第7話:無能な聖女と、機能不全の王宮
「……はあ? これ、全部わたくしがやるのですか……?」
帝都の魔力供給が途絶えて三日。
寒々とした執務室で、マリアンヌ・レネットは山のように積まれた書類を前に、引き攣った声を上げました。
そこにあるのは、単なる手紙ではありません。
『隣国との魔導銀取引における関税相殺計算書』、『帝都地下水路の浄化魔石再配置図』、『北海航路における海獣被害の損害賠償請求への反論書』……。
どれもが、一文字でも読み間違えれば国家の存亡に関わる、血と汗と数字の結晶です。
「当たり前だろう! お前は私の『真実の愛』であり、エルゼに代わる未来の王妃なのだぞ!」
エドワード殿下は、苛立ちを隠さずに叫びました。
彼自身、徹夜続きで目の下には酷い隈ができています。自慢の金髪も油ぎり、かつての王子としての輝きは見る影もありません。
「エルゼはいつも、これを『お茶の子さいさいですわ』と鼻歌混じりに片付けていたのだ。マリアンヌ、お前ならもっと優雅に、愛を込めて処理できるはずだろう?」
「で、でも……わたくし、こんな難しい計算なんて習っていませんわ! それに、この『アルカナ数式』って何ですか? 記号が踊っていて、見ているだけで頭が痛くなります……っ」
マリアンヌ様は潤んだ瞳で殿下を見つめます。
以前なら、この「可愛らしい仕草」一つで殿下は鼻の下を伸ばし、すべてを許していたことでしょう。
ですが、今は違いました。
窓の外では、魔力供給が止まり凍死者が出始めた民衆の怒号が聞こえ、廊下では辞表を抱えた官僚たちが列をなしているのです。
「『習っていない』だと!? エルゼは十歳の頃からこれをこなしていたのだぞ! マリアンヌ、お前が『私を支えたい』と言ったのは嘘だったのか!」
「嘘じゃありませんわ! でも、わたくしがやりたいのは、もっとこう……孤児院を訪問して子供たちに微笑んだり、綺麗なドレスを着て夜会で帝国の威光を示したりすることで……」
「夜会だと!? 今、帝国のどこに夜会を開ける魔力と金があると思っているんだ!」
エドワード殿下の怒声に、マリアンヌ様はヒッと肩をすくめました。
彼女が夢見ていた「王妃」の座は、輝かしい栄光のステージ。
しかし、実際にエルゼ様が座っていたのは、泥水を啜り、血を吐きながら、不眠不休で巨大な国家を支え続ける「不毛な椅子」だったのです。
「失礼いたします!」
扉が勢いよく開き、年老いた財務官が倒れ込むように入ってきました。
「殿下! アシュバッハ公爵家が抑えていた穀物メジャーが、一斉に帝国への輸出を停止しました! エルゼ様の『個人保証』が消えたことで、我が国の信用格付けが最低ランクにまで暴落したのです!」
「なんだと……!? 金ならあるだろう、国庫から払え!」
「国庫も空です! 昨夜、エルゼ様が請求された『百億ゴールド』の担保として、アシュバッハ家の法務部が国庫の資産を差し押さえる手続きを、隣国の国際法廷で完了させました!」
財務官の叫びに、エドワード殿下は今度こそ膝から崩れ落ちました。
「な……なぜだ……。たかが女一人、いなくなっただけで……なぜ国が、これほどまでに……」
「『たかが』とは、恐れ入りますな、殿下」
冷ややかな声が、部屋の隅から響きました。
いつの間にか現れていたのは、エルゼ様の忠実なる影、リィン。
彼女は主を追放したこの地獄を、冷徹な観察者の目で見つめていました。
「エルゼ様は、あなたがマリアンヌ様と甘い一時を過ごしている間、この国に血を通わせるために心臓を削ってこられました。……その価値を理解せず、ただ『可愛げがない』と捨てた報いが、この光景ですわ」
「貴様……エルゼの差し金か! 今すぐエルゼに伝えろ、戻ってこいと! 今なら、婚約破棄を撤回してやってもいいと!」
リィンは、一瞬だけ、軽蔑を隠そうともせずに鼻で笑いました。
「撤回、ですか。……ふふ。エルゼ様は今頃、北方の美しい雪景色の中で、シグルド様と温かいココアを楽しみながら、新しい領地の設計図を描いておられますわ」
「シグルド……あの北方兵の野蛮人と……っ!」
「シグルド様は、エルゼ様の引いた数式を『芸術だ』と称え、彼女が徹夜をしようとすれば『君の身体が何よりも大切だ』と、無理矢理にでも眠らせてくださる方です。……あなたのように、彼女の知性を都合よく使い倒す無能な男とは、格が違いますの」
リィンは、一通の書類を机に叩きつけました。
「それは、隣国への亡命申請書の写しです。帝国の官僚の七割が、既にこれにサインいたしましたわ。……それでは殿下、マリアンヌ様。愛に満ちた、温かな国作りを頑張ってくださいませね。暗闇の中で」
リィンが音もなく消えた後。
執務室に残されたのは、機能不全に陥った王宮と、読み解けない数字の山。
そして、恐怖に震えながら「殿下、わたくし、もう実家に帰りたいです……」と泣きじゃくる、可愛げ「だけ」が取り柄の女の声だけでした。




