を爛れさせる対人魔導結界だ。
「面倒な小細工をしてくれること。カイトさん、少し下がっていてくださる? 私がこの術式を分解して――」
イリアがメスを構え、魔力を集中させようとした、その時だった。
『フハハハハ! 愚かな人間どもが、自ら死地に飛び込んでくるとはな!』
森の奥から、低く響く嘲笑が木霊した。 突風が吹き荒れ、結界の向こうからドス黒い魔力の奔流が噴き出す。 現れたのは、漆黒のローブを纏い、頭部に羊のようなねじ曲がった角を生やした、肌の青白い男――上位魔族だった。 その背後には、腐敗した肉体を継ぎ接ぎにした異形の怪物、アンデッド・キマイラが三頭、獰猛な唸り声を上げて控えている。
俺は即座に『神の理』を発動し、魔族を鑑定した。
【屍毒公爵・ベルフェゴル】 【種族:上位魔族(幹部級)】 【総合危険度:災厄級(準)】 【特記:あらゆる毒と呪術を操る魔族。黒滅竜の心臓部から抽出した『滅びの瘴気』を体内に宿しており、周囲の生命力を無差別に吸い殺す能力を持つ。】
「出たわね……!」
イリアの表情が一変した。 恐れではない。狂喜だ。 まるで最高級のスイーツを目の前にした幼子のように、そのアメジストの瞳をギラギラと輝かせ、頬を紅潮させている。
「素晴らしい……! なんて濃密な毒性魔力、そして禍々しい角! その角の根元にはどんな神経が通っているのかしら? 爪を一枚ずつ剥がした時、魔族の血は何色に濁るのかしら……!? ああ、たまらないわ!」
「な、なんだこの女は……?」
歴戦の魔族であるはずのベルフェゴルが、イリアの異常すぎる眼差しに気圧され、思わず半歩後ずさった。無理もない。魔族を見下して「実験動物」として見つめる人間など、長い歴史の中でもそうそういるはずがない。
「狂人め! 我が名は屍毒公爵ベルフェゴル! 貴様のような下劣な人間など、我が呪毒の餌食となって骨も残さず溶け果てるがいい! 行け、キマイラ共! 八つ裂きにせよ!」
グオオオオオオッ!!
ベルフェゴルの号令とともに、三頭のキマイラが一斉に地を蹴った。 獅子の頭、山羊の胴体、毒蛇の尾を持つ異形の巨獣が、鋭い爪を振り上げてイリアへと殺到する。
「うふふ、前座はお断りよ!」
イリアの身体が、まるで舞踏会で踊る貴婦人のように回転した。 純白の軍服が翻り、十本の指先から目に見えない魔導ワイヤーが無数に射出される。
ギチチチチッ!
「キャゥンッ!?」
一瞬にして三頭のキマイラの四肢が複雑に絡め取られ、宙吊りにされた。 それだけではない。イリアはワイヤーを引くだけでなく、その細い糸を通じて、自身の魔力を送り込んだのだ。
「『痛覚共鳴・神経過負荷』!」
パチパチパチッ! と青白い電流のような光がワイヤーを駆け抜けた瞬間。
「ギャオォォォォォォォッッッ!?」
三頭のキマイラが、断末魔のような絶叫を上げて激しく痙攣した。 肉体は切り裂かれていない。しかし、全身の神経という神経に直接致死レベルの苦痛の電気信号が流し込まれ、脳が耐えきれずにショック死したのだ。ドサドサと、白目を剥いた怪物の死骸が地面に転がった。
「一瞬で我がキマイラを……!?」
「さあ、邪魔者はいなくなったわよ? じっくり、ねっとりと……愛し合いましょう?」
イリアがメスを構え、艶然と微笑みながらベルフェゴルへと歩み寄る。 強い。 性格は破綻しているが、審問局の特務執行官という肩書きは伊達ではない。並のAランク冒険者を遥かに凌駕する戦闘技術と、魔導具の扱いだ。
しかし――相手は上位魔族の幹部だった。
「調子に乗るなよ、人間の小娘がぁぁぁッ!!」
ベルフェゴルが両手を広げた。 その胸元から、脈動するドス黒い宝玉――黒滅竜の魔核が露わになる。 瞬間、森の木々が一瞬で枯れ果て、地面が黒く腐り落ちるほどの超高濃度の紫黒の霧が爆発的に噴き出した。
「なっ……!? これは、竜の――」
イリアが咄嗟に魔力障壁を展開しようとしたが、遅かった。 黒滅竜の瘴気は、神話級に近い質量を持っている。イリアの展開した人間の魔力障壁など、紙風船のように一瞬で突き破られ、彼女の華奢な身体が吹き飛ばされた。
「くっ……あぁっ!?」
ドサリと草地に叩きつけられるイリア。 その美しい白磁の肌に、ドス黒い呪毒の紋様が急速に広がっていく。
「う、身体が……動かない……魔力が、霧散していく……!?」
「フハハハハ! 貴様ごときの結界で、我が主たる竜の呪毒を防げると思ったか!」
ベルフェゴルが嗤いながら、爪を伸ばしてイリアへと歩み寄る。 「美しい女だ。我が眷属のアンデッドとして繋ぎ合わせ、永遠の苦痛の中で我が奴隷として侍らせてやろう!」
イリアは悔しげに唇を噛み締め、抵抗しようとするが、指先一つ動かすことができない。呪毒が全身の筋肉と魔力回路を完全に麻痺させていた。 万事休す。 このままでは、彼女がこれまで魔物たちにしてきたことの百倍の報復を、魔族の手によって受けることになる。
「……はぁ。やっぱり、こうなるのか」
静寂の森に、心底めんどくさそうな、気の抜けた溜め息が一つ響いた。
「誰だ!」
ベルフェゴルがギョッとして振り返る。 そこには、今まで完全に空気と化していた、ボロい麻のシャツを着た黒髪の青年――俺が、ポリポリと頭を掻きながら立っていた。
「カイト……さん……!? 逃げ……なさい……! そいつは、人間の手に負える相手じゃ……!」
地面に倒れたイリアが、掠れた声で必死に叫ぶ。 おや、性格はあんなに歪んでいるのに、一応無関係な民間人を逃がそうとする理性はあるらしい。ちょっとだけ見直したぞ。
「おいおい、木偶の坊が一人増えたところで何になる。まとめて我が毒の肥やしにしてくれるわ!」
ベルフェゴルが俺に向けて、紫黒の呪毒の弾丸を無数に放った。 空気を腐らせながら迫る必殺の魔弾。 だが、俺は避けることすらしなかった。
パシュン、パシュン、パシュン。
弾丸が俺の身体に着弾した瞬間、まるで濡れたティッシュが岩に当たったかのように、あっけなく霧散して消え去った。 俺の『神の理』によるパッシブ耐性は、あらゆる状態異常・毒・呪いを百パーセント無効化する。神話級の竜のブレスすら素通しする俺の肉体に、その残りカスの毒など蚊が止まったほどの刺激にもならない。
「な……に……!?」
ベルフェゴルが目を見開いた。 倒れているイリアもまた、信じられないものを見る目で俺を凝視している。
「悪いな、魔族さん。俺は毎朝、平穏に起きてログインボーナスを貰うのが生きがいなんだよ。お前らが森で魔神を復活させたり、街に毒を撒き散らしたりすると、俺の明日のログインが脅かされるんだ」
俺はポケットから、今朝手に入れたばかりの小さな銀の知恵の輪――『ウロボロスの戒め』を取り出した。
「行け、ウロボロス」
ヒュンッ!
俺が軽く放り投げた小さな鎖は、空中でキィィィンと高らかな神気を放ちながら、一瞬にして何十倍もの巨大な銀の蛇へと姿を変えた。 目にも止まらぬ神速。
「ぎゃあっ!? な、なんだこの鎖は――ごばっ!?」
ベルフェゴルが回避する間すらなく、銀の鎖は正確に魔族の四肢、胴体、そして首を幾重にも締め上げた。 ドシャァァァンッ!! 地面に縫い付けられる上位魔族。
「ぐ、があぁぁぁっ!? 力が……魔力が抜けていく……!? 解除できない……引きちぎれん……馬鹿な、我は上位魔族の屍毒公爵だぞぉぉぉっ!!」
ベルフェゴルがどれほど暴れようと、神話級のアーティファクトであるウロボロスは微動だにしない。それどころか、暴れれば暴れるほど鎖は肉に食い込み、魔族の魔力回路を完全に『ゼロ』へと遮断していく。 一瞬で、完全に無力化された。
「……うそ……でしょ……?」
イリアの呆然とした呟きが聞こえた。 彼女は痛みを忘れたかのように、目を見開いて俺と、転がっている魔族を見比べていた。
俺は歩み寄り、胸元の黒滅竜の魔核を足で踏み砕いた。 パリーンッ! とガラスが割れるような乾いた音が響き、森を覆っていた瘴気が一瞬で晴れ渡っていく。
そして、倒れているイリアの前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか、特使様?」
空間収納から、百日目ログボの【神話級エリクサー】を……使うのはもったいないので、三十日目あたりで貰っていた【上級万能解毒ポーション】を取り出し、彼女の唇にそっと当てて飲ませてやった。
トクトクトク……と喉を鳴らしてポーションを飲み干した瞬間、イリアの身体を淡い光が包み込み、肌に広がっていたドス黒い呪毒の紋様がみるみるうちに消え去っていった。呼吸が整い、麻痺していた身体に力が戻る。
「あ……身体の痛みが……消えた……?」
イリアは自分の両手を握り締め、それからゆっくりと上体を起こした。 そのアメジストの瞳が、至近距離から俺の顔を、じっと、じっと射抜くように見つめてくる。
まずい。 いくらなんでも、見せすぎた。 上位魔族を一撃で拘束するアーティファクトを使い、呪毒を物ともせず、希少な上級ポーションを惜しげもなく差し出すFランク冒険者なんているはずがない。
「あー……特使様、これはですね。たまたま昔、ドブさらいをしていた時に拾った不思議な鎖でして――」
苦しい言い訳を口にしようとした、その時だった。
ガシッ。
「え?」
イリアの細く、冷たい両手が、俺の首の後ろへと回された。 ぐっと引き寄せられ、彼女の整いすぎた顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで迫る。 その頬は異様なほどに紅潮し、吐息は熱く乱れ、紫水晶の瞳の奥には――先ほど魔物をいたぶっていた時とは比べ物にならないほどの、狂気と情熱と歓喜が渦巻いていた。
「見つけた……見つけたわ……♡」
「は、はい……?」
「あの黒滅竜を一撃で両断した、本物の英雄……! どんな鑑定魔法も通さない完全な偽装、神話の時代にしか存在しないはずの神具の鎖、そしてあらゆる呪毒を無効化する絶対の肉体……!」
イリアはうっとりと目を細め、俺の頬に自分の冷たい指先を滑らせた。 チク、と鋭い爪が肌を撫でる。痛くはないが、尋常ではないプレッシャーが走る。
「ねえ、カイトさん? あなた、一体どういう構造をしているの? どんな魂の形をしていれば、そんな規格外の力をその平凡な器に隠しておけるのかしら……? ああ、知りたい……暴きたいわ。あなたの服を全部脱がせて、その神秘のベールを一枚ずつ丁寧に解剖して……あなたの本当の声を、私だけに聞かせてほしい……♡」
ヒエッ……!! 目が、完全に逝っている!! 獲物を見る目じゃない。これは、長年追い求めていた唯一無二の至宝に出会ってしまった狂信者の目だ!!
「と、特使様!? 落ち着いてください! 私はただの――」 「イリア、と呼びなさい。私の愛しい英雄様♡」
イリアは妖艶に微笑むと、俺の耳元に唇を寄せ、甘く毒を含んだ声で囁いた。
「安心なさい。王都の俗物たちには、あなたの正体なんて一言も漏らしてあげないわ。そんなことをして、あなたが王城に連れて行かれたら……私の手元から離れてしまうもの。あなたの秘密は、私だけのものよ。ねえ……これから毎日、じっくりと時間をかけて、あなたを『尋問』してあげるわね……?」
ゾクゾクッ、と俺の背筋に特大の悪寒が走った。 助けてくれ。 黒滅竜を倒した時よりも、魔族と対峙した時よりも、目の前のこのドS拷問美女の方が何億倍も危険だ!!
「あ、あそこの魔族! まだ生きてますよ! ほら、上位魔族ですよ特使様! 早く解剖しないと死んじゃいますよ!!」
俺が必死に話題を逸らすと、イリアは「あら、そうだったわね」とパッと顔を輝かせた。 彼女は銀のメスをシャキーンと構え、ウロボロスの鎖で縛り上げられてガタガタ震えているベルフェゴルへと優雅に向き直った。
「待たせてごめんなさいね、ベルフェゴルさん? あなたには、魔族の生態について朝までたっぷり語り合っていただくわ。声帯は最後まで残してあげるから、存分に啼いてちょうだいね……♡」
「ヒィィィィィッ!? た、助けてくれぇぇぇぇッ!! 人間の英雄、頼むから我が首を今すぐ刎ねてくれぇぇぇぇッ!!」
魔族の悲痛な絶叫が、森の古代遺跡に木霊した。 俺はその隙を見逃さず、『神気隠蔽』を使って一瞬でその場から音もなく逃亡したのだった。
翌朝。
木賃宿『木漏れ日亭』のベッドの上で、俺はガバッと跳ね起きた。 全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。
「夢じゃ……なかったよな……」
恐る恐る自分の首筋に触れる。傷はない。 昨日の夕方、ベルフェゴルの悲鳴を背に森を全力疾走で脱出した俺は、何食わぬ顔で宿に戻り、鍵を三重にかけて部屋に引きこもっていたのだ。 街の噂では、昨晩遅く、イリア特使が「完全に精神を破壊されて廃人同然になった上位魔族」を引きずりながらギルドに凱旋し、ギルド長をはじめとする全員が恐怖で失禁しかけたらしい。
そして何より恐ろしいのは、イリアが街の最高級ホテルに滞在を延長し、「当面の間、この街で『特別な調査』を続行する」と宣言したことだ。 絶対に俺のことだ。逃げ場がない。
「はぁぁぁぁ……平穏なスローライフはどこへ行ったんだよ……」
俺が深いため息をついた、その時。
ゴォン、ゴォン、と時計塔から朝の第一の鐘が鳴り響いた。 午前六時。
ピロリロリロリロ――ン!
頭の中に、世界で最も安心できる、いつもの電子音が鳴り響く。 視界に広がる、青いシステムウィンドウ。
『おはようございます、海斗様! 本日も異世界生活を元気に始めましょう!』 『通算ログイン111日目!』
スタンプ帳の百十一マス目に、ポンッと軽快な音とともにスタンプが押される。 現れた銀色の宝箱が開き、今日のボーナスが表示された。
『本日のデイリーログインボーナス:【転移の魔導スクロール(指定した拠点へ一瞬でテレポート可能)×5】』 『【おまけ:冷えピタ&胃薬セット×1】』
「……ログボの野郎、俺の現状を完全に把握してやがるな!?」
胃薬とおまけのスクロールを握り締め、俺は苦笑いを浮かべた。 だが、この転移スクロールがあれば、いざイリアに部屋へ踏み込まれそうになっても、一瞬で別の街や森へ逃げることができる。ログインボーナスは、いつだって俺の最大の味方だ。
窓の外を見やれば、今日も異世界の抜けるような青空が広がっている。 あのアブノーマルな拷問美女審問官にロックオンされたのは胃が痛いが、俺には毎日積み重なる無敵のログインボーナスがある。 どんな理不尽が襲いかかってこようと、毎朝しっかり目を覚まし、スタンプを押し続ければ、俺は誰よりも強くなれるのだ。
「よし……今日も一日、生き延びるとするか!」
俺は胃薬を一包飲み干すと、腰の青銅の短剣をポンと叩き、新たな波乱に満ちた異世界の朝へと力強く踏み出したのだった。




