第9話:枯渇する国庫、そして真実の愛の終焉
――バルトシュタイン帝国の宮殿は、いまや「壮麗な廃墟」と化していました。
かつて世界中の宝飾品が集まった広間には、埃が積もり、冷気が這い回っています。
給仕する者も、掃除をする者も、その大半が「給与未払い」を理由に去って行きました。残っているのは、逃げ場のない下級の使用人と、エルゼ様が仕掛けた「債務整理」という名の見えない首輪を嵌められた、身動きの取れない高官たちだけ。
「……マリアンヌ。私の食事はまだか?」
エドワード殿下の手足は、わずか数日で驚くほど細くなっていました。
目の前に置かれたのは、かつての彼なら一口も付けなかったであろう、冷めて固くなったパンと、薄いスープ。それも、王族の食卓とは思えないほど粗末な木皿に盛られています。
「……殿下。もう、これしか残っていないのですわ」
マリアンヌ様が、震える声で答えました。
彼女の自慢だった桃色のドレスは汚れ、結い上げられていた髪は乱れ放題。
かつての「守ってあげたくなる可憐さ」は、今や「生活感に打ちひしがれた哀れさ」へと成り下がっていました。
「エルゼがいれば……エルゼなら、アシュバッハ公爵家の私財を投げ打ってでも、私のために最高の晩餐を用意したはずだ! なぜお前にはそれができない!」
「そんなことおっしゃられても! わたくしの実家には、そんなお金ございませんわ! それに、殿下がエルゼ様に百億ゴールドもの借金を作ったから、国中の商人がわたくしたちに物を売ってくれないんじゃありませんか!」
「なんだと!? 貴様、どの口でそれを言う! 私がエルゼを捨てたのは、お前が『愛している』と縋り付いたからではないか!」
かつて「真実の愛」を誓い合ったはずの二人が、今は冷え切った食堂で、獣のように吠え合っています。
愛が胃袋を満たすことはなく、ましてや国の負債を帳消しにすることもない。
その残酷な現実に、彼らはようやく直面していました。
「……失礼いたします」
そこへ、幽霊のような足取りで現れたのは、財務官でした。
彼はエドワード殿下の前に、もはや数えるのも嫌になるほど届いている「最後通牒」の一通を置きました。
「殿下。アシュバッハ公爵家より、さらなる通告です。……期限までに債務が履行されなかったため、本日をもって、帝都の主要な『物流街道』の通行権を、隣国のヴァレンシュタイン公爵家へ正式に譲渡したとのことです」
「な……物流街道を、シグルドにだと!?」
「はい。これにより、本日から帝都へ入る全ての物資に、シグルド公爵が設定した『法外な通行税』が課されます。……事実上の、経済封鎖でございますな」
殿下の手から、スプーンが力なく落ちました。
エルゼ様が去り際に仕掛けたのは、単なる「嫌がらせ」ではありませんでした。
彼女は、自分が帝国に残していた「全ての価値」を、シグルド様という最強の盾の下へ移し替え、帝国を文字通り「呼吸のできない箱」に作り替えたのです。
「……ああ、そうだわ。エドワード様」
不自然なほど静かな声で、マリアンヌ様が口を開きました。
「わたくし、思い出したのです。……実家の母が、重い病に伏せっているという報せが届いていたことを」
「……何?」
「わたくし、看病のために一度実家へ戻らなければなりませんわ。……あ、この宝石と、少しばかりの銀食器は、看病費用として持っていかせていただきますわね。殿下との『愛の思い出』として」
マリアンヌ様の目は、もはや殿下を見てはいませんでした。
彼女が隠し持っていた旅行鞄には、宮殿から持ち出したであろう金目の物がぎっしりと詰め込まれていました。
「待て、マリアンヌ! 逃げるのか!? 私を置いて、お前まで私を捨てるというのか!」
「捨てるとか、人聞きの悪いことをおっしゃらないで。……わたくし、気づいたのですわ。殿下って、エルゼ様がいなければ、ただの『威張り散らすだけの無能な男』だったんですもの。そんな男と一緒に餓死するなんて、真っ平ごめんですわ!」
「貴様ぁっ!!」
殿下が立ち上がろうとした瞬間、足に力が力が入らず、床に這いつくばりました。
その背中に、マリアンヌ様の冷笑が浴びせられます。
「さようなら、エドワード様。……エルゼ様が、なぜあんなに『可愛げなく』正論ばかりおっしゃっていたのか、今なら分かりますわ。……あなたのような人を支えるには、愛なんて何の役にも立たない。ただ、彼女のような『怪物のような知性』が必要だっただけなんですもの」
重い扉が閉まる音。
暗闇に沈んだ食堂に残されたのは、荒い息を吐きながら床を叩く、かつての第一王子だけでした。
「エルゼ……エルゼ……戻ってこい……。お前なら、こんな状況も、一瞬で解決できるだろう……? 頼む、謝るから……可愛げなんてなくていい、わがままも言わない……だから、私を助けてくれ……っ!」
その悲鳴は、誰に届くこともなく、冷え切った宮殿の壁に虚しく反響するだけ。
一方、その頃。
北方の「氷の宮殿」では。
私は、シグルド様が切り分けてくださった、焼きたてのローストビーフに舌鼓を打っていました。
「……あら。シグルド様。帝都の物流権、随分とお安く譲っていただきましたけれど、よろしかったのかしら?」
「構わないさ。君が『いらない』と捨てたものを、私が有効活用するだけだ。……それに、君の立てた戦略のおかげで、北方の冬の備えは完璧だよ。余った資金で、君に新しい魔法杖を贈ろうと思っているんだが、どうかな?」
「ふふ、楽しみにしておりますわ」
私は、窓の外で輝く北方の星空を見上げました。
かつて、私の知性が「呪い」のように疎まれた帝国。
そして今、私の知性が「祝福」として歓迎される北方。
エドワード殿下の悲鳴が、風に乗って聞こえてくるような気がして、私は最高に優雅な気分でワイングラスを傾けました。
「さて……そろそろ、帝国に残した『最後の爆弾』を起動させる頃合いかしら?」
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