五話 蹂躙の物語 終章
ーーいったい何が……。
鈍い痛みを叱るみたいに肘で地面を押して顔を上げると、夜の野原にレレンの姿が見えた。肩も胸も脇腹も脚も黒ずんだ矢羽がいくつも突き刺さり、呼吸のたび羽根だけがかすかに震える。辛うじて息はあるが、その火は風前の灯のように心許ない。胸の奥の鈴は鳴らず、何にも代えがたいものを失う予感が喉に刺さった。
ーーシズクは!?
首を振ると、すぐそばの草むらが持ち上がり、そこからシズクが身を起こす。片腕でこめかみを押さえ、白銀の髪の半分が赤黒く染まっていた。琥珀の目がすぐに私を見つけ、音もなく近づいてくる。その無事が胸の真ん中に小さな灯りを差すけれど、茂みを揺らす足音がそれをたちまちかき消した。ひとつじゃない。三、四、五……数はまだ増える。
風に乗って鉄と獣脂の匂いがふわりと流れ、乾いた革の擦れる音に低い囁きが重なる。立ち上がろうとしてふらつく私の肩を、シズクの冷たい指先が支え、熱くなった頭をすっと冷やしてくれた。
「シズク、下がって」
自分でも驚くほど低い声が出る。喉は熱いのに、音だけが冷たい。腰の鞘から短刀を抜くと、薄い月が刃に貼りついた。懐にしまった手首の草の輪がきしみ、二人の誓いがそこにあると確かめさせる。切れてしまった草の輪に願いを込める、お願い、私達を引き離さないで。。
「カンナ」
名を呼ばれただけで、体の芯が一本通る。
「大丈夫、(私達は決して離れない、安心して)」
「(うん)」
言うと、彼女は親指で私の頬の土を拭い、目の奥の灯りを一瞬だけ近づけた。そのあたたかさを胸にしまい、私は半歩、前へ出る。
影が笑い、矢筒の革が鳴る。もう一本来る、と直感した瞬間、私はわざとレレン側へ肩を切って視線を割り、できた隙を自分の間合いに変える。
「こっちよ」
低く挑発して刃を下段に構えると、右の影が踏み込み、正面は弓を上げ、左は回り込もうとして草を踏み荒らす。背でシズクが私の影に重なり、私の呼吸を数えるみたいに一定の吐息を添える。ーー怖くていい、でも大丈夫。彼女の声が私の中で私の声のふりをする。
最初の一歩で布を裂き、二歩目で腕を弾かれて手首が痺れ、鉄の匂いが鼻の奥に上がる。三歩目には自ら崩して体を低くし、狙いを泳がせると、矢が背の上で空気を裂いて土に刺さる乾いた音が遅れて届いた。起き上がるより早く足を薙ぎ、草を刈るみたいに足首を払うと、ひとりが膝から崩れる。内側で何かが喜び、同時に泣いた。ーーもっと速く、もっと静かに。胸の鈴はまだ鳴らない。
別の影が肩を掴みに来たので、すれ違いざまに刃を振るが浅く、分厚い革ごと裂くのがやっとだ。私は跳ねてシズクの位置に戻り、背に触れた彼女の指の合図に従って右へ半歩。視界の端でレレンが首を上げかける。だめ、動かないで、と心で言うと、まるで無音の声を聴いたみたいに耳がわずかに動いた。いい子。
「捕れ」
意味より調子のほうが先に伝わる叫びが飛ぶ。叫びに乗って背から重さが来る。半身で受け流して刃を上げるより早く、頭蓋で鈍い星がはじけた。棒か棍か、木の硬さと皮巻きの感触。視界が白く反転し、白の端に黒い影が滲む。
「カンナ!」
シズクの声が私の名を揺らす。歯を噛み、刃を前へ突き出すが、力を込める前に二撃目。後頭部を火が走り、世界がぐらりと傾く。足は土を見つけるのに、体はそこに留まらない。手首の草の輪が汗に濡れてするりと滑り、なお落ちない。落ちないで、お願い。
背で布の裂ける音——違う、シズクが野布を裂いて矢と傷を固める音。彼女は庇う位置にいる、いるはず。私の肩に網のようなものが絡み、上へ引かれる。振り抜く前に腕を背で固められ、息が詰まり肋がきしむ。正面の影が弓を捨てて手を伸ばし、指が頬に触れる前に、シズクがその手首をはたいた。乾いた音、低いうめき。小さく確かな動きで、私にだけわかる優しさの温度で怒っている。
「触らないで」
いつもより半分低い声。氷のように冷えているのに、私には温度がある。別の影が彼女へ踏み込む。私は網を肩越しに引いて身をひねり、背で結び目が食い込む痛みをはっきりと掴みながら、膝で地を探って一度沈み、跳ね上がって肩からぶつかる。ぶつかるだけじゃ足りず、歯を立てる。苦い皮と汗の味。影が叫び、腕が緩み、私は抜けかけた——そのこめかみに三撃目。火が弾け、星が崩れ、水の底に落ちるみたいな音が耳を満たす。
遠くでレレンが小さく鳴いた。泣き声じゃない、「ここだよ」と告げる時の声。鈴を持たない鈴で、私の名を呼ぶ。ーーごめん、いま助けられない。必ずあとで。言葉と意識が離れはじめ、私はそれを追いかける。追いかける途中で誰かの足が手首を踏み、懐の草の輪が衣の口から滑り出て地面に転がった。
「こいつだ」
意味の掴めない声。最後の力で空をつかむ。その空はシズクにつながっていて、彼女の指先が私の指先に触れ、ほんの一瞬、指の間を細い風が通り抜けた。ーー大丈夫、迷わない。そう言いかけた私の声を、四撃目が切る。
世界が裏返り、その底で車輪の軋む音がゆっくり生まれる。土の匂いが遠ざかり、乾いた藁と古い汗の匂いが近づく。揺れ、鎖の触れ合う金属音。身体は重く、まぶたは自分のものじゃない。夢の縁に指をかけると爪が甘く沈み、沈んだ先で誰かが名前を呼ぶ——それは、私が私を呼ぶ声。浮かび上がる途中、胸の鈴が一度だけ、音のない音で鳴った。
そして目覚めた時、私は揺れ動く檻の中にいた。
しかし今回運が無かったのは間違いなく人間の方に違いない、彼らは帝国の騎士では無くただの野党の類だったこと。少なくとも帝国の騎士であれば人類の敵だとしても騎士道精神と良心によってカンナに復讐の芽となる陵辱を宴を始めることは無かっただろう、野党どもは良心など持ち合わせているなずもなく、その結果として芽吹く筈の無い芽に肥料たっぷりの水をやってしまった。
きっと初めに会った人間が彼らでなければ僅か先の未来、ここまで悲惨な屍を積み上げることは無かっただろう。
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