第1話:完璧な婚約者の日常、あるいは無能な王子による「可愛げ」の欠如
数ある作品の中から、本作を見つけてくださりありがとうございます。
「準備はすべて整いましたわ」
努力を嘲笑われ、踏みにじられた女性が、圧倒的な「準備」と「実力」で敵を奈落へと突き落とす――そんな、一切の妥協なしの「ざまぁ」をお届けいたします。
絶頂にいる敵が、自分の愚かさを知って膝から崩れ落ちる瞬間を、どうぞ特等席でお楽しみください。
「エルゼ、お前には――『可愛げ』というものが、これっぽっちも無いのだな」
その言葉を投げかけられたのは、帝国の政務室。
私の婚約者であり、このバルトシュタイン帝国の第一王子であるエドワード様が、執務机に積まれた書類の山を苦々しげに見下ろしながら吐き捨てました。
私は、羽ペンを走らせる手を一瞬たりとも止めずに、視線だけを彼に向けます。
磨き上げられたアシュバッハ公爵家の誇りにかけて、背筋は常に定規で測ったかのように垂直。一筋の乱れもない銀髪が、午後の陽光を弾いて冷たく輝きました。
「あら、それはどの口がおっしゃるのかしら、エドワード殿下。わたくしが『可愛げ』を優先してこの書類を放り出せば、明日の朝には帝都の三割で魔力供給が止まり、隣国との関税交渉は決裂いたしますけれど?」
「……そういうところだ!」
エドワード様は苛立たしげに机を叩きました。
彼の手の下にあるのは、彼自身が処理すべきだったはずの「鉱山開発の予算案」です。数字の整合性すら取れていなかったそれを、わたくしが数分で修正し終えたばかりでした。
「お前はいつも正しい。常に完璧だ。だが、男というものはな、もっとこう……守ってやりたくなるような、庇護欲をそそる女性を好むものなのだ。マリアンヌのように、少し抜けていて、潤んだ瞳でこちらを見上げてくるような……」
マリアンヌ。
最近、殿下の側に侍っている男爵令嬢の名。
彼女が潤んだ瞳で殿下を見つめるのは、単に「三桁の暗算すらできない自分」を誤魔化すための演技に過ぎないというのに。
「守ってやりたい、ですか。それは重畳ですわね。殿下がご自身を『守る側』の人間だと自覚していらっしゃるのであれば、まずはその予算案の三ページ目、計算ミスを直すことから始めてはいかがかしら?」
「黙れ! お前の説教など聞きに来たのではない!」
エドワード様は顔を真っ赤にして、捨て台詞を残して部屋を飛び出していきました。
扉が閉まる音を聞きながら、私はようやく羽ペンを置きました。
「……ふぅ。お疲れ様でございました、エルゼ様」
背後の影から、音もなく侍女のリィンが姿を現します。彼女の手には、冷え切った紅茶の代わりに、私の「真の執務」に必要な隠密報告書が握られていました。
「リィン。準備はどうかしら?」
「はい。アシュバッハ公爵家が管理する『アルカナ・コア(帝都魔力源)』の全回路、および隣国との秘匿貿易ルートのバイパス化。すべて完了しております。エルゼ様が承認の印章を押された瞬間に、この国から『アシュバッハの恩恵』は物理的に消滅いたしますわ」
「そう。ご苦労様」
私はリィンから受け取った報告書に目を通します。
そこには、エドワード様がマリアンヌと共謀し、今夜の建国記念舞踏会で私を「毒殺未遂の犯人」として仕立て上げ、公衆の面前で断罪する計画が克明に記されていました。
愚か、の一言に尽きますわ。
自分が立っている足場が、誰の知略と資金によって支えられているのかも理解していない。
「殿下は、わたくしが『可愛げがない』とおっしゃいましたわね」
私は窓の外、美しく整えられた帝都の街並みを眺めました。
この石畳の配置も、下水道の魔法浄化システムも、すべて私の頭脳が設計したもの。
「愛を囁く時間があるなら、契約書を読み込む。宝石をねだる時間があるなら、外交官とチェスを打つ。それがわたくしの『愛』でしたのに。……いいえ、無能な方にそれを理解しろというのは、酷な話でしたわ」
私は立ち上がり、壁に掛けられた鏡に自分を映しました。
今夜の舞踏会のために用意したのは、深い夜空のような紺碧のドレス。
一見すれば慎ましやかな装いですが、その繊維の一本一本には、膨大な魔力を伝導する「ミスリル糸」が織り込まれています。
私がこのドレスを纏って会場を去る時。
それは、この帝国から「光」と「秩序」が失われる時です。
「リィン。北方のシグルド公爵へ伝令を」
「はい、既に。『今宵、星が落ちる。受け入れの準備を』との返答を得ております」
「ふふ、相変わらず手際がいいわね。……シグルド様は、わたくしのこの『可愛げのない』計算高さを、何よりも高く評価してくださる貴重な方ですもの」
シグルド・アルト・ヴァレンシュタイン。
北方の峻厳な大地を守る、若き辺境伯。
彼との文通は、この数ヶ月、唯一私の知性を満足させてくれる贅沢な時間でした。
私は、机の引き出しの奥から、一通の封書を取り出しました。
そこには、帝国が秘匿していた「王族による公金横領」の全証拠、そしてマリアンヌが隣国のスパイであるという決定的な裏付けが収められています。
「準備は、すべて整いましたわ」
鏡の中の自分に向かって、私は優雅に微笑んでみせました。
それは、慈悲深い令嬢の笑みではなく、盤上の王を追い詰めたチェックメイトの笑み。
「エドワード殿下。あなたが望んだ『可愛げのある女性』との真実の愛……。その代償が、あなたの王位と、この国の繁栄であることを、今夜たっぷりと教えて差し上げますわ」
時計の針が、パーティーの開始時刻へと近づいていきます。
外では祝祭の鐘が鳴り響いていました。
それが帝国にとっての「葬送の鐘」になるとも知らずに、人々は浮き足立っています。
私はリィンの差し出す手袋をはめ、最後にもう一度だけ、この見慣れた執務室を見渡しました。
明日、この部屋に座る誰かは、私の残した「空白」の大きさに絶望することでしょう。
「さあ、行きましょうか。わたくしの人生で最も清々しい、『婚約破棄』を受け入れるために」
エルゼ・フォン・アシュバッハは、音もなく、しかし確かな足取りで、断罪の待つ大広間へと向かいました。
その背中には、一切の迷いも、未練もありません。
あるのは、計算し尽くされた勝利の確信だけでした。
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