第11話:北方の女帝、かつての「ゴミ捨て場」を買い叩く
雪解けの季節、ヴァレンシュタイン公爵領の朝は、清冽な空気と共鳴するような活気に満ちていました。
窓から差し込む陽光を浴びながら、私はシグルド様が用意してくださった新しい執務室で、一枚の「競売目録」に目を通していました。
表紙に刻印されているのは、かつての私の故国、バルトシュタイン帝国の紋章――でしたが、今はその上に「債務不履行・差し押さえ」という無慈悲な赤い印章が重ねられています。
「……ふむ。王宮のシャンデリア、一個あたり銅貨三枚分の価値しか付けられていませんわね。魔力を失ったただのガラス細工など、そんなものですわ」
「それどころか、帝国全土の土地価格が、かつての百分の一以下に暴落しているよ、エルゼ」
シグルド様が、私の後ろからそっと肩を抱き、別の書類を差し出しました。
そこには、近隣諸国の元首たちが集まって行われる『帝国資産清算会議』の招待状がありました。
「周辺国は、もはや帝国を『国』とは見ていない。ただの『切り分けられる肉』だと思っている。……連中は、君が帝国から引き揚げた魔力供給権や物流網を、自分たちが安く手に入れられると踏んでいるようだね」
「あら。わたくしが一年かけて丁寧に耕し、そして丁寧に枯らした土地を、横から掠め取ろうなんて……。随分と虫のいい話ですこと」
私は、扇子をパチンと閉じ、優雅に立ち上がりました。
鏡に映る私は、帝国にいた頃の「抑圧された完璧な人形」ではありません。北方の力強い魔力を身に纏い、シグルド様という最強の盾を得た、誇り高き「知恵の女王」の姿です。
「シグルド様。清算会議へ向かいましょう。……わたくしの捨てた『ゴミ捨て場』を、誰が掃除するのか、はっきりとさせておかなければなりませんわ」
――数日後。
帝都を一望できる丘の上に建てられた、臨時の会議場。
かつては帝国の威光を示す迎賓館だったその場所は、今や冷え込み、至る所にひび割れが目立っていました。
そこに集まっていたのは、虎視眈々と帝国の領土を狙う隣国の大使や王族たち。
彼らは「エルゼ・フォン・アシュバッハ」という名を聞き、あからさまな嘲笑や、侮りを含んだ視線を送ってきました。
「おやおや、かつての『可愛げのない令嬢』殿ではありませんか。国を滅ぼした疫病神が、何の用ですかな?」
肥え太った隣国の侯爵が、品のない笑い声を上げます。
「アシュバッハ家が保有していた帝国内の全権利は、もはや無価値。我々が慈悲で買い取ってやろうというのだ、感謝したまえ」
「あら……無価値、ですか?」
私はシグルド様のエスコートを受けながら、会議室の中央、最も高い席へと歩み寄りました。
騒めく参加者たちを、私は一瞥するだけで黙らせます。
「皆様。勘違いなさらないで。……わたくしが引き揚げたのは『権利』ではなく、『この国が機能するためのロジック』ですわ。……そして、そのロジックを再構築できるのは、世界で唯一、わたくしだけ」
私は机の上に、一束の分厚い契約書を叩きつけました。
そこには、私が帝国を去る前に、帝国内の主要な「水脈」「農地」「鉱山」の底地権を、個人的な投資として買い占めていた記録が並んでいました。
「なっ……貴様、国外追放される前に、帝国の主要資産を私物化していたというのか!?」
「私物化? いいえ、正当な売買ですわ。……殿下や皆様が、マリアンヌ様との『愛』に現を抜かしていらした間、わたくしは粛々と資産の整理を行っていただけですのよ」
驚愕に目を見開く大使たち。
そう、彼らが「安く買い叩ける」と思っていた帝国の資産は、その実、すべて私の「許可」がなければ一歩も立ち入れない私有地へと変わっていたのです。
「さて……清算を始めましょう。……帝都のメインストリート、および宮殿の敷地。これら全てを、わたくしが提示する『一ゴールド』で、ヴァレンシュタイン公爵家へ一括譲渡いたしますわ」
「ば、馬鹿な! 一ゴールドだと!? 冗談ではない、我々はもっと高値を出す!」
「どうぞ、お出しになって。……ただし、その土地の下を通る『魔力供給導管』の使用料として、毎秒、金貨千枚を請求させていただきますけれど? ……わたくしの私有地を勝手に使わせるほど、わたくしは慈悲深くありませんの」
静寂。
完全な、凍りつくような静寂が会議室を支配しました。
物理的な土地だけ手に入れても、エルゼ様の管理するインフラがなければ、そこはただの「不毛の地」。
周辺国のハイエナたちは、自分たちが手を出せる領域など、最初から一ミリも残されていなかったことに気づいたのです。
「……さすがだな、エルゼ。誰も君には勝てない」
シグルド様が、愉快そうに隣で呟きました。
「あら、シグルド様。わたくし、ただの『合理的なお買い物』をしているだけですわ。……さあ、手続きを済ませましょう。……かつてわたくしを追い出したあの宮殿が、今度はわたくしの『物置』に変わる瞬間を楽しみにしておりますの」
私は、震える手でペンを握る国際清算委員たちに、最高に優雅な微笑みを向けました。
かつての故国は、いまや私の「私有地」へ。
そして、その「物置」の中で泥に塗れて暮らしているであろう、あの男との再会は……。
ふふ。
絶望を計算する時間は、まだたっぷりとございますわ。




