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二話 日常の物語 陰

シズクが夕ごはんを持って、待ち合わせの場所へ来るころには、空は牡丹色だった。西の端がゆっくりと濃くなり、村の屋根の影が長く伸びる。風は昼より弱く、土の匂いに湯気のような温度が混ざる。

待ち合わせの場所は村はずれ、森のきわにある小さな野原。木立ちが円を作るように退き、地面は子どもたちの足でよく踏まれて平らだ。昼間は追いかけっこや相撲の土俵になるこの場所は、夜だけはわたしたちだけの場所になる。鳥は止まり木に足を着け、夏虫が早い調子で鳴き始める。川は木陰を縫って流れ、暗くなれば蛍が灯を結ぶ。

シズクは、手つきの良い大きさの籠を両手で持っていた。白銀の髪は低く結ばれ、動くたびに肩の上でわずかに揺れる。琥珀の瞳は、籠より先に私を探す。見つけると、少しだけ目尻がやわらかくなる。


「待った?」

「ううん、大丈夫だよ」


二人で野の布を広げ、草の上で皺を伸ばし、石二つで端を押さえる。籠の蓋が開くと、匂いが順に出てきた。麦飯、具だくさんの汁、香草の薄焼き、小さな塩焼きの川魚、薄い花茶、ひとつひとつが木の器に移される。並べる動きに迷いばなく私は器を受け取りながら、横顔の角度を盗み見る。もう何度も見た横顔なのに、いつもドキドキさせられる。


「今日は沢山動いたからね、塩を少し強めにしたわ」

「ありがとう、もうお腹ぐうぐうだよ」

「知ってる、遠くからでもよく聞こえた」

「え!?うそ、そんなに」

 私は両手をお腹に当てて全力で頬を赤く染める。

 シズクは頬を赤く染め羞恥に悶える私を尊いものでも見るかのように見つめ、顎を両手に添えて落ち着くまで見守っていた。

 

わたしたちは向かい合って座り、手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます」

一口目の汁は熱すぎず、口に当たる具がやわらかい。芋、葱、茸、味ははっきりしているのに、角は立たない、香草の薄焼きは、噛むと香りがふわっと広がって、麦飯を誘う、小さな魚は骨までいける火の通り、塩加減は、たしかに少し強いけど汗のあとにちょうどよく合う。

私は食べる。よく噛む。飲み込む。もう一度、食べる。

食べながら、昼の会話が、喉の奥に戻ってくる。


――あと数年したら、男の人と結婚して、子どもを産むんだよね。

――それが村のためでもあるから。

――誰か気になる人はいる?

――シズクは、どんな人がいい?


箸を置く音が小さく響き、夏虫の声に混ざる。広げた布の端が風で少し浮き、シズクが何気なく押さえる。その指先を、私は見てしまう。指は細いのに、動きは芯を感じさせる。料理を運ぶとき、重さを怖がらない指。包丁を持つとき、刃の先だけを気にする指。私の泣き顔を拭くとき、いつも冷んやりしていて何物よりも暖かい指。でもいつかこの指は、この少女は私のものでは無くなてしまう、この少女の作る暖かい料理は彼女の伴侶となる男のものとなり、その冷んやりした手は夫の頬を撫で、いつかは彼女の赤子を抱くためのものになってしまう。


二口目の汁を飲む。喉を通る熱で、目が熱くなる。

雲の色は薄桃から紫に、そして群青へ。野原の縁に、夜がそっと立っている。


「ねえ、シズク」

「うん」

「昼に、いろいろ言ったけど……」

「ええ」

「私、たぶん、簡単には誰かを選べない」

「うん」

「でも、選ばなきゃいけない時が来る」

「うん」

「私、どうしたいんだろう」


シズクは少しだけ顔を傾ける。私の声が、冗談ではないとわかる角度。笑わない、責めない、すぐ答えない。


「今は、ご飯を食べよ」

「……うん」

「食べて、眠って、明日も起きる」

「……うん」

「それで、また考える。考え続けるの、そして今“どうしたい”かで決めればいい」

「どうしたらいいか、か」

「そう、私達が何もしなくても時代は進んでいく。それこそ水の流れと一緒で目には見えないけど時間は確実に進んでる、だから私達はそんな水の流れに乗って自分達の都合のいいと思う時に止まればいい、後悔のないようにね」


すごくまっすぐな言い方で、でも、そこには全部の思いが詰まってる気がした。鼻の奥がむずむずして、視界が揺れる。涙は、思ったより早く落ちる。頬の道筋を勝手に決めて、顎の先で小さく跳ねて、布の上に点を作る。


「カンナ」


シズクの指が、涙をぬぐう。大好きなシズクの指だ、涼しいくて暖かい。

“シズクの作るご飯がおいしいから泣いてるのかもしれない”、と私は思う。

“未来がこわいから泣いてるのかもしれない”、とも思う。

どっちかわからない。わからないから、今はそのままでいいのかもしれない。


「ごめん。せっかくのご飯、しょっぱくしちゃう」

「もともと少し塩を強くしてあるから、ちょっとくらい平気よ」

「そういう問題かな」

「そういう問題だよ」


目尻の水が引くあいだ、シズクは何も言わない。口元はいつも通りで目だけが少しやさしい。私は鼻をすする音を小さくして、また箸を持つ。


食べる。食べる。ちゃんと食べる。

麦飯は残さない。薄焼きも一切れも残さない。魚は骨まで。

食べ終えた器が、並んで空になる、整った空き皿は、少し誇らしい。


「ごちそうさまでした」

「どういたしまして」


私の声はいつもの高さに戻っていた。シズクは器を重ね、布巾で軽く拭って籠に戻す。私はその間、レレンの様子を見に行く。草を噛む音は落ち着いている。汗は引いていて水を少し足してやる。鼻面で私の肩を押す。

 (この子も大きくなったな、前はあんなに小さかったのに。時は流れるか、でも私に都合のいい流れなんて来るのかな)

野原はもう暗い。けれど真っ暗ではない。川の方から、点々と光が生まれ始める。蛍だ。数はまだ多くないけれど、夜が深くなれば、もっと増える。流れの上に、灯が線になって揺れる。


布のところへ戻ると、シズクは空を見ていた。肩に掛ける薄い上衣を持ってきていて、私にも一枚渡す。


「夜は冷えるから」

「ありがとう」


布に座り直す。上衣の内側で、体温はすぐ落ち着く。夏虫の音が一段上がり、木の幹に夜の色が入り、野原の輪郭がやわらぐ。祠の鈴は鳴らないのは風が止まったからだ。


この静けさが私は好きだ、不思議な音に満ちているから。

私は、自分の胸の音を数える。昼駆けのあとの、心臓の名残。

ひとつ、ふたつ、みっつ。

数えるうちに、考えがまた戻ってくる。

――いつか、この時間が終わる。

――誰かの伴侶として、シズクは。

――この場所に、別の手が置かれる。

――私の席は、すでにそこには。


胸の真ん中が、きゅっと小さくなる。上衣の中で腕を組む。指先が冷たくなる。


「カンナ」

「うん」

「手、こっちちょうだい」


呼ばれた方へ手を出すと、シズクの掌がそっと重なる。冷たいのに、安心する温度。手の幅の違いがはっきりわかる。指の長さも。こうして比べることは、何度もあった。なのに、毎回が初めてみたいに胸が鳴る。


「大丈夫だよ」

「うん」

「私はちゃんとここにいるから」

「うん」


今だけはこの思いを全部を塞ぐことはできない。

私は息を吸って、吐く、吸って、吐く。

昼と同じふうに。


「ねえ、シズク」

「うん」

「昼、約束した草結び。覚えてる?」

「もちろん、教えてくれるって約束したもんね」


私は上衣の袖を少し捲り、草を探す。柔らかすぎず、硬すぎない茎、よく踏まれた野原にも、縁に行けば見つかる。指先で一本抜く。根も葉も強くない種類、結びに向いている。シズクも一本、私の真似をして抜く。


布の上に戻り、膝を突き合わせる。私は草の端を揃えて、輪を作る。ひとつ目の輪は小さく、くぐらせて、締める。二つ目は少しだけ大きく、並んで、絡む、引けば締まり、乱暴に引けば切れるから、力は入れすぎない。


「ひとつ目は『二人の誓い』」

「二人の誓い」

「ふたつ目は『決して離れない』」

「決して離れない」


声に出すと、なぜだか落ち着く。私はできた輪を、シズクの左手首にあてがい、片手で押さえ、もう片手で端を結ぶ、皮膚に食い込まない程度のきつさ、ほどけない程度の強さ。二度、軽く引いて確かめる。


「痛くない?」

「平気」

「水に濡れても、しばらくはもつから」

「うん」

「ほどけたら、またいくらでも結んであげるから」

「うん」


シズクが手首を返して、草の輪を見る。視線は静かだけれど、ほんの少し、目尻がやさしい。右手の指先で輪の結び目をそっと撫でる。


「カンナにも」

「うん、お願い」


今度は、シズクが結ぶ。動きは慎重で指の腹で茎を押さえ、爪で少しだけ送る。呼吸が小さく聞こえる、私は手首を動かさない、視線は落とさず、でも見つめすぎないようにする。


輪ができる。きつさはちょうどいい。結び目は私より丁寧で少しだけ悔しい。


「私より上手」

「でももっとうまくなりたい、決して解けることが無いくらいに。もっと練習していい?」

「うん、いくらでもしよ」


ふたりの手首に、同じ輪がある。並べると、同じ大きさに見える、実際は少し違うはずなのに、今は同じに見える。

夜は、もうすっかり来ている。蛍の数が増え、川の筋に点が集まって、ゆっくり動く。遠くの道に、遅い帰りの足音。臼はもう鳴らない。鍋の蓋も鳴らない。祠の鈴が、一度だけ小さく鳴る。風が少し戻ったのだろう。


私は、草の輪にそっと唇を寄せる、直接言葉は出さないで胸の中でだけ、言葉にする。

“二人の誓い”。

“決して離れない”。

“ここにいる”。

“あなたと”。


指先が震える。けれど、これは恐怖じゃない。決めたことを、体の奥に置くときの震えだ。


シズクを見る。シズクも、私を見る。

私は笑う。もう泣いてはいない、“今“は。

“今“はそれだけでで十分だ、と自分に言う。

そしてそんな“今“を何度も積み重ねれば、きっと“これから”になるから。


私はもう一本、草を抜く。今度の草は、少しだけ太い。輪を作り、結び目をもう一度、確かめてから、シズクの結び目に重ねる。

そして、心の中で強く願う。


――決して離れないように強い願いを込めながら。

 

 


一通りの練習が済んだあと、私の編んだ草結びをシズクはそれはそれは大事そうに胸の中へ抱き留めた。

両手で包み、上衣の襟の奥にそっとしまう。触れた指先が少し震えていた。シズクが嬉しいときにするあの小さな震えだ。顔はいつも通り落ち着いているのに、目尻だけがやわらかい。今まで見た中で一番綺麗な表情だ、と私は思う。私の思いが、ちゃんと届いているといいな――そう願いながら、その横顔を優しく見守った。


「大事にするわ」

「うん。ほどけたら、また結んであげるからね」

「ほどけない方がいいな、この思いが永遠に残るように」

「大丈夫だよ、何度でも結んであげるから」


ふたりで笑う。笑い声は小さくて、すぐ夏虫の音に紛れていった。


日が落ちきるまで、私たちは取りとめのない話をした。今日の駆けのこと。湖からの風のこと。レレンが少し得意げだったこと。明日の天気のこと。野良の猫が増えたらしいこと。

話の合間に、蛍がひとつ、またひとつ灯る。川すじに光が増え、ゆっくり流れていく。夜は濃くなり、野原の輪郭はやわらかく溶けた。風が弱まり、匂いだけが残る。水と草と、少しの土、鼻の奥が落ち着く匂い。


「帰ろうか」

「うん、家まで送るね」

「家に着くまで、手、つないで欲しいな」

「はいはい、今日はあなたが前ね」


指を絡める。結び目みたいに、きゅっと、絶対に離さないと掌で伝える。

森の縁から村の道へ出る。踏み石は昼の熱を少しだけ残していて、足裏が安心する。見上げると星が粒を増やし、今夜は一段と明るい。祝福みたい、と思った。きれいね、と言うと、シズクは「きれい」と返す。声は短く同じ長さ、歩幅も同じ長さ、影が二本、並んで伸びる。途中、角を曲がるたびに灯りがひとつ、またひとつ増えて、家々の匂いが順に変わった。味噌、焼き魚、煮た穀。井戸のほうから笑い声がして、鈴が一度だけ鳴る。


私たちは、家に着くまで手を強く握ったまま、けっして放さなかった。

玄関前で立ち止まり、指先の力をほんの少しだけ緩める。

“また明日“

“うん、また明日”


戸を開けると、珍しく父と母が揃っていた。囲炉裏の火は落ちていて、代わりに卓上の灯が二つ、白い光を作っている。夜更けまで帰らない娘にはもう慣れたはずの二人が、今日は入り口まで出迎えてくる、なんだか珍しい。


「おただいま、父様、母様」

「お帰り、カンナ。……今いいかな、ちょっと大事な話があるんだ」

父の声はいつもより硬い。母は私の上衣の埃を軽く払って、座敷へ促した。私は草履をそろえ、手を洗ってから席に着く。父と母が向かい合うように座り、私の前には温い花茶が置かれた。湯気は薄くて、夜の匂いに混ざって、落ち着いた香りが立つ。


母が口を開く。

「カンナ、あなたに縁談のお話が来てるの」


花茶の湯気が、そこで少し揺れた気がした。

縁談の意味は知っている。けれど、私の中へは入ってこない。

 母は私の顔を見て、次を父に渡す。


父が続ける。

「相手は、水都カンナギの商人だ。こないだ村にきた時にお前を見て、一目で気に入ったらしい。ぜひ私の婚約者に、と、わしと母さんに、丁寧に話をしに来たんだ」


水都カンナギ。

その言葉が胸に広がる。湖の都、巫女様の座す場所、鹿人の首都であり神鹿の座す神聖な場所。もちろん私もずっと憧れていた。行ったことはないけどで言伝で何度も話を聞いた、布や器や香辛料、芸達者なものたちに祭の灯。神鹿に見初められ、“番”となった乙女がいるという話も、子どものころから何度も聞いた。

母の目の中にも、同じ憧れがうっすら浮かんでいる。父の声は少しだけ高くなって、機嫌のよいときの響きになっていた。


「向こうは支度もできていると言う。身なりも立派でね、話も礼儀もよかった。何より、水都の商いは安定している。お前を、間違いなく幸せにしてくれると思う」

「お見合いだけでも、どうかしら。すぐに決めなくていいの。顔を合わせて、お話をしてみるだけでも」

母の言い方は優しいけれど、灯の白さがその優しさを少し硬く見せる。私は花茶に口をつける。味はさっきより薄く感じた。舌は落ち着かない。指先は、さっきまでシズクの手を握っていた温度をまだ覚えている。


「……水都、カンナギ……」

口に出すと、憧れと現実が同じ言葉になって、胸の中でぶつかる。

父と母の顔が、期待と心配を半分ずつ乗せてこちらを見る。私は視線を卓に落とした。木目がまっすぐに走っていて、節がひとつ、黒く光っている。そこを見ながら、昼の草原と、夜の野原と、今の灯の色を、頭の中で並べる。


シズクの顔が浮かぶ。

草の輪。

指の震え。

「うん。ほどけたら、また結んであげるからね」と言った自分の声。

「ほどけない方がいいな、この思いが永遠に残るように」と笑ったシズクの声。

並んだ影。

星。

祝福みたいだと、同じ長さで言った言葉。


父が咳払いをひとつした。

「お前の気持ちを無視するつもりはないが、縁というのは待ってくれんこともある。水都の商人となれば、悪い話ではない。村のためにも、家のためにも……もちろん一番は、お前のためだ。考えておいてくれ」

母も、ゆっくり言葉を置く。

「あなたが笑って暮らせるなら、それでいいのよ。けれど、まずは、会ってみないと何も分からないでしょう?」


私はうなずくかどうかを、喉の奥で探した。

“会うだけ”。

“話すだけ”。

それはたしかに、決めることじゃない。けれど、ここから先に続く道は、どちら向きなのか。私はすぐには見えない。

視界の端で、自分の左手首がわずかに動いた。袖口を少し上げる。草の輪が、灯の白さの中で細く影を作っている。指で軽く触れる。結び目は、ちゃんとそこにある。

“帰る”。

“迷わない”。

さっき声に出した言葉が、胸の中にもう一度、落ちる。


「……お見合い……だけ、なら」

私は小さく息を吸って、言った。

「……うん」

渋々、というより、やっと出た音だった。父は大きくうなずき、母はほっと息をつく。私は花茶をもう一度口に運ぶ。さっきより味が戻る。喉は乾いていないのに、飲みたくなる。

「ありがとう。日にちは改めて知らせるそうだ。支度は家で手伝うから、心配いらない」

「着るものは私が見るわ。あなたに似合う布、しまってあるから」

二人の声はどこか嬉しそうで、私はそれを責めたいわけじゃないのに、胸の奥がきゅっとした。

私は笑う練習みたいに、口角を上げる。

「……うん。お願いします」


話が済むと、家はいつもの音に戻った。母は片付けをし、父は明日の天気を気にして外に出て、犬が一度だけ吠える。私は自分の部屋に引き上げる。戸を閉めると、夜の匂いが濃くなる。灯は小さくして、布団に入る。天井の木目は昼と同じなのに、夜は少し違って見える。

横を向く。

反対を向く。

仰向けになる。

まぶたを閉じると、今日の風景が順番を変えて流れた。朝の飼葉小屋、レレンの角、額飾りの彫り筋、シズクの朝ごはん、野の布、駆ける草原、雲の影、風の厚み、水袋の口を布で拭う指、丘の肩、練習の合図、子どもたちの笑い声、祠の鈴、夕暮れの灯、蛍、手の温度、草の輪、星、祝福みたいな夜空。

そして――水都カンナギ、神鹿様に、広大な湖、そして巫女様。見たことのない街の匂い、見たことのない人の声、私の知らない私、その時私の隣にいるのは誰なんだろう。私はどこへいけばいいんだろう、私は迷わないでいられる?


草の輪に、そっと指を引っかける。

ほどけない。

でも、もしほどけたら――また結ぶ、何度でも、そう決めたはず。

胸の奥の鈴が、かすかに鳴る。

“大丈夫”。

昼のシズクの声を、私は思い出す。

「私達はそんな水の流れに乗って自分達の都合のいいと思う時に止まればいい、後悔のないようにね」

明日、顔を洗って、朝ごはんを食べて、家畜の世話をして、レレンの頬を撫でて、シズクに会いに行って、そして――考える。考え続ける、今、どうしたいのか、どうするべきか。


私は大きく息を吸い、ゆっくり吐く。

吐いた分だけ、目の裏が熱くなった。涙は落ちない。落ちてしまえば、眠れるかもしれないのに、落ちない夜もある。

外で、誰かが遅れて戸を閉める音がした。どこかで鈴が一度だけ鳴る。風は弱く、雲は薄い。星は、さっきのままの場所にいるだろう。

布団の中で、私は両手を胸の上に重ねる。左手首の草の輪が、右の掌に触れる。やわらかい。少しだけ、冷たい。

私は目を閉じたまま、唇を動かさずに言葉を作る。

“二人の誓い”

“決して離れない”。

“ここにいる”

“あなたと”

まぶたの裏で、星がまた増える。眠気は近づいてくるのに、すぐには手を取ってくれない。胸の鈴は、もう一度だけ鳴る。

今日はちとも寝付けなかった。 ーーーー明日、どんな顔でシズクに合えばいいんだろう。


























      しかし運命を狂わす戦禍の歯車はカンナの知らないところで確かに燻っていた。

  


 

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