第6話:絶望の朝と、百億ゴールドの請求書
――バルトシュタイン帝国の「終わりの始まり」は、最悪な目覚めと共に訪れました。
建国記念パーティーの翌朝。
エドワード殿下が重い瞼を開けた時、まず彼を襲ったのは、凍えるような室内の冷気でした。
「……おい、侍女。魔法暖房が切れているぞ。早く魔石を交換しろ」
寝ぼけ眼で命じる殿下。ですが、返ってくるはずの「かしこまりました」という柔らかな声はありません。
代わりに聞こえてきたのは、廊下をドタバタと走り回る、下級使用人たちの悲鳴に似た怒号でした。
「殿下! 起きてください、殿下! 大変なことになっております!」
部屋に飛び込んできたのは、顔を真っ青にした側近の騎士でした。
殿下は不機嫌そうに身を起こそうとしましたが、そこで異変に気づきます。
「……水が出ない。それに、この臭いはなんだ?」
蛇口を捻っても、一滴の水も出ません。
アシュバッハ公爵家が提供していた「魔力供給」が止まったことで、帝都全土の魔法式水道ポンプが停止したのです。さらに、浄化魔法が切れた下水が逆流し、宮殿には耐え難い悪臭が立ち込めていました。
「殿下、それどころではございません! 帝都の魔導列車が全線ストップし、物資の搬入が途絶えました! 市場からは食料が消え、暴動の兆しがあります! さらに……!」
「ええい、うるさい! エルゼだ、エルゼを連れてこい! あいつに命じれば、こんな不具合、すぐに直させるはずだ!」
エドワード殿下は、まだ理解していませんでした。
自分が昨夜、その「あいつ」を国外へ追放し、二度と戻れぬように橋を焼き落としたことを。
そんな彼の前に、執務服を着た年老いた宰相が、幽霊のような足取りで現れました。
その手には、山のような書類――ではなく、たった一通の「青い封筒」が握られていました。
「……殿下。アシュバッハ公爵家の代理人より、先ほど届きました。これは、エルゼ様からの『最後のお手紙』です」
「ふん、どうせ泣き言だろう。戻りたければ膝をついて謝れと伝――」
殿下がひったくるようにして開封したその中身は、手紙などではありませんでした。
それは、緻密な計算式がびっしりと書き込まれた、分厚い**「請求書」**。
「な……な、なんだ、この数字は……!? 百億、ゴールド……!?」
殿下の声が裏返ります。
そこには、エルゼ様がこれまでの十年間、無償で行ってきた「国家予算の運用益」「私財による魔力供給」「外交交渉による関税免除額」……それら全てを、市場価格に換算した正当な報酬額が記されていました。
『婚約解消に伴い、過去の「贈与」とみなされていた役務を、遡及して請求いたします。なお、支払期限は三日間。遅延した場合は、アシュバッハ家が保有する帝国内の全不動産および特許権を、隣国へ売却する手続きに入りますわ』
「ば、馬鹿な! こんな額、払えるわけがないだろう!」
「払えなければ、帝国は文字通り『空っぽ』になりますな」
宰相は、乾いた笑い声を漏らしました。
エルゼ様という一人の令嬢が担っていたのは、「可愛い婚約者」という役割などではなく、この国の「経営」そのものだった。
彼女を失うということは、売上もインフラも信用も、全てを一度に失うということ。
「あ、愛はどうしたんだ! 私への愛があるなら、こんな……!」
「殿下。愛を対価に、彼女の知性を買い叩き続けたのは、あなた様の方ですぞ」
宰相の冷ややかな言葉が、暖房の消えた部屋に虚しく響きました。
一方、その頃。
帝国との国境を越える、白銀の馬車の中。
私は、シグルド様が淹れてくださった、最高級の茶葉の香りに目を細めていました。
揺れ一つない魔導馬車。シグルド様の魔力によって維持された車内は、春のような暖かさに包まれています。
「顔色が良くなったな、エルゼ。……昨夜はよく眠れたか?」
シグルド様が、私の膝の上に毛布をかけ直しながら、慈しむような視線を向けてくださいます。
私は、窓の外に広がる、帝国の濁った空とは違う、北方の澄み切った青空を眺めました。
「ええ。十数年ぶりに、何の義務もない、清々しい朝を迎えられましたわ。……シグルド様、これからは『可愛げのない』わたくしの知略を、あなたの領地のために存分に使わせていただいてもよろしくて?」
「もちろんだ。君が望むなら、この世界の果てまで計算機を弾かせてやろう。……もっとも、私としては、君がただ笑って隣にいてくれるだけで、百億ゴールド以上の価値があると思っているがね」
シグルド様は、そう言って私の指先に、熱いキスを落としました。
私は、手に持っていた扇子をパチンと閉じ、優雅に微笑みました。
手元の魔導端末には、リィンから届いた「帝国経済、順調に麻痺中」という簡潔な報告。
あら、エドワード殿下。
あなたが望んだ「愛に満ちた国」の居心地は、いかがかしら?
わたくしは今、最高に「可愛げのある」気分で、新しい人生の第一歩を踏み出したところですわ。
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