第10話:さようなら、無能と暗闇に沈む帝国
――バルトシュタイン帝国の「建国の日」は、皮肉にも「滅亡の日」として歴史に刻まれることとなりました。
凍てつく執務室。
エドワード殿下は、もはや涙も出ないほど枯れ果てた目で、目の前の「最終通告」を見つめていました。
マリアンヌは去り、重臣たちは亡命し、近衛騎士団ですら武器を捨てて家族を守るために脱走した。
この巨大な宮殿に残されたのは、暖房も光もない部屋で、かつて「無能な令嬢」と蔑んでいた女性の幻影を追いかける、孤独な男一人。
「……あ、ああ……」
そこへ、最後の一人が現れました。
エルゼ様の影、リィン。
彼女は、埃の舞う部屋で震える殿下を見下ろし、一粒の「記録の魔石」を机に置きました。
「殿下。……いえ、バルトシュタインの亡霊。エルゼ様からの、正真正銘、最後のご挨拶です」
リィンが魔石を叩くと、青白い光が空中に広がり、見覚えのある、しかし決定的に「遠い存在」となった女性の姿が映し出されました。
雪の降る美しいテラスで、毛皮の襟巻きを纏い、最高級のココアを手に微笑むエルゼ様。
その隣には、彼女の肩を抱き、愛おしげに見つめるシグルド公爵の姿。
『ごきげんよう、エドワード殿下。……いいえ、今はもう、ただのエドワード様かしら?』
映像の中のエルゼ様は、扇子で口元を隠し、鈴を転がすような声で告げました。
『わたくしが提示した百億ゴールドの債務……支払期限は一時間前に過ぎましたわ。約束通り、アシュバッハ公爵家が保有していた帝国内の全ての土地、利権、そして「帝国という名の概念」そのものを、シグルド様へ売却いたしました』
「売却……だと……!?」
『ええ。今日から、その宮殿も、あなたが踏んでいる土も、すべてはヴァレンシュタイン公爵領の「私有地」です。……無断で居座り続けるのであれば、不法占拠者として排除しなければなりませんわね』
エルゼ様の瞳には、かつて向けられていた微かな情けすら残っていませんでした。
あるのは、ただ、役目を終えた帳簿を閉じるような、冷徹な完結。
『愛があれば、国は豊かになるとおっしゃいましたわね。……どうぞ、その愛で空腹を満たし、その愛で凍える身体を温めてくださいませ。……もっとも、あなたを愛してくれる方は、もう誰も残っていないようですけれど』
「エルゼ……! 待ってくれ! 謝る! 私が悪かった! 君の知性が、君の力が必要なんだ! 頼む、戻ってきてくれ!」
エドワード殿下が映像に向かって縋り付こうとした瞬間。
エルゼ様は、まるで思い出したかのように、小首を傾げて微笑みました。
『あら。……失礼ですけれど、どちら様でしたかしら?』
「な……っ」
『わたくしの記憶に、あなたのような惨めな方は記録されておりませんの。……わたくしの隣には、わたくしの知性を愛し、わたくしの計算式を「美しい」と称えてくださる、世界でたった一人の騎士様がいらっしゃいますから』
エルゼ様がシグルド様を見上げ、彼はそれに応えるように彼女の額に優しく口付けました。
その光景は、完成された一枚の絵画のように、あまりにも眩しく、残酷なほどに幸福に満ちていました。
『さようなら、無能と暗闇に沈む帝国。……計算通り、完璧な終幕ですわ』
プツン、と。
映像が消えると同時に、背後の扉が乱暴に開かれました。
入ってきたのは、北方の黒い甲冑を纏った騎士たち。
「……これより、当主シグルド・アルト・ヴァレンシュタインの命により、本物件の強制執行を行う! 不法占拠者エドワードを、ただちに排除せよ!」
「やめろ! 私は王子だ! この国の第一王子だぞ!」
叫び声も虚しく、エドワード殿下は両脇を抱えられ、泥濘の広がる屋外へと放り出されました。
扉が固く閉ざされ、かつての自分の家であった場所から、帝国の紋章が引き剥がされていく。
空からは、容赦のない雪が降り始めていました。
――数ヶ月後。
北方の中心都市。
そこでは、新しい「知恵の王妃」の戴冠を祝う、温かな灯火が街を埋め尽くしていました。
壇上に立つ私は、重厚な王冠をシグルド様から授けられ、喝采を送る領民たちを見渡しました。
「エルゼ。……君が望んだ、知性が報われる世界。ここから共に作っていこう」
「ええ、シグルド様。……わたくしの立てた百年計画、かなり過酷ですけれど、ついてきてくださる?」
「君の引いたレールなら、世界の果てまで地獄の底まで付き合うよ」
私は、シグルド様の手をとり、最高の微笑みを浮かべました。
かつて「可愛げがない」と捨てられた令嬢は、いまや「世界の心臓」として、新しい時代の幕を開けたのです。
準備は、すべて整いましたわ。
わたくしたちの幸福な物語は、ここから永遠に続いていくのですから。




