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第1章:仮面の来訪者 CHAPTER 1-1「沈黙の町、リュメノワール」

空気が、まるで眠っていた。

秋の終わりを迎える風が、町の古びた屋根瓦を撫でていく。だが、誰もその風を感じていないかのように、町は音もなく息をひそめていた。


 


――リュメノワール。


地図の隅に辛うじて印がついているような、寂れた町だった。

商店街は半分以上がシャッターを下ろしたまま、色褪せた看板だけが時の流れを忘れたようにそこに在り続けている。


人の気配はある。

だが、それは生きているというより「生活を続けている」といった方が正確だった。

挨拶は短く、会話は実務的で、笑顔はまるで使い古された日用品のように、必要な場面でだけ取り出される。


 


その町に、ルカはいた。


 


栗色の髪を肩口で結び、革のリュックを背負った青年。

彼は町の中央、教会跡の広場にある古びたベンチに腰かけていた。

その手には、一枚の地図。くたびれて、角はめくれ、ところどころが雨に濡れてにじんでいる。


 


地図の一角には、赤いインクでつけられた「×」印がいくつも並んでいた。

それは、これまでに訪れた町――だが、何を探していたのかすら定かではない。


 


彼は記憶を失っていた。

はっきりと「記憶喪失です」と医者に診断されたわけではない。だが、ある日を境に、人生の何年分かがぽっかりと抜け落ちていた。


目覚めたとき、彼の名前は“ルカ”だと分かっていた。

だが、それが誰に呼ばれていた名だったのか、何者であるか、どこに住み、何をしていたのか――そのすべてが靄の中にある。


 


そして、唯一残された“手がかり”が、今彼が握っているこの地図だった。


 


赤いインクで描かれた文字がある。震えるような筆跡。


「ブリリアン・シャットを追え」

「答えは、“あの演目”の中にある」


 


何度も何度も読み返した文字列。

意味は分からない。だが、ブリリアン・シャットという名を見るたび、胸の奥がかすかにざわつく。


 


(誰なんだ……ブリリアン・シャットって)


 


名前の響きには、どこか非現実的な優雅さがあった。

名乗ってそうな人物の顔は思い浮かばない。けれど、その名前に――まるで“会ったことがあるかもしれない”という感覚がある。


 


ルカはため息をつき、顔を上げた。


石畳の向こう、教会跡の壁に一枚のポスターが貼られている。

風にめくれかけたそれを指で押さえながら、彼は目を細めて読む。


『巡業サーカス《月夜団》 本日限り』

『20時開演/旧炭鉱跡地・特設テント』


 


月夜団。

その名前も、どこかで聞いたような気がした。


 


旅の途中、駅のベンチに置かれたパンフレットの端にその名があった。

そこには、こう書かれていた。


「過去に一度だけ、“ブリリアン・シャット”が飛び入り出演したという伝説のサーカス。」


 


(……まさか、ここに?)


 


偶然にしては、できすぎている。

だが、これまでの旅だって、すべて偶然の連続だった。

何かに引き寄せられるように、次々と町を巡ってきた。


その先々で、「空白の記憶」に触れるような感覚がかすかにあった。

音の響き、風の匂い、誰かの笑い声。

日常の断片が、時折、失われた時間と重なる瞬間があった。


 


(今夜、その何かに――届くかもしれない)


 


夕暮れが、町を赤く染めていく。

路地の奥には、屋根より高い煙突が残る廃工場。そこが旧炭鉱跡地だ。


ルカは立ち上がり、ポスターに記された会場へ向かって歩き出す。

砂利道を踏むたびに、足元が乾いた音を立てる。

遠くから、陽気なラッパの音が聞こえてきた。

だがその旋律も、どこかくぐもっていて、どことなく寂しげだった。


 


町の住人たちが集まり始めていた。

とはいえ、集まったのは二十人に満たないほど。

子供が数人、年配者が多く、若者の姿はほとんどなかった。


 


その中に、ルカは混ざる。

目立たないように帽子を深くかぶり、サーカスの入り口へと向かった。


 


テントは思ったよりも小さく、どこか場末感が漂っていた。

しかし、ルカの胸は妙にざわめいていた。


 


受付にいた初老の女性が、ルカに言う。


「今日は……珍しい人が出るそうだよ」


「珍しい人?」


「私も詳しくは知らないけど、団長が今朝から妙にそわそわしててね。予定にない人が来るって」


 


その言葉に、ルカは無言でチケットを受け取り、胸元の地図をそっと撫でた。


ブリリアン・シャット――

それは、彼が記憶の断片の奥で探し続けていた“誰か”の名だった。


 


この夜、ルカの過去がほんの少しだけ揺らぐことになる。

まだ気づかないまま、彼はテントの中へと足を踏み入れた。


 


光と音のない空間で、奇跡が静かに始まろうとしていた。

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